2019年02月19日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.02.01

 新日本フィルがマルク・アルブレヒトの指揮でブルックナー5番を演奏(2019.02.01。トリフォニーホール)

 弦楽器はヴィオラをカミテに配するヴァイオリン両翼配置を取ったが、これが効果てきめん。トリオやフーガなどの第2ヴァイオリンが先行する場面で、第1ヴァイオリンとは異なる反射音を聴かせることで音色効果を出していたほか、ヴィオラが強調されるとブルックナーの音楽が一層引き締まるということも実感できた。

 全体に弱音を主体とした演奏で、冒頭から極限のピアニシモ。フル・オーケストラになっても、アタックはひたすら柔和で、伸ばしの音色も張らずに透明感を重視。そして、旋律線を歌い込むことが重視されたが、これも厳めしくならずに柔らかく歌われた。そうした一方で、各楽章でポイントを絞って鋭く厳めしい表現も披露。第1楽章ではM、第2楽章ではE、スケルツォ主部ではAの終盤とLの終盤、第4楽章ではVがそれにあたり、伴奏の弦楽器に鋭い音色を出させて楽章の中の頂点であることを印象付けた。スケルツォでは木管のベル・アップさえ見られた。

 テンポは全体に速めで、特にフィナーレのフーガでは風が吹き抜けるような印象を与えた。最後のコラールでも旋律線の途切れない流れが重視され、最後の音が終わっても長く静寂が続いた。

 ただ僕にとってこの静寂は、感動がもたらした静寂ではなく、呆気に取られての沈黙だった。マルク・アルブレヒトは空間の中の霊気を掴むかのようなしぐさをしてから客席を向いたが、少なくとも僕にはホール内に霊気があるようには感じられなかった。

 そもそもの疑問として、ブルックナーに極限のピアニシモは必要なのか? バルトークの弦打チェレスタやマーラーの9番であれば、このような生と死の極限にいるかのようなピアニシモは有効であろう。しかしブルックナーの弱音に求められるのは、心安らぐ優しさではないだろうか。少なくとも今日の演奏では、緊張を強いられこそすれ、心安らぐことはできなかった。我々が1か月ほど前に演奏したブルックナー5番が、如何にブルックナーならではの魅力を体現し得たものであったか、ということを再認識できたのが収穫ではあった。

posted by ちぇろぱんだ at 22:04| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.01.17

  音楽監督・尾高忠明による大阪フィル定期。我らが岩井先生も勿論ご出演。(2019.01.17。フェスティヴァル・ホール)

 1曲目は武満徹のTwill by Twilight。ありがちな武満演奏は透明で柔らかなものであろうが、僕はそうした武満像は物足りなく感じる。しかるに今日は、僕が理想とするカロリー満点の武満だった。響きが分厚く、旋律線もくっきりと浮かび上がっている。高見信行によるピッコロ・トランペットの立派な音色や、藤原雄一率いるホルン・セクションのベル・アップによる荒々しい響きもあって、エネルギッシュで新鮮な武満像を打ち立てていた。このような肉厚の響きの利点は、ディミヌエンドしても響きの豊かさが維持されることだ。曲の最後は消え入るように終わるが、その中に慈愛に満ちた音色が維持され続けていた。その昔の今日、夥しい命が喪われた。その魂たちを慰めているようにすら思われた。

 2曲目は神尾真由子のソロでブルッフのヴァイオリン協奏曲。僕が神尾を初めて聴いたのは彼女がまだ少女のころの2002年、同じ尾高指揮の大フィル(会場は旧フェスティヴァルホール)だったが、猛然たるパワーで切り込むドヴォジャークに圧倒されたのをよく覚えている。今日も同様に切り込むブルッフだった。その一方で、第2楽章のハスキーヴォイスのような渋い音色もまた素晴らしい。大フィルとの相性も素晴らしく、ソロもオケも同様の熱情をもって音楽のキャッチボールをしていた。神尾も、コンサートマスターのチェ・ムンスも、ロシア的な演奏をする人だが、そうした「ロシアの魂で演奏するドイツ音楽」は、まさに故・朝比奈隆の音楽と同じだ。世代を超えて継承された朝比奈の魂が爆発した熱演だった。

 そして、何と言っても今日の圧巻はエルガーの交響曲第1番。フィロムジカでも演奏した曲で、多様な要素が盛り込まれた演奏至難の曲であることを僕は身をもって知っている。しかし今日は、初めてと言って良い、盛り込まれた数多の要素の意味が理解できる演奏だった。例えば第1楽章の第2主題部のフルート副旋律など、「無くてもいいんじゃないの?」と思われるような要素を、無理に主旋律に合わせようとも存在を引き立たせようともせず、主旋律から遠く離れたところで独立独歩で存在させていた。これによって、まるで複数のオーケストラを同時に演奏させているような前衛的な効果を上げていたのだ。ブリテンの傑作『戦争レクイエム』における二重のオケと合唱の並行と同様の前衛性を、エルガーが既に成し遂げていたのだ。エルガーがイギリス音楽の祖として尊敬される理由がようやくわかった。特に第1楽章における、全く異なる要素の(木に竹を接いだかのような)連続も、二重並行の要素を分解して並列させたもののように聴こえて、腑に落ちた。

 中間楽章も勿論、素晴らしい。第2楽章の行進曲ではテヌートの粘り腰や、井口雅子のスネアドラムのクレッシェンドが圧倒的。第3楽章の最後ではロイド・タカモト率いるトロンボーンの弱音のシグナルがはるか遠くから、しかしハッとするような輝きをもって聴こえてきた。

 フィナーレは第1楽章で感じた前衛性が、よりはっきりとした形をとる。冒頭の弦楽器の末席によるソロが、まさに二重オーケストラ的な効果を出して幻聴のように聴こえてくる。また、ヴァイオリンをシモテに寄せる配置だったが、田中美奈率いる第2ヴァイオリンは、まるで古典配置のように、第1ヴァイオリンと異なる音色を出して響きの立体感を作った。クライマックスでは、幻聴のようだったイデー・フィックスが金管の高らかな演奏に様変わりするが、弦楽器が喧騒のような音を発し、ここでもまるで二重オーケストラのような前衛性を発揮した。

 エルガーが何故イギリス音楽史上で尊敬されているのか、その理由が初めて納得できた演奏会だった。

posted by ちぇろぱんだ at 22:03| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2019年01月01日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪~2018.12.29・30

音楽監督・尾高忠明によるベートーベン・ツィクルスの最終回は9番。我らが岩井先生も勿論ご出演。(2018.12.29・30。フェスティヴァル・ホール)

 大フィルのシェフになってからの尾高は、これまでの端正なイメージに、情熱を暴発させる破天荒さが加わったように思われる。今日のベートーベンも、第1楽章からインテンポを維持し、フレーズの終わりのカデンツも生真面目に決める形式美を堅持。しかしながらその形式の枠の中を、音楽のエネルギーが荒れ狂うように暴れまわる。たとえば宮田英恵率いる第2ヴァイオリンの轟然たる刻みが音楽に肉厚な魂を吹き込む。第1楽章での刻みの活躍は予想通りだが、第3楽章における刻みの凄みは予想外の素晴らしさだ。

 第2楽章では、中村拓美の地底にまで突き刺さるようなティンパニの音色が作品に相応しい。そしてトリオでは今日最高の美しい響きが聴かれた。トロンボーンを主体とした金管が2分音符を刻む場面で、通常の演奏では同じく2分音符を刻んでいるはずのヴァイオリンが、今日は全音符を弾いていたのだ。大フィルならではの「音それ自体が美しい」ヴァイオリンの響きと、その上に乗る神聖な金管の刻み、という立体的な美しさを実現していた。終演後に演奏者に確認したところ、新版の楽譜に拠ったとのこと。

 第3楽章は、第1主題部から第2主題部へと移る瞬間の妖艶な音色に魅了された。シベリウスを得意とする尾高の個性がこの一瞬に現れていたように思われる。また、野津臣貴博と大森悠の木管デュエットを頭一つ突き出して強調し、コンチェルト・グロッソ的な面白さを引き出す。一方で高橋将純のホルン・ソロは遥か彼方からかすかに聞こえてくるような柔らかい弱音が滑らかに流れる。

 第4楽章は、福島章恭が指揮者になってからの発展が著しい大阪フィル合唱団の魅力が全開。たとえば、テノール福井敬が先導するトルコ・マーチはバッカナール的に豪快。対照的にフーガの直前は、シベリウス的に静謐で妖艶な響きを聴かせる。また、尾高の特徴の一つは、バストロンボーンが鳴る直前の大合唱におけるスフォルツァンドの強調だが、これがトランペットのファンファーレと結びついていることがよくわかり、実に説得力があった。そして最後の合唱を支える弦楽器の全弓による伴奏の音色が素晴らしく、交響楽団と合唱団という2つの大阪フィルが一体となっての名演であることを刻印した。

 尾高忠明は個人的に非常に思い入れのある指揮者だ。僕の二十歳の誕生日をブルックナー9番の至高の名演で祝ってくれた恩人であり、朝比奈隆逝去後も大フィルのブルックナー・サウンドが健在であることをやはり9番で知らしめてくれた巨匠である。尾高忠明と大阪フィルという僕が最も愛する指揮者とオーケストラの、来年以降のさらなる活躍が楽しみだ。
posted by ちぇろぱんだ at 21:36| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする