2019年03月22日

閑話休題。

こんにちは。バイオリンでセカンドを務めておりますIです。

音楽の話は皆さんされておりますので、僕はちょっと閑話的なことを書かせてもらおうかなと思います。


最近暖かくなってきて、道を歩いていると草花の芽吹きを感じますね。


僕は、もしもの時がきたらこういった草も食べなければいけないのかななどと考えながら足元の緑に目をやることが多いです。


タンポポやオオバコなど、葉が地面に近い位置にある植物は食べられることが多いようですが、土壌からの汚れを受けやすいので、食べるときはよく洗って、できれば加熱するのがよいでしょう。


よく花壇で目にするパンジーも実は食べることができ、特に花の部分を料理に添えることがしばしばあるようです。

他にもラベンダー、マリーゴールド、キンギョソウなども食べられるとのことで、一度花だけで作ったサラダとか食べてみたいなぁと思いました。


しかしよく考えたら桜や食用菊、タンポポなどの花は食卓でもよく目にするので、外国の花は食べられないというのは偏見かもしれませんね。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 23:05| Comment(0) | ちょっとしたつぶやき | 更新情報をチェックする

2019年03月17日

管楽器トレーナーレッスン♪

はじめまして!ホルンパートのIです。

先日の練習は、管楽器、弦楽器に分かれての分奏練習で、管楽器はトレーナーの先生によるレッスンでした。

2回に分けて管楽器のトレーナーの先生に、それぞれの曲を見てもらいます。

今回はベルリオーズ海賊、ニールセン交響曲第2番1,3楽章、シューマン交響曲第4番3,4楽章でした。

和音をたくさん取り出して練習する場面が多く、個人的にすごく勉強になるな〜と思ってます。

ユーモアを交えたお話が多く、楽しく和やかに、でもしっかり曲や吹き方についてレッスンを受け、有意義な練習となりました!
posted by みぽ at 10:27| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする

2019年03月12日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.03.09

 山形交響楽団が音楽監督・飯森範親の指揮でブルックナーを演奏(2019.03.09。山形テルサ)

まずは開演前のロビーコンサートでクラリネット2重奏で三善晃の『彩夢』を演奏。クラリネットの特性を生かした無から立ち上がるような様相と、緩急の極端な対比の凄み、そして、速いパセージでも常に魅惑的な和声が聴かれる点が良い。

 

 本プログラム1曲目はモーツァルトのオペラ『愚か娘になりすまし』のための交響曲。モーツァルト12歳の作品とのこと。3楽章からなるが、どれもバロック音楽を感じさせるリズムのはっきりした曲。特に第2楽章は、チェロが完全に休みになり(僕にはそのように見えた)、コントラバス1本が通奏低音として弾いており、なおさらバロック的に感じる。2本のホルンは古楽器を使用。それだけに分散和音が美しい。

 

続いてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ソロの金子三勇士が低音を豪快に打ち付けるパワフルな演奏。行進曲風の部分では、シモテに配されたコントラバスとカミテに置かれたティンパニがステレオ効果で伴奏を弾き、金子の豪快な演奏を盛り立てる。ホルン首席の根本めぐみが深くやわらかな音で、滑らかにつながったソロを吹いた。

 

 休憩後はブルックナーの魅力あふれる作品を続けて演奏。中でも、序曲と詩篇第112篇を続けて演奏するというプログラミングが秀逸。フィロムジカ42回定期の解説で僕が書いたとおり、この2曲は同時期の作品で、同じトランペットのファンファーレを含むという共通性がある。この見事なプログラミングを知ったとき、僕は本当に飛び上がって小躍りした。

ブルックナー三昧の1曲目は序曲ト短調。最初の発音こそ硬質な大音量で始めるが、ディミヌエンドを重視してすぐにカラーを柔らかく変化させ、荘重な中にも人間味のある柔軟さを持った音楽が展開されるであろうことを予感させる。そして、アダージョのテンポを重視した濃厚なチェロの歌でその予感を現実のものにする。ただし、楽譜通り最後に4分音符の一打ちで締めくくるティンパニによって構築的な印象も加えられており、その後の展開との整合性が取れている。

主部はアラ・ブレーヴェで振って大変な快速で飛ばす。アダージョが重厚だった分、そのスピード感が印象強い。そして、ピアニシモを重視した呟くような音量で、スタッカートを重視した乾いた音色。これがト短調という宿命を背負ったような悲劇性としっくりくる。この印象は、昨日ト短調のスケルツォを聴いた経験があることもプラスに作用している。この悲愴な弦楽器の弱音と比べると管楽器の打ち込みはかなり音量が大きく、弦楽器による「極限のピアニシモ」を敢えて打ち消しているようにさえ感じさせるが、これは全くブルックナーの指示通りに音量指定を守った結果だ。僕は、基本的にブルックナーの音楽に極限のピアニシモは似つかわしくないと思っているが、それはブルックナーの最初期の楽譜からもうかがい知ることができる、と自信を深めた。

大音量のトゥッティになると、特に上昇音型でピッコロの音色が効果を出すが、今日の演奏でピッコロが目立ったのはこの上昇音型だけ。かつて高関健/新日フィルで聴いた時ほどにはピッコロの音色を際立たせず、オーケストラ全体の中にブレンドさせていた。

 第2主題直前の弦楽器のうねりを程好くルバートして、テンポを落としてたっぷりと歌謡主題を歌い込む。第1主題の快速はこの第2主題の落ち着きを強調するためなのだと納得がいく。さらに素晴らしかったのは79小節目からの弦の伴奏。第1主題の乾いた音色のまま、重量感を以って一音一音弾き込み、濃厚な歌謡主題なのに重戦車のような堂々たる行軍をする、という破格の音楽になっていた。3番終楽章のポルカとコラールの同時並行のように、異質なものを並行させるのは最初期からのブルックナーの得意技だと分かる。アレグロに戻ってからは、とりわけ山響自慢のトロンボーンが深みのある音色で上昇音型を聴かせ、これだけで涙が出るほど感激した。

136小節目以降もやはり、弦の悲愴な「極限のピアニシモ」を管が打ち消す効果を発揮する。ここでは加えて、一音一音事細かに指定されたアクセントやクレッシェンドを忠実に再現することで滑稽味が出て、苛酷一辺倒では終わらせないブルックナーの懐の深さを感じさせる。

そして、クライマックスが雄大にフェードアウトしていき、「さあ、これから名手根本のホルン・ソロだ」と思った瞬間、とんでもないことが起こった。弦楽器が唐突にアレグロ主部の開始のようなスピーディーな音楽を弾き出したのだ。しかも、リズムは第1主題に似ているものの、旋律の動きはここまでで全く聴いたことの無いもので、苛酷だった第1主題とは対照的な明るく輝かしい音楽。やっと「初稿で演奏していたんだ!!」と気付いた。これは大変なことになった。この初めて聴いた初稿の印象は、最後の最後で意表をついて、躁的に明るく、そして構築的な堅牢さを持った音楽を以って第2のクライマックスを形成した、というものであった。ヴィオラから始まった長調の主題は、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、と重なっていって、数の増加による立派な盛り上がりを作る。最後はトランペットの印象的な3連譜と、それに続くフル・オーケストラの打ち込みで断ち切られる。そこから、聴きなれたホルン・ソロから始まる雄大なコーダとなる。確かにこの初稿だと、ホルン・ソロからの盛り上がりが唐突で、そして短すぎるように感じる。フェードアウトした静けさからそのままホルン・ソロが立ち上がる改訂稿の方が、(実際は同じ長さであっても)自然な流れの中で必要充分な長さのコーダになっている印象を受ける。確かにキツラー先生の指摘は的確なのだろう。

しかしながら逆に、「この初稿こそブルックナー本来の音楽だ!」と確信した。どんなに人間世界が苛酷でも、それとは関係なく神の王国は常に輝いているのだ、というのがブルックナーの変わらぬ作曲姿勢のはずだ。意表をついて突然長調になってからのかなり長いコーダは、ブルックナーが本来表現したかった結論である神の王国の輝きなのだろう。

さらに、「何かしてやろう」と最後の最後まで何がしか変化させようとするブルックナーの姿勢は、9番アダージョで最後の最後になっても5番からの引用を挿入するなど変化の手を緩めないブルックナーの姿勢とつながる。このブルックナーの姿勢は最初から最後まで一貫していたのだ、と思い知った。

初稿でこの曲を演奏した、ということはブルックナー演奏史に残る偉業だ。録音していたようだが、リリースされたら大変な価値がある筈だ。ひょっとすると初稿の日本初演、あるいは世界初演かもしれない。しかし、チラシにもパンフレットにもプレトークでも、初稿については何も触れられなかった。仮にこれまでに初稿で演奏されていたとしても、状況は似たようなものであろう。今日が本当に初演かどうかは、もはや検証のしようがない。

 

つづいて合唱団の山響アマデウス・コアが登壇し、僕が熱愛する詩篇第112篇。濃厚な印象を与えた序曲とは対照的に、速めのテンポでリズムの躍動感を重視した表現を一貫させる。冒頭の弦の上昇音型の最後の4分音符をスパッと切ったのが象徴的だ。飯森はモーツァルトを演奏するとき、「ドイツ語の発音が聞こえるような演奏を意識する」と言ったことがあるが(いずみシンフォニエッタでのプレトーク)、このドイツ語の歌詞を持つ曲でもドイツ語的なはっきりとした演奏を意識したのかもしれない。このような表現だと、田舎の素朴な信仰者たちが、村祭り的な感覚で、日頃から親しんでいる神さんを喜び勇んで賛美している、という雰囲気になる。また、3度繰り返される「アレルヤ」が、一回ごとに力を強めて3回目で結論となる、というドイツ音楽の鉄則(大植英次の公開指導より)に従って書かれていることも実感できた。

 一方で歌謡主題部分はテンポが速いままで力みが無く滑らかさを持った柔和な表現を実現。こうした表現がされたことによって、小気味良い木管の上昇音型が良いスパイスとして生きてくる。また同時に、力強い部分との対比も明瞭になり、テ・デウムを先取りしたような、弦と木管の刻みの上で決然と歌う部分もいっそう覇気のあるものに聴こえてくる。

また、ライヴで聴くとオーケストレイションの妙味も実に効果的だと分かる。序盤の、合唱への合の手が、木管のみから、弦と木管の合同へ、と発展する様は音楽の広がりを獲得する上で実に効果的。ここはブルックナーの推敲を重ねたことが自筆譜からうかがえるが、見事に成功している。

音楽が薄く厳しさをまとう部分では、山響自慢のトロンボーンが程好い存在感を出していた。また、ティンパニが、出番が限られているからこそ、少ない登場箇所で絶大な音響効果を出していた。

テンポが速いだけでなく、ブロックとブロックの間、例えば、オーボエの幸福感あふれるソロから始まる部分の始まりなどでも、全く間を開けずに突き進んだ。作曲家としての青年時代にあたるブルックナーの湧き上がりまくって押さえられない創作意欲のほとばしりを表現したのだろうか。さすがにフーガの前では一呼吸置いたが、やはりフーガも快速で、喜びが爆発したような表現になった。ブルックナーのフーガは、交響曲(5番、9)では荘重で厳粛で神秘的だが、多くの宗教曲では明るく幸福感に溢れ人間味豊かなのが興味深い。

 

続いて詩篇第114篇。この曲はオーケストラ(?)がトロンボーン3本のみなので、交響楽団の定期演奏会にプログラミングすること自体が難しい作品。これを敢えて取り上げたことに、いくら感謝してもし足りない。合唱が2群に分かれていた112篇では中央の男声の左右に女声を配していたが、この曲からは、男声の前に女声を配する並び順に変更。この方がよりブレンドされた声になる印象を受ける。トロンボーンは舞台中央にシモテからテナー、アルト(使用楽器はテナーだったが)、バスの順で並ぶ。

 112篇とは対照的に、遅いテンポで濃厚に、横の流れを重視した表現をとる。それでいながら合唱が音符の動きをクリアに歌っていて、冒頭から音楽が少しずつポリフォニックな厚みを増していく様相がしっかりと伝わってくる。

 山響自慢のトロンボーンは深みのある音色。ただし、常に感情を控えた冷静な演奏に徹し、合唱がクライマックスで感情豊かなフォルテを披露するのとは対照的。トロンボーンが合唱の音色的サポート役に徹したとも取れよう。が、それよりはむしろ、人間的感情に溢れた合唱と、気まぐれな人間感情の影響を受けない神の王国を3本だけで表現するトロンボーン、という対比がなされているように感じた。

 フーガでは、もともと遅かったテンポがさらに遅くなるが、これは奏者にとっても聴衆にとっても極めて妥当な判断だろう。オーケストラがあればヴァイオリンが弾くであろう速いパッセージをこの曲では合唱で表現しなければならない。それをクッキリと歌う(あるいは聴き取る)には相応の落ち着いたテンポが必要だと思う。そしてこのフーガでは、バスから順に交代交代で合唱に加わるトロンボーンが音色的にも視覚的にも実に効果的。終盤でバス・トロンボーンのみがオルゲンプンクトを吹く場面は、タイでつなげて演奏。今日の冷静なトロンボーンの演奏スタイルとしてはこれが正しいのだろうけど、一小節ごとにアクセント気味に吹き分けて盛り上げる解釈もあり得るのではないかな、とも思う。演奏機会が増えて様々な解釈を聴き分けられるようになったら嬉しい。

 

そして最後が、ブルックナー最晩年の傑作にして演奏機会稀少な詩篇第150篇。初期の作品も圧倒的だったが、この晩年の傑作を聴くとブルックナーがさらに凄い境地に達したことを思い知らされる。

 冒頭から、硬質の大音響を強調。特にテューバの存在が重要な働きをしており、まるでオルガンが加わっているかのようだった。

 濃厚な歌謡部分に入ると、複雑な綾を成す弦楽器の伴奏音型が効果を発揮。特に今日は古典配置だったため、線ではなく面として伴奏が聴こえてくる。特に、カミテに陣取った第2ヴァイオリンの8分音符の動きに、8分休符が入っていたのが印象的。昨日聴いた『夕べの音楽』と同様に、一瞬の休符にハッとさせられる魅力があるのもブルックナーの特徴だとの印象を強めた。フルートの天国的動きは、突出はしないが、美しいものが煌めくのがかすかに見えるような表現。また、ファゴットを中心とした中音域がそっと加わるのが実に温かい。

 75小節目以降は木管の3連譜が期待通りハッキリと聞き取れ、来るべきトランペットの3連譜の布石として説得力を持った。そしてそのトランペットは、3連譜だけでなく、その直前の4分音符の動きにも覇気がある。そしてその直後の頂点(97以降)では、ホルンのエコーが絶大な効果を発揮。しかも、2回目のエコーがより長い、という微妙な違いが、次への期待を高める効果を出していた。微細な違いで絶大な効果を出す、ブルックナー円熟の技だ。

 高橋和貴のヴァイオリン・ソロから高橋絵理のソプラノ・ソロへ、という流れは、堅牢で密度が高かった音楽が、いくつかの線が緩やかにまとまった音楽へと変化したことを音響的に「体感」させてくれる。両ソロに加えて、背景に徹した合唱や、細分化された音を吹く管楽器などの多くの要素が、緊密な結びつきではなく、同時並行的なざっくりとしたまとまりになったのだ。これでこの中間部分がエア・ポケット的な魅力を獲得した。僕はスコアを見たとき、「この一瞬のためにソプラノ・ソロを用意しなくても、合唱団員の首席がソロを歌えばよいのでは?」と思ったが、その考えは誤りだった。合唱団から離れた位置で、独立した存在感があるソリストが歌わないと、この音響は「体感」できない。

 フーガでは特にヴィオラなどオーケストラ楽器の中音域が温かい音色で合唱をサポートしているのが印象的。そして、やはり合唱もオーケストラも、人間的な豊かな感情に溢れていた。

クライマックスの巨大な半音階下降は、圧倒的なポリフォニーに対する圧倒的なユニゾンの妖艶さを実現していた。ファンファーレはトランペットよりもホルンを強調して英雄的な表現を取った。最後の音響は高音域を圧倒的に重視。扇情的な表現を取ったともいえるが、高音の延びが豊かな聖フローリアンの音響が再現されたように僕は思った。

posted by ちぇろぱんだ at 23:49| Comment(2) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする