2019年03月03日

3/3明倫ワークショップ♪

今回からブログを団員持ち回りで書くことになったそうです。ということで、初めまして、フルートのKです。
フィロムジカでは半年の活動中、3ヶ月を京都芸術センターの制作室をお借りして練習しています。ここを借りるには、すでに公演行うことが決まっていること、借りている間に地域の方に向けて活動を紹介するワークショップを行うことという約束事があります。フィロムジカではワークショップは団員有志によるアンサンブルコンサートを行っています。
桃の節句の本日、ちょっぴり雨模様でしたが定員20名のところ、18名のお客様をお迎えしてワークショップを開催しました。

今回のプログラムはこちら。

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知られざる名曲をお届けするフィロムジカにしては有名曲ばかり!?
いやいや。
メヌエットはフルートソロではよく演奏されますが、二重奏で聴く機会は滅多にないと思いますし、金管四重奏も原曲はトロンボーン4本の曲が、ホルン2本、トロンボーン2本、木管五重奏も普通はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンという編成ですが、ファゴットの代わりにバスクラリネット。そして木管、管楽九重奏はフルート2本、オーボエ、クラリネット、バスクラリネット、ホルン2本、トロンボーン2本という編成でメンバーのMさんの編曲によるフィロムジカオリジナルヴァージョンでした。名曲を珍しい編成でお送りしました!あ、フンクは知らない方も多いでしょうがチェロ弾きには有名な作曲家ということでした。

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お客様からいただいたアンケートは思っていたよりも好評をいただき、その後の練習も気をよくして臨むことができました。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 23:01| Comment(0) | 演奏会の様子&アフター | 更新情報をチェックする

2019年03月01日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.02.22

 ローター・ツァグロゼク指揮の読売日本響を聴く(2019.02.22。サントリーホール)

 初めにリームの「ins offene」。舞台上にはヴィオラ以下の弦楽器や木管、低音の金管、そして銅鑼や大太鼓を、カミテとシモテに離して配置。そして、ヴィンヤード式に環状を描く2階席の通路にヴァイオリンやトランペットや打楽器がぐるっと輪になって並ぶ面白い編成。図らずも日下紗矢子(ヴァイオリン)や田中敏雄(トランペット)といった名手が僕の席の向かい側にいたのは実に幸運。メロディーが全く無い作品で、持続音と、ホール全体を飛び交う音の連続で構成される。唯一旋律的と言えるのが、頻出する2度の上昇音型で、これだけでどこかバッハのマタイ受難曲を連想させる。そして、持続音は極めて和声的で悲しみを湛えている。2階ポディウム席の脇というイレギュラーな位置で弾いているのにもかかわらず、日下の音がしっかりと艶やかに聞こえるのはさすがだ。メロディーは無いがリズムは変化に富んでいて、時に静謐に進行し、時に扇情的になる。特に大太鼓の存在感が印象的。そして曲が始まって間もなくの、ツァグロゼクが指揮棒を止めたままの長大なゲネラル・パウゼの緊張感が凄かった。そして何と言っても、2階席で演奏される金属打楽器、とりわけ弓で持続音を出すサンバル・アンティークの高音の印象に圧倒される。京都で活動する僕にとっては、こうした高音の金属打楽器の音は祇園祭の囃子を連想させる、すなわち死者の魂を連想させる。マタイ受難曲の連想とも合わせて、死との繋がりを感じさせる深い内容の作品だった。

 後半はブルックナーの交響曲第7番。リームの後で演奏したことが奏功して、ブルックナーの前衛性に方々で気付かされた。例えば第1楽章の展開部、虚空の中でフルート・ソロを中心に淡々と延々と語り交わしが続けられるこの場面、よく考えたら、管弦楽曲とは思われないような前衛性がある。あるいはフルート・ソロが第2楽章コーダの葬送音楽では2本で重ねられる場面。一本のソロの虚空を切り裂くような力強さとは異なり、2本ユニゾンでは野辺送りのような茫洋とした寂しさとなる。この使い分けも実に凄い。また、第2楽章の最後の弦のピッツィカートは、リームにおける大太鼓のように、静謐の中にリズムのみで生命力を刻印するようで、これまた凄みがあった。また、僕は第2楽章に打楽器を入れるのは反対なのだが、今日の第2楽章の打楽器の炸裂は、明るい音楽なのに悲劇の頂点が刻印されるような逆説性を感じさせて、なかなかに説得力があった。

1楽章のオーケストレイションからノーヴァク版を使用していることがわかったが、ツァグロゼクがノーヴァク版のテンポ設定を自分のものとして完全に消化し、自然な形で音楽表現に生かしていたのが印象的だった。特に加減が難しい第1楽章の最後の加速を、無理やりな印象を与えない自然な高揚感をもって成功させていた。これは、要所要所で動的な印象を与える表現を取っていたことが成功の背景にあろう。基本テンポ設定は中庸なのだが、第1楽章第3主題や第2楽章第2主題を、まるで無邪気に遊ぶ子供のような躍動感をもって演奏したために、ゆったりとした流れを持った中に、動的な印象をも併呑させることに成功していたのだ。そしてこの動的な印象は、前半楽章と後半楽章の一体感を出すという、7番ならではの課題を克服することにもつながった。7番の演奏の中には、前半楽章と後半楽章を全く別の音楽と割り切ってしまったかのようなスタイルも散見されるが、今日のツァグロゼクの解釈は見事な統一感があった。この背景には、前述のような前半楽章における動機な印象ばかりでなく、スケルツォの演奏スタイルも成功要因として挙げられる。トランペットで提示されるスケルツォ主題は、たいていの演奏では、最初の2小節を高らかに吹くものの3小節目のリズムが曖昧にされる傾向があり、4小節フレーズの前半に重心が来て前のめりな軽い印象を与えてしまう。しかし今日は3小節目のリズムをきっちりとごまかしなく演奏していた。こうなると、4小節フレーズの後半に重心が来て、腰の据わった印象を与えることになる。今日のスケルツォは快速テンポだったが、主題の歌い方の印象としては重みを感じさせ、これが重厚な前半楽章との連続性をもたらすことにもなったのだ。

 また、第1楽章第1主題や第2楽章のコーダといった重厚なフレーズにも、広いスパンでのメッサ・ディ・ヴォーチェをかけることで、動的な印象を与えていた。これも自然な印象で、ディミヌエンドは「音を小さくする」というよりも「緊張感を少しずつ解き放つ」といった印象を与えるものだった。特に印象的だったのは第2楽章のコーダ。テューバ5重奏による葬送音楽にかぶさるホルンの慟哭を、ブルックナーは「2本のユニゾンで、可能であれば4本のユニゾンで」と指示しているが、ほぼすべての演奏が4本ユニゾンである。しかし今日は2本で吹き始めたのだ。「え、なんで4本で吹かないの?」と思っていたら、すぐその謎が解けた。4分音符で頂点を刻印する所からホルン2人を加勢させて4本に増やしたのだ。当然、ホルンが倍になることで巨大なクレッシェンドが実現する。無理やりヴォリュームを上げるのではない、自然体の見事なクレッシェンドを人数の工夫で実現したのだ。

 このようにフレーズの一つ一つを広がりのある抑揚によって生命力を出したのと同時に、各フレーズの接続部分では、これまた自然体のルバートで一呼吸を置き、次のフレーズを落ち着いて歌い始める、理想的なブルックナーの演奏スタイルを取っていた。例えば第1楽章のTの直前では、第1ヴァイオリンの装飾音型をコンサートマスター日下の見事なリードでテンポを緩め、高揚の極致にあった恍惚感を落ち着かせて、T以降の素朴で楽しげなリズムへと気分を切り替えた。この箇所に限らず、読響の弦はやはり見事。例えばスケルツォ主部の201小節目では、瀧村依里率いる第2ヴァイオリンが強烈な存在感を放って彫琢を深くした。またフィナーレの第3主題は、ありがちな連続ダウン・ボウではなく、返し弓で締めくくったところに好感が持てた。連続ダウン・ボウは格好は良いけれど、この箇所でそれをやると音楽の流れと躍動感が阻害される。そもそも徹底的に連続ダウン・ボウにこだわって楽譜に明記しているブルックナーが、この箇所にはボウイングを記入していない。これはすなわち「連続ダウン・ボウにするな」という意味に違いない。以前、下野竜也から聞いた話では、このボウイングは読響の伝統だとのこと。よき伝統をこれからも引き継いでもらいたい。そして全曲の終わりでは、弦のトレモロが完全に響きの主役となり、その彼方からトランペットがかすかに響いてくる、という理想的なブルックナー・サウンドで締めくくられた。

 短めに音を切った後の静寂には、良いブルックナーを聴けた後にだけ体感できる、空気の中に霊気が充満しているかのような心地よい痺れを感じられた。楽員がハケても拍手は鳴りやまず、ツァグロゼクを誰もいなくなった舞台に引き戻した。むべなるかな。

posted by ちぇろぱんだ at 22:41| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.02.20

 アマービレ・フィルの演奏会。指揮は元・大阪フィル首席フルートの榎田雅祥。

 初めにメンデルスゾーンのイタリア交響曲。会場が兵庫県立芸術文化センター(PAC)の小ホールなので、ヴィオラとチェロは各1プルト、コントラバスは1人という少人数。弦の人数を絞り込むと、今まで弦の大音量にかき消されて気付かなかった木管の動きが明瞭に聞き取れて面白い。PAC小ホールは、室内楽用ホールとしては東京文化会館と双璧の音響を誇ると僕は思っているが、そこで管弦楽曲を聴くのも実に楽しい。

 後半は福澤里泉のソロでブルッフのヴァイオリン協奏曲。この曲は先月も神尾真由子のソロで聴いたが、切り刻むような激しさと鋭さを前面に出していた神尾とは逆に、福澤はゆったりとした歌を豊かに届ける演奏。アタッカでつながった1・2楽章で頻出する濃密な歌が、太い流れでつながって聴こえる。特に、半音階進行する部分ではめくるめく色彩を感じさせた。

このように歌を重視した演奏だと、切り刻むような鋭いフレーズの存在感がかえって際立ってくる。第1楽章の第1主題では、アウフタクトの荒々しい力強さや連続ダウン・ボウの迫力が強く印象に残った。この第1楽章での印象が、終楽章へと見事につながった。遅めのテンポで丁寧に弾かれた終楽章では、アウフタクトの力強さやリズムの躍動感が印象的で、それが第1楽章で強く刻印された力強いイメージとつながって巨大なループを描いた。

また協奏曲は、ソリストとオーケストラ(あるいは指揮者)が目指す音楽の方向性が逆を向いていると残念な演奏になるが、今日は福澤とアマービレ・フィルが一体感のある演奏を繰り広げた。中でも歌謡性のある旋律の表現がソロ、オケともに素晴らしく、特に、福澤とホルンの名手・木山明子の二重唱は音色の溶け合い方も含めて魅了された。

歌としての音楽の魅力と、形式を持った構築物としての音楽の魅力、その双方を満喫できた演奏会だった。

posted by ちぇろぱんだ at 22:39| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする