2020年07月17日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.07.16

延原武春率いるテレマン室内オーケストラの演奏会(2020.07.16、中之島の大阪市中央公会堂・中集会室)。
 もともと人数の少ないテレマン管が、さらに人数を絞り込んだ。弦楽器は各セクション2人(低弦はチェロとベースで合わせて2人)。弦楽器の左右の背後に、木管を2枚リードとそれ以外とに分けてステレオ配置。中央奥にトランペットとティンパニ(この3人だけ古楽器を使用)が陣取る(今日のプログラムのベートーベンは終盤にファンファーレがあるので、中央から力強く聞こえてきて効果的だ)。そして、チェロとティンパニ以外の全員が起立して演奏した。
 1曲目はサリエリの『オーラス兄弟』序曲。木管は2枚リードのみ、金管はホルンを使わずトランペットとティンパニのみ、という面白い編成。全体の核となるトランペットのファンファーレの旋律線をオーボエで補強しているというのが今日の配置だと良く分かる。明るく若々しい作品で、理屈抜きで楽しむことができた。
 続いて、ベートーベンの交響曲の第1番と第2番を(休憩をはさんで)続けて聴くという贅沢なプログラムを楽しんだ。弦楽器と木管が同じ人数というこの編成でどんな響きになるだろうか、と興味惹かれたが、やはりベートーベンは凄い、この人数ならではの楽しさがあった。改めて聴いてみると、ベートーベンのオーケストレイションは弦楽器と管楽器を対比的に扱っており、「弦が管楽器に隠されて聞こえなくなる」という場面がそもそも無いのだ。ベートーベンの構築的な音楽の立派さを改めて思い知らされた。
 また、チェロが主旋律を弾く場面では必然的にソロになってしまうので、コンチェルトグロッソのような雰囲気になり、バロックから続く音楽の歴史上にベートーベンもいる、と感じられた。一方で、ティンパニの独立した扱いは第1番の段階で既に大胆であり、早くも「ティンパニ協奏曲」的な前衛性があった。
もちろん、テレマン管の演奏スタイルも良かった。音の出だしはクリアに立ち上げるが、その後はあまり音を張らずに中集会室の芳醇な残響に任せる。これによって音が混濁せず、少ない人数ながらもそれぞれのフレーズがくっきりと浮き上がった。このホールを使いこなしているこのオケならではの表現だろう。
 交響曲第1番では、第3楽章のトリオで第1ヴァイオリンをリーダー浅井咲乃のソロにしたのが効果的だった。もともと管楽器主体に書かれたこのトリオ、ハルモニームジークにヴァイオリン弾きが即興で一人加わったかのような楽しさが強調された。フィナーレの冒頭もやはり浅井のソロにしていた。渋く深い浅井の音色が、「東西東西!これから楽しいフィナーレが始まりますよ」と自慢の美声を響かせる弁士のように思われて、楽しいベートーベンの音楽がいっそう楽しくなった。疾走する主部に入ってからも、弦楽合奏を時おり首席のみの四重奏にするなどの遊びを見せた。一方でトランペットは臆することなく強力なスフォルツァンドを鋭く決めるので(野太い音が違和感なく少人数オケに溶け込むのは長管の強みだ!)、このダイナミクスの幅は巨大編成オケに勝るとも劣らない。
 交響曲第2番は、トランペットとティンパニを休ませた第2楽章の音響効果が印象的。クライマックスでは『田園』を先取りしたような幸福感を得られた。そしてこの音響効果の印象は、第3楽章のトリオにおいてビックリさせるようにトランペットとティンパニが入る意外性を強調する役割も果たしていた。
 制限下でのコンサートが始まってからベートーベンを聴く機会が増えたが、今日もまた、制限下だからこその面白いベートーベンを聴けた。ベートーベンの音楽はその強靭さが、制限が大きければ大きいほど光り輝くのかもしれない。アンコールでは、フルート奏者の一人がトライアングルに持ち替えてトルコ行進曲を演奏。楽しいコンサートを最後まで楽しく盛り上げてくれた。
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2020年07月11日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.07.09

 ミュージック・アドヴァイザー秋山和慶が先月に続いてセンチュリー響に登壇(2020.07.09。シンフォニー・ホール)。
 1曲目はヴェーバーのオベロン序曲。間隔を広くあけて着座しているため、冒頭の日高剛のホルン・ソロと伴奏の弦楽器との間に文字通りの距離があり、「遥か彼方から聞こえてくる角笛」という雰囲気がいっそう強化された。この効果は木管群が加わってからも同じで、離れたところにいる妖精たちと声を交わしあっているような印象を受けた。主部に入ってからも、離れて着座した各奏者がしっかりと音を出しているためか、実際の人数以上に充実した印象の肉厚な響きが出ていた。
 2曲目は今日もっとも楽しみにして来たショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番で、独奏は俊英・佐藤晴真。冒頭、チェロのソロで、涙が一滴こぼれ落ちるような下降音型を核とする動機を弾き始めると、それがオーケストラに受け継がれ発展する。そのメロディーのタコ臭くてグロテスクなこと!まさにショスタコを聴く至福だ。第1楽章はラルゴの遅い音楽だが、荒井英治率いる弦の伴奏のシンコペーションの生気のおかげで程好く動的。グロテスクな容貌はそのままに、おもちゃ箱のように猥雑な軽快さを持った音楽に豹変する場面では、先日リバイバル上映を観た『AKIRA』の、可愛いクマの縫いぐるみが強大な怪物に変貌する場面を思い出した。もちろん両者に関連はないだろうけど、ショスタコーヴィチの音楽は映像的だ、ということが表れていると思う。そして、晩年のこの作品にはショスタコーヴィチならではの様々な要素が溶け合っているのを感じる。大太鼓の印象的な連打は、マーラー10番へのオマージュではないだろうか。そして終盤の打楽器群による死を刻む時計は、明らかに自身の4番シンフォニーの引用であり15番シンフォニーの先取りだろう。この打楽器をロングトーンで支えながらやがて孤高に姿を現す最後のソロ、佐藤の凛としたクレッシェンドは、冒頭の涙の音型が逞しく変貌した姿に見えた。全体として、佐藤もセンチュリー響も、ショスタコーヴィチならではの乾いた美しさを見事に表現していた。たとえば日高のホルンは、ヴェーバーでの柔らかな音色とは全く異なるテヌート重視の音質で、音楽の構造が生々しく眼前に展開するようだった。そして佐藤のソロも、時として深々とした低音を聞かせつつも、基本的にはホールの残響と敢えて手を切るような乾いた音色で、ショスタコーヴィチの厳しさを表現していた。見事である。
 しかし佐藤の表現者としての力量がさらに遺憾なく発揮されたのは、アンコールの『鳥の歌』だったかもしれない。美しい楽器の音というよりも、むしろ腹の底から絞り出した肉声のような音をホールに満たした。思うにウィルス禍が悲しいのは、病気の流行というだけでなく、そのことが人類の醜さとおぞましさをあぶり出してしまったからではないのか。この悲しみは、カザルスが感じた悲しみと同類だろう。ホールを満たしたチェロの音に、世界に対して青年が直截に感じている思いが発露していたのではないかと感じた。そして、今日のこの歌の中には、淡い淡い希望がこもっていたようにも思われた。
 休憩をはさんで後半は、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』。シベリウスを得意とする秋山なら清涼な演奏を楽しめるだろう、と期待したが、その予断がいかに一面的に過ぎないものだったかを思い知らされる超絶的な名演だった。秋山は各楽章の主要主題を静謐に寡黙に演奏したが、これによって僕たち聴衆はいつも以上に注意深く耳を傾けることになる。そして、このスタイルの真の効果が生きたは再現部であった。再現部も同様に静謐に演奏されるが、提示部には無く再現部にだけ加えられた副旋律が、妖艶な光を放って僕たちを魅了したのだ。注意深く提示部を聴けたからこその、再現部の感動である。ソナタ形式を見事に生かしたメンデルスゾーンの作曲の技と、それを見事に再現した名匠・秋山の双方に感嘆した。また第2楽章では、距離を取って着座したことで、冒頭の応答が四方八方から木魂が聞こえるかような面白い効果を出していた。またこの楽章では、フル・オーケストラで主題を演奏する部分の迫力が凄かった。今までこの部分は「ホルンにこんな無茶をさせるのか!」という印象ばかりが強かったが、今日はホルン以上に安永友昭のティンパニの轟音が衝撃的。結果、旋律線の動きが不明瞭になるが、この場面はメロディーを聞かせる箇所ではなく轟音の迫力を聞かせる場面、いわばベートーベン9番のフィナーレ冒頭と同じだ、と納得した。ベートーベンがそうであるように、メンデルスゾーンも永遠に前衛的な音楽だと実感した。しかし今日の圧巻は何といっても、フィナーレのコーダだ。主部のテンポからすると明らかに遅いテンポで、覇気のある充実した音楽を堂々と進め、程好く加速しながら希望にあふれた生命力を持って終わった。
 前半プログラムの終わりが青年の発した悲痛な告発であったとすれば、後半プログラムの締めくくりは老巨匠による「大丈夫だよ」という回答であったように感じた。人類の未来が大丈夫である保証はどこにもない。しかし、忌まわしい排斥の歴史を生き延びてきた作品を、人生の大先達が指揮して「大丈夫だ」と語らしめたのだ。信じてみても良いのではないか、という気がしてきた。

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2020年07月01日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.06.29

 センチュリー響に、ミュージック・アドヴァイザーに就任した秋山和慶が登壇しベートーベンを演奏(2020.06.29。シンフォニー・ホール)。第1ヴァイオリン8人型のオーケストラを、各奏者の間隔を広く開けて配置していたが、センチュリーはもともとどんな曲でも少ない人数で対応する楽団なので、ウィルス禍前と視覚的な違和感があまり無い。ただし、内側に陣取る第2ヴァイオリンとチェロのみ、一昨日の関西フィルと同様に第1プルトが首席一人になっていた。管打楽器は、雛壇上には木管とティンパニのみを乗せ、平土間にホルンとトランペットをステレオ配置にしていた。
 秋山は、例えばウォルトンの大曲やオネゲルの難曲におけるパーフェクトな名演も記憶に残る一方、独特の色彩感を見事に描き起こしたシベリウスも思い出深い。そうした秋山らしいベートーベンで、前衛的な和声を滋味深く響かせ、鷹揚な歌を基調にしつつも要所をかっちりと締めていた。センチュリー響もこうした秋山の表現を見事に実現していた。後藤龍伸率いる弦楽器が連続ダウン・ボウを印象的に演奏し、硬質なポイントを形成していた。また、広く分離していることでかえって弦の各パートが明瞭に聞こえ、特に骨格形成で重要な役割を果たす池原衣美率いる第2ヴァイオリンの存在感が光った。管楽器では特にホルンが表現の多様さを見せ、木管に柔らかく溶け込んだかと思えば、金属的な咆哮でシモテから威圧もする。また、2番・三村総撤の底力のある低音から、1番・水無瀬一成の甘美な高音へのソロのリレーでは、ベートーベンがホルンの多彩な音色を生かしてオーケストレイションしていることが良く分かった。
 1曲目は伊藤恵の独奏でピアノ協奏曲第4番。第1楽章冒頭の伊藤の柔らかな音が最初の波紋となり、それが湖面で美しく乱反射するような印象を受けた。第2楽章は逆に、オーケストラの厳めしい動機を発端にして伊藤との応答となっているのがよくわかり、第1楽章と第2楽章がポジとネガの関係になっていることに唸らされた。伊藤は軟らかい表現での瑞々しい響きも素晴らしいが、何よりも、覇気のあるパッセージにおいて華があるのが印象的だ。そしてフィナーレでは、北口大輔のチェロ・ソロの深々とした音色が圧倒的だった。前述の通り首席が一人目立つ配置だったので期待してはいたのだが、まさかこれほどまでの存在感が出るとは!
 伊藤のアンコールはシューマンのトロイメライ。インテンポの演奏で、こうしたスタイルだと要所を締める和声の斬新さがかえって引き立つ。
 休憩後は交響曲第3番。冒頭の2発の後、ほんの少しだけ溜めて第1主題に入った。ここで予告されたとおり、テンポに自由さを持った演奏だった。また、第1主題を3拍目を強調して歌いうなど、旋律の歌い方にも躍動感があった。圧巻は第2楽章で、フーガが躍動感にあふれていた。安永友昭の動的なティンパニの生命力にも大いに興奮させられた。
posted by ひつじ at 21:12| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする