1曲目は、木島由美子『Pleuvoir~あめふり~』を作曲者臨席で演奏。2楽章構成の小品ではあるが、各々の楽章が複数のブロックから成り立っているので、長大で変化に富んだ大曲を聴けたような充足感がある。童謡風の朗らかな旋律と、ハープやグロッケンの明るい音色が印象的な一方で、低弦を中心にした硬質なベースラインが音楽を支えており、親しみやすさと構築性が両立している。管楽器は1管編成の木管と2本のホルンのみ、ティンパニも無し、という小編成のオーケストラの響きは、瑞々しさの中に少し濁りがあるのが魅力的で、ドビュッシーの管弦楽曲を彷彿とさせた。
2曲目は伊福部昭のヴァイオリン協奏曲第2番で、独奏は大阪が生んだ世界の至宝・神尾真由子。冒頭からいきなり、神尾の攻撃的なソロに鷲掴みにされる。音楽への没入は、神尾の魅力であると同時に、没入のし過ぎでゆとりが無くなりかねないという弱点にもなり得る危うさをはらんでいる。しかし今日の神尾は、生命力が炸裂する伊福部の音楽に憑依したかのように没入すると同時に、その楽しさを遊ぶゆとりをも感じさせた。神尾の表現者としての凄みが更に深まった印象だ。そして印象的だったのは第2楽章。伊福部と言えば、密度の高いオーケストラの音が猪突猛進に突き進むのが魅力だと思っていた。しかしこの2楽章では、最小限の音の要素が、流れずに空間の中を漂っているような不思議な魅力を持っていた。伊福部という作曲家のスケールの大きさを再認識する必要に駆られる傑作だ。
最後は、フィロムジカの歴史の中においても重要な意味を持つ、貴志康一の『佛陀交響曲』。冒頭の茫洋たるカオスの表現は何度聴いても(演奏しても)その見事さに唸らされるが、今日の藤岡/関フィルはそうした前衛的な音響を各所で強調。打楽器もまじえた喧騒のような音響をどぎつく表現していた。特にスケルツォ楽章はまるで打楽器アンサンブルのようだ。印象的なのは、そうした前衛的な音響はおおむね、主題部間の移行部分や展開部で用いられていること。主題部には耽美的な旋律を書いているので、形式美を実にうまく活かして、美しさと前衛性を両立していると言える。貴志青年の、老練な作曲技法だ。
そして藤岡の演奏が見事なのは、特に前半楽章ではそうした前衛性を強調しつつも、終楽章では純音楽的な清澄さへと昇華していくという、曲全体を見通した大きなストーリー性を持っていたことである。もちろん終楽章でも、とてつもなく前衛的な不協和音が出てくる(僕は「釈尊の死を嘆く場面」だと思っている)。しかし、前半楽章が打楽器を中心とした雑音的な前衛性なのに対し、終楽章は和声による前衛なので、やはり純音楽的だと言える。カオスの世の中に誕生した釈尊が清澄な法を見出す、という崇高なストーリーと言え、これを音で描くことに成功した貴志は、やはり鬼才だ。
要所で重要な働きをする赤松由夏のヴァイオリン・ソロは、オペラに長けているだけあって微妙な色彩感の変化に魅せられる。そして何と言っても今日の演奏で圧倒的存在感を放ったのは、中島悦子が率いるヴィオラだ。豪放に副旋律を吹き上げたかと思えば、伴奏に回れば猛然たるシンコペーションでオーケストラ全体に活力を与える。ステージの中心に陣取って、オーケストラ全体のエンジンとしての働きを見事に果たしていた。