2022年12月04日

シベリウスとティコの超新星(2022.12.04)

今回の演目のシベリウス「クリスティアン2世」組曲は、16世紀のデンマーク国王クリスチャン2世を題材とした劇付随音楽です。実在のクリスチャン2世は、一説によるとかなりの邪智暴虐な王様だったようですが、その頃日本でも戦国武将たちが血腥い争いを繰り広げていたことを思うと、洋の東西を問わず相通ずる時代相というものがあったのかもしれません。シベリウスの組曲で言うと、終曲の「バラード」はそうした荒々しい時代の雰囲気をよく表現していると思います。

ところでクリスチャン2世の存命中に、同じデンマークでティコ・ブラーエという著名な天文学者が生まれています。彼は現代物理学の礎を築いた巨人の一人ですが、デンマークの有力貴族でもあり、デンマーク王室の庇護のもと研究を進めていたようです。デンマーク国王一族とも面識があったはずですが、クリスチャン2世は彼が23歳の時に没しているため(また晩年クリスチャン2世は幽閉されていたらしいので)、本人と直接対面する機会があったかどうかは不明です。

ティコ・ブラーエは、1572年にカシオペア座の方角で、金星ほどにも明るく輝く新星を観測しています。これは天空は永劫不変であるという当時の世界観を覆す大発見でした。この新星ですが、現在の研究により星が一生の最期に爆発した姿だったことが判明しています。これをティコの超新星と呼び、今年は爆発から450周年の節目の年に当たります。

ティコの超新星を現代の望遠鏡で観測すると、爆発した星の残骸が飛散して膨張していく様子を、今でもはっきりと捉えることができます。実はティコの超新星は私の研究対象でもあって、つい先日ちょっとした発見があったので記者発表を行いました。まさか自分の研究対象が、自分の演奏する曲とこんなふうに繋がるとは思っても見ませんでした。面白い巡り合わせだと感じています。

超新星爆発のガス加熱確認 残骸を動画化 京都大

画像はこの間の皆既月食の(失敗)写真です。観測の鬼だったティコ・ブラーエを見習いたいと思いました。
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(チェロ U)
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2022年11月09日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.28)

 音楽監督・小泉和裕が指揮する名古屋フィル定期で、マーラーの交響曲第2番『復活』が演奏された(2022年11月4日。愛知県芸術劇場コンサートホール)。

 第1楽章で類稀な演奏が実現できたことで、今日の演奏が名演になることが早くも決定づけられた。この楽章の中には、地底を蠢く魑魅魍魎、神聖とは対極にあるような醜い悪魔、グレゴリオ聖歌風の厳めしい神聖さ、官能的で卑俗な歌謡、といった多彩な要素が封入されており、しかもそれらが異種並行的に共存している。そうした複雑な要素群が明晰に解析され、破格な密度を持って演奏された。

 そして、第1楽章では同時に鳴っていたそれらの要素を、後続の楽章で分化し拡大していることがよく分かった。すなわち、第2楽章は官能的で卑俗な歌謡でひと楽章を成しており、第3楽章はまさに魑魅魍魎と悪魔が主役だ。そして第4楽章は神聖さだけで描かれている。それらの要素が、第5楽章で再び同時に登場し、今度は異種並行というよりは坩堝で溶かされたように一体となって(金属板の乱打が、神聖さと溶け合った魑魅魍魎のようだ!)大団円を迎える、というストーリー構成がよく見えた。もしも、マーラーの指示通りに第1楽章の後に長いパウゼを入れたら、後続楽章にどのような印象の変化が生じるだろうか、と興味深く思った。

 小さな部分にも全曲を貫く説得力を感じさせた。例えば第2楽章の練習番号3で、安土真弓(ホルン)の刻みが主役の弦楽器以上に存在感を放っていて印象に残った。この「ホルンの刻み」が、第5楽章の練習番号18前後で「ホルンの刻みの咆哮」となって帰ってきた時には、大いに驚かされると同時に、長大な曲を貫く説得力を感じさせた。さらに、第5楽章のこの場面は魑魅魍魎と悪魔が乱闘を繰り広げるような苛烈な音楽なのに、ホルンの刻みを媒介にして第2楽章の愛らしく柔和な音楽を思い起こす、という不思議な体験までできた。後でスコアを確認すると、第2楽章の練習番号3は、ホルンの刻みには主旋律の弦楽器よりも大きな音量が指定されていたのだ!

 スコアを細部まで読み込んだ結果生まれた名演であり、マーラーの恐るべき深謀遠慮と、それを読み取った小泉の眼力に身震いする思いだ。

 そして全体として、土に根差した音楽、という印象を受けた。多くの旋律の歌い方が、良い意味で洗練されていない朴訥としたもので、宮本弦(トランペット)の静謐なコラールも、アクセントなどを程好く利かせてゴツゴツした味わいがあった。また、舞台裏の中央で演奏された金管のバンダも、地の底から魑魅魍魎が叫び声を上げたり、怨霊の軍楽隊が地中を行進しているかのような泥臭さがあり、舞台上の清らかな音と好対照で破格の広がりを出していた。

 そして、ロットを偏愛する僕には、今日の『復活』は「ロットの魂を慰める音楽」として伝わってきた。ロットから多大な影響を受けたマーラーだが、『復活』にはそれが最も顕著に表れている。何しろ、第3楽章にロットの交響曲の一部が完全にコピーされているのだ。今日、改めて聴いてみると、ロットからの引用にマーラーの意図が明瞭に表れているのに気づいた。ロットからの引用は第3楽章で2度登場するが、一度目の登場箇所の直後は、夢の中で祈るような幻想的な音楽になる(全体的におどろおどろしい第3楽章だけに、その天国的に雰囲気は異彩を放つ)。そして2度目の登場は楽章の終盤で、神聖な第4楽章へと続くのである(そもそも第4楽章のコラールも、明らかにロットからの影響が感じられる)。楽壇に恨みを残して夭折したロットの魂は、救われずに怨霊となって地をさまよっているのではないか。魑魅魍魎が跋扈する第3楽章でのロットの引用は、そうした悲しい思いの表現だろう。しかしそのロットの引用は、直後の滋味深いコラール(しかもロット風!)で慰められるのだ。「ロット君、君の音楽はこんなにも美しいんだ。誇り高く天国に行っていいんだよ」とマーラーが語りかけているかのようだ。

こうしてロット印象が刻印されると、今まで気付いていた以上に、この曲にロットからの影響があると分かる。とりわけ、終楽章の覇気に満ちた行進曲はまさにロット的で、「ロットの魂がマーラーに憑依してこの曲を書かせた!」とさえ思われてくる。マーラーがこの曲で『復活』させようとしたのは、友人ロットの音楽だったのかもしれない。昨年12月に名古屋フィルが川瀬賢太郎の指揮で史上空前のロットの名演を成し遂げてから、まだ1年経っていない。オーケストラの血肉に刻み込まれたロット演奏の記憶が、今日のマーラーの名演につながったと確信する。
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2022年10月30日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.28)

関西フィルハーモニーの定期演奏会を首席指揮者の藤岡幸夫が指揮して、日本の作曲家の作品だけで構成した意慾的なプログラムを聴かせた(2022年10月28日、シンフォニーホール)。
1曲目は、木島由美子『Pleuvoir~あめふり~』を作曲者臨席で演奏。2楽章構成の小品ではあるが、各々の楽章が複数のブロックから成り立っているので、長大で変化に富んだ大曲を聴けたような充足感がある。童謡風の朗らかな旋律と、ハープやグロッケンの明るい音色が印象的な一方で、低弦を中心にした硬質なベースラインが音楽を支えており、親しみやすさと構築性が両立している。管楽器は1管編成の木管と2本のホルンのみ、ティンパニも無し、という小編成のオーケストラの響きは、瑞々しさの中に少し濁りがあるのが魅力的で、ドビュッシーの管弦楽曲を彷彿とさせた。

 2曲目は伊福部昭のヴァイオリン協奏曲第2番で、独奏は大阪が生んだ世界の至宝・神尾真由子。冒頭からいきなり、神尾の攻撃的なソロに鷲掴みにされる。音楽への没入は、神尾の魅力であると同時に、没入のし過ぎでゆとりが無くなりかねないという弱点にもなり得る危うさをはらんでいる。しかし今日の神尾は、生命力が炸裂する伊福部の音楽に憑依したかのように没入すると同時に、その楽しさを遊ぶゆとりをも感じさせた。神尾の表現者としての凄みが更に深まった印象だ。そして印象的だったのは第2楽章。伊福部と言えば、密度の高いオーケストラの音が猪突猛進に突き進むのが魅力だと思っていた。しかしこの2楽章では、最小限の音の要素が、流れずに空間の中を漂っているような不思議な魅力を持っていた。伊福部という作曲家のスケールの大きさを再認識する必要に駆られる傑作だ。

 最後は、フィロムジカの歴史の中においても重要な意味を持つ、貴志康一の『佛陀交響曲』。冒頭の茫洋たるカオスの表現は何度聴いても(演奏しても)その見事さに唸らされるが、今日の藤岡/関フィルはそうした前衛的な音響を各所で強調。打楽器もまじえた喧騒のような音響をどぎつく表現していた。特にスケルツォ楽章はまるで打楽器アンサンブルのようだ。印象的なのは、そうした前衛的な音響はおおむね、主題部間の移行部分や展開部で用いられていること。主題部には耽美的な旋律を書いているので、形式美を実にうまく活かして、美しさと前衛性を両立していると言える。貴志青年の、老練な作曲技法だ。

 そして藤岡の演奏が見事なのは、特に前半楽章ではそうした前衛性を強調しつつも、終楽章では純音楽的な清澄さへと昇華していくという、曲全体を見通した大きなストーリー性を持っていたことである。もちろん終楽章でも、とてつもなく前衛的な不協和音が出てくる(僕は「釈尊の死を嘆く場面」だと思っている)。しかし、前半楽章が打楽器を中心とした雑音的な前衛性なのに対し、終楽章は和声による前衛なので、やはり純音楽的だと言える。カオスの世の中に誕生した釈尊が清澄な法を見出す、という崇高なストーリーと言え、これを音で描くことに成功した貴志は、やはり鬼才だ。
 要所で重要な働きをする赤松由夏のヴァイオリン・ソロは、オペラに長けているだけあって微妙な色彩感の変化に魅せられる。そして何と言っても今日の演奏で圧倒的存在感を放ったのは、中島悦子が率いるヴィオラだ。豪放に副旋律を吹き上げたかと思えば、伴奏に回れば猛然たるシンコペーションでオーケストラ全体に活力を与える。ステージの中心に陣取って、オーケストラ全体のエンジンとしての働きを見事に果たしていた。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする