2017年10月28日

遠藤啓輔のコンサート日記 〜2017.09.25

 ブルックナーの墓所であるサンクト・フローリアンでミュンヘン・フィルがブルックナーを演奏。指揮は先日に続いてゲルギエフ。開演前に、聖堂入り口にあるブルックナーの墓標に手を当て、年明けに序曲を演奏する旨を報告し、演奏の成功を願った。
 1曲目は交響曲第1番。聴いているうちにリンツ稿を使用していると判明。冒頭の刻みから重々しく、トゥッティになると天井画に描かれた劇的な世界が音になったような威厳が吹き荒れる。こうして聖堂内で聴いてみると、1番は最も宗教的厳粛さに満ちた作品であるような気がしてきた。第2楽章や、トリオ、第4楽章の展開部の一部など、広大な農村風景がちらつくが、基本的に聖堂内の厳めしさで曲が成り立っているように思われた。また、特にヴァイオリンによるリズム音型が音楽の背骨としてがっちりと作品を締めているのも印象的だった。合わせにくい聖堂内で、コンサートマスターが体で巨大オケを引っ張っていた、ということもあろうが、やはりリズムと弦楽器がブルックナーの骨格であることは再認識すべきだろう。前述の田園風景的部分でさえ、ヴァイオリンを中心とする弦の刻みが厳格な骨格をなしており、単なる柔和な表現とは一線を画した独特な音楽となっていた。
音響的にはフルートの響きが良く立ち、無垢な神聖さが引き立ったのが印象的だ。第2楽章のフルート3重奏の透明で穢れの無い美しさはもちろん、トゥッティの大音響の中でもフルートが高いところで舞っているのが見える。天井画の中で、嵐のような雲に隠れて、その上に天使がいるかのようだ。
 テンポ設定で驚かされたのはスケルツォ主部。先日の4番とは打って変わって、今日は猛スピードで押しまくる。残響が長く、横に狭いためにステージ上の配置も難しい(第1ヴァイオリンは4プルトで折り曲げていた)聖堂は、アンサンブルがしづらいが、その困難を敢えて押し通して凄まじい音世界を作ろうとしているようだ。結果、農民の踊りに例えられるこの楽章が、第1楽章などと同様の壁画的厳粛な世界に聴こえてきた。主旋律を担当する第2ヴァイオリンが、古典配置のため、第1ヴァイオリンとは異なる暗めの音色で聴こえるのも良い。
 また、先日の4番でもそうだったが、同じ音楽要素が再現されるたびに、基本テンポを微妙に上げ下げして、高揚感を(節度を持って)あおり立てたり、堂々たる重量感を演出したりしたのも印象的だった。

 2曲目は交響曲第3番。最終稿を使用していたと判断できた。序奏部分はトランペットも含めて、聖堂内の様々な天使たちが方々から発する楽器の音が模糊として集まりながら形を徐々に作り上げていくように感じられた。この非凡な音響を、楽譜を見ただけでイメージしたヴァーグナーはやはり偉大だ。
 3番は1番に比べてずっと田園的風景を思わせる要素が増えている。しかし、基層はやはり聖堂的厳格さにあるので、聖堂の壁が透けて柱越しに周囲の田園風景が見えるような、稀有な音楽体験ができた。
 第1楽章などに聴かれる、最終稿独特の(どうも好きになれない)トランペットの旋律も、こうして聖堂内で聴くと、上空の天使のトランペットが吹いているように聴こえて趣深い。壮大な壁画や天井画に囲まれた聖堂内で聴くには、旋律線が豊かになってストーリーを仮託しやすくなった改訂稿の方がより合うのかもしれない。ただし、初稿主義者の僕としては、前衛的音響が爆発する初稿こそブルックナーの異能が現れていると信じる。この壮麗な聖堂の素晴らしさを、さらに超えた異次元のところにブルックナーの凄さがあるということか。
 とりわけ感銘を受けたのは、やはり第2楽章。合わせにくい聖堂内では怒涛のシンコペーションが凄い状態になったが、この厳密には合わせ難い音響のカオスが、木漏れ日が明滅するような自然の風景に思われた。同時に、これをさらに微細にしたのがチェリビダッケ・トレモロなのではないか、と合点がいった。なお、ホルンの美音を吹いていたのは、まさかとは思ったが4番のソロを吹いたのと同一人物だった(前半の1番も当然のように首席を吹いていた)。ミュンヘン・フィルのホルン首席には怪物が就任する伝統があるようだ。
 逆に、同じシンコペーションでも、フィナーレ第3主題は全く逆の印象。聖堂内の反響のようだ、と形容されるこのシンコペーションが、本当に聖堂内で聴いたらどうなるのか、と戦々恐々だったが、意外にもゲルギエフは、ここでは正確さ最優先で演奏。いつもは痙攣しているように右手をゆすっていてカウントが見えないゲルギエフが、まるで別人のように両腕を器用に動かして打点を的確に示した。この箇所はコンサートホールで聴くのと同じように聴こえ、今日の演奏会の中でも最も引き締まって聴こえた箇所となった。
 フィナーレ第2主題のポルカは、陽気なミュンヘンのオーケストラは相当に暴発してくれるものだろうと予想したが、意外にも聖堂に似つかわしい生真面目な表現。ただしゲルギエフは、コラールは完全に管楽器の自発性に任せ、自らはヴァイオリンに対してのみ体を使って指示を出していたので、ポルカの表現にこそこだわっていたことは明らか。
 最後は聖堂内の天使たちが吹く無数のラッパが一斉に鳴り出したようなファンファーレとなり、トランペットの主旋律を導いた。まるで今回の旅の終わりにブルックナーがくれたプレゼントのようにトランペットが鳴り響いた。

 写真はサンクト・フローリアン
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遠藤啓輔のコンサート日記 〜2017.09.24

 せっかくの日曜日なので、ブルックナーゆかりのピアリスティン教会(ヴィーン)のミサを覗きに行く。ここのオルガンは、ブルックナー自らが演奏を希望したというオルガンなので、ブルックナーの音楽的美意識を探るうえで重要だ。ミサの中では、司祭の入退場や聖体拝領といった重要な場面でオルガンが弾かれた。このピアリスティン教会のオルガンの印象は、各音が明るくクッキリとした音色を持っている、というものだった。僕は日本のコンサートホールだけでなく、ヨーロッパ旅行の際に各地の教会でもオルガンを聴いてきた。中には音が混色しやすく、ポリフォニックな箇所になるとグジャグジャした大音響が鳴っているだけ、というオルガンもあったが、ここピアリスティン教会のオルガンはそうならないだろうと思われた(今日はそれほど複雑な曲を演奏しなかったが)。ブルックナーは綿密なポリフォニーがくっきりと分離して聴こえる音響を望んでいたのだろうと思われる。また、高音が良く響くのも印象的だった。低音ばかりがブンブン鳴る音響ではなく、飛翔するような高音がしっかり響くことをブルックナーが求めていたことが伺える。ブルックナーの作品にフルートが重要な働きをするものが多いのも納得できる。

 夜はコンツェルトハウス(ヴィーン)でヴィーン響の演奏会を聴く。指揮はNetpil。
 最初にブラームスの悲劇的序曲。落雷のようなティンパニの轟音が音楽に締まりを与える。また、久々の(笑)両ヴァイオリンをシモテに配した弦楽器配置だったが、カミテ外側に配されたにもかかわらず圧倒的存在感を放ったヴィオラの動きが音楽にエネルギーを与えていた。
 しかし、2曲カップリングされたドヴォジャークでこそ指揮者Netpilの本領が発揮されたように思う。
 まずは『テ・デウム』。以前、飯守泰次郎の指揮で聴いたときは、短い曲中に独唱や合唱、オーケストラの多様で魅力的な音を盛り込んだ高密度な傑作、という印象を持った。今日はそれに加えて、村祭り的な鄙びた賑やかさが大きな魅力になっていると感じた。野卑で豪快なリズム、打楽器群の賑やかさ、それらが、村人たちが信仰を腹の底から「楽しんでいる」様相を表現しているかのように感じさせたのだ。今朝覗いてきたピアリスティン教会でのミサは、民族衣装に身を包んだ老若男女がお楽しみ会を催しているような雰囲気であった。いわば(大都市ヴィーンの中ではあるが)村祭りとも言えよう。信心深い田舎人のドヴォジャークにとっても、信仰とは、心静かに居住まいを正してするものではなく、日常の延長上にある心躍る楽しみだったのではないか、そのように思われた。
 休憩を挟んで交響曲第6番。ドヴォジャークらしい光あふれる自然賛美の音楽が途切れることなく流れ続ける。ただし、どこを切り取っても魅力あふれる音楽であるこの曲の比類の無さが、同時に、この作品を演奏する難しさでもあると感じた。今日は曲のどの要素も差別なく魅力的に演奏され、音楽が滞りなく流れた。しかしそのために、「山場」と、そこへ至るまでの「道程」、の差異がなくなり、聴く上でのメリハリや緩急をつけ辛かったのが正直なところだ。逆にこれまで聴いた演奏の中には、「山場」と「道程」をはっきり色分けした演奏もあったが、そのスタイルだと多様な音楽要素をツギハギしたような散漫な印象が強く残った。魅力的であると同時に、演奏する上ではなかなかの難物の曲だ。

 写真はピアリスティン教会のオルガン
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posted by ゆかもん at 23:18| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遠藤啓輔のコンサート日記 〜2017.09.23

ヴィーンのカール教会でモーツァルトのレクイエムが演奏されることが分かったので、当日券を買って聴きに行く。カール教会で頻繁にコンサートがなされていることは以前から知っていて、いつか聴きに行きたいと思っていたが、ようやく願いがかなった。
 演奏者は合唱が20人未満、オーケストラは第1ヴァイオリン3人ほどという小編成だったが、これで充分すぎるほどだった。天井が高く、数多の彫像たちに彩られているカール教会の内陣は、残響が長く乱反射するのだ。そのため、まるで数百人の合唱団が歌っているかのような壮大な音響になっていた。また、弦の人数が少ないと金管とのバランスが気になるところだが、これも杞憂。そもそもモーツァルトはこの曲で、神の怒りが炸裂するような場面で金管のフォルテを使っているので、バランスを崩して金管が吠えるのがむしろ音楽の求めに合っていたのだ。管楽器はすべて古楽器を使っていたこともあって、荒々しい咆哮が一層様になっていた。
 ブルックナーがこの壮麗な音空間の中で送られたのだとおもうと、感慨深い。

 写真はカール教会の内陣
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posted by ゆかもん at 23:15| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする