2020年07月20日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.07.17

 関西フィルの舞台に首席指揮者・藤岡幸夫が帰ってきた(2020.07.17。シンフォニー・ホール)。
 1曲目はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。冒頭、瑞々しく扇情的な響きに魅了されると同時に、6つに細かく振る藤岡の指揮姿も印象的。これらから、ショスタコーヴィチの『レニングラード』第3楽章冒頭を連想した。ショスタコーヴィチのもっとも美しく悲痛な響きの源泉になっているとは、チャイコフスキーはやはり偉大なのだろう。各楽章の終盤では中島悦子率いるヴィオラが肉厚な音色でコラール風の動機を強く印象付け、音楽の充実感を増す。また、3楽章までの各楽章はいずれも3拍子系で書かれていることを活かして、自然な生命の律動がある演奏をしていた。対照的に2拍子のフィナーレは、躍動的でありながらも硬質で構築的印象を与えた。第1ヴァイオリンの刻みの背後からセカンドヴァイオリンの旋律がにじみ出てくる様も迫力があり、音高順配置もまた独自の面白さがあると感じた。赤松由夏のリードでクレッシェンドの方向性がしっかりしていて、フレーズにメリハリがあった。

 休憩をはさんで後半は、藤岡の十八番であるシベリウス。関フィルが誇るリーダー岩谷祐之がソリストとして登場し、ヴァイオリン協奏曲の改訂稿を演奏。岩谷のヴァイオリンと言えば、シュトラウスの『4つの最後の歌』の終曲における、諦念と開放感が一体となった見事なソロが忘れられない。
 冒頭、刻みを敢えて揃えずに表現した静かなさざ波の上を、やはり静かに岩谷のソロが立ち上がる。線の細い音でポルタメントやハーモニクス的音色が利いており、怪にして妖。日本のシベリウス受容史の画期の一つであるヴァンスカ/ラハティ響のツィクルスで聴いた、クーシスト弟の演奏によく似ている。岩谷はソロだけで動く部分は、小節線を感じさせない自由な動きをしつつもそこに流れがある、まるで武満のような音楽を展開していく。こうした表現をすると律動的なオーケストラ部分との接続が問題になり、下手な演奏だとソロとオケの無秩序な継ぎ接ぎになりかねない。しかし流石はシベリウスを十八番とする藤岡、両者の往来が実にスムーズで一体感がある。むしろ、時間が制止したような音楽(ソロ部分)と律動的な音楽(オケ部分)が一つの宇宙を形成する、交響曲とも音詩とも異なる唯一無二の位置を占めるシベリウス作品としてヴァイオリン協奏曲が君臨したように思われた。僕がこの曲の改訂稿が好きになれない理由の一つは音楽として整い過ぎているのが物足りないからだが、シベリウスに入れ込んだ演奏家の手によればこれほどまでに途方もない異次元の音楽になり得ることに驚いた(同時に、藤岡がもしも初稿を指揮したらどこまで途方もない音楽になるのだろうか、と興味が湧く)。岩谷は、1楽章のソロの見せ場であるラルガメンテでも静かなスタイルを維持、よって、力強さではなく妖艶さが際立つ。むしろここで力強さが際立ったのは中島悦子のヴィオラ・ソロ。岩谷が奔放な野生児であるとすれば、中島はそれを人知れず見守る森の神のような威厳あるイメージが湧く。さらに、3回繰り返される中島のソロの終わり部分に驚かされた。Fの音につけられていたフラットが、3回目のみナチュラルになることで、メロディーがフワッと明るくなる効果が絶大だったのだ。厳めしい顔をしていた森の神が、去り際に突然表情を崩して柔和な笑顔を見せたようなイメージが湧いた。半音1個の違いだけでこれほどの効果を出す、シベリウスの凄さを改めて思い知らされた。藤岡と何度もシベリウスを共演してきた関フィルは、音それ自体にシベリウスならではの美しさが出ている。例えば、岩谷のソロを支えるコントラバスやホルン、オーケストラの背後に流れるトランペットなど、静かなロングトーンにシベリウス独特の空気感を表現する美しさがあった。そしてもちろん、シベリウス独特の和声も妖艶に決めていた。
 第2楽章はヴァイオリンの無伴奏部分が無いので第1楽章のような途方もない巨大さにはなり得ないが、はやり岩谷は音楽という次元を超越した表現をしていた。例えばこの楽章に頻出するメッサ・ディ・ヴォーチェがついた短い動機は、音楽というよりも言葉を語っているように感じられた。
 第3楽章は静謐だった前2楽章とは対照的な力強さが目立つ。岩谷は、音量は前楽章と同様に静かなまま、音質を硬質なテヌートにすることで、静けさの中に秘めた力強さを実現(「シス」を表現しているようだ!)。そしてオーケストラの力強さも印象的。例えば、ゲシュトップ・ホルンが豪放に強調されたが、それに合いの手を入れる低弦の力強さがホルン以上に印象的で凄まじい野性味があった。また、この楽章に特徴的な、弦の第1プルトのみによるリズム伴奏に、トゥッティに勝る力強さがあった(各人の音がクリアに際立つからか)。一方で、フィナーレに相応しく、先行楽章を彷彿とさせる表現も有った。例えば印象的なソロのハーモニクスは、楽譜の指示とは関係なくハーモニクス的な表現を多用していた1・2楽章に回帰したような印象を受けた。岩谷の個性的な表現が、見事に説得力ある音楽へと結実していたのだ。また、前進しようとするオーケストラの伴奏に対し、岩谷のソロがブレーキをかけるように遅く演奏しようとする部分も印象的だった。モーツァルトなどのコンチェルトでこれをやられたら興醒めだが(これがまた多いんだ!)、今日の場合は音楽の説得力につながっていた。なぜなら、第1楽章でソロとオケが全く異なる時間軸を生きる表現をしたからであり、それらをフィナーレにおいて並行させたのがこの表現だ、と感じたからである。
 とことんまで愛し抜いたつもりでいても、まだまだ気付いていなかった魅力が膨大にある。シベリウス愛好者で良かった、と改めて思った。
posted by ひつじ at 18:42| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする

2020年07月01日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.06.29

 センチュリー響に、ミュージック・アドヴァイザーに就任した秋山和慶が登壇しベートーベンを演奏(2020.06.29。シンフォニー・ホール)。第1ヴァイオリン8人型のオーケストラを、各奏者の間隔を広く開けて配置していたが、センチュリーはもともとどんな曲でも少ない人数で対応する楽団なので、ウィルス禍前と視覚的な違和感があまり無い。ただし、内側に陣取る第2ヴァイオリンとチェロのみ、一昨日の関西フィルと同様に第1プルトが首席一人になっていた。管打楽器は、雛壇上には木管とティンパニのみを乗せ、平土間にホルンとトランペットをステレオ配置にしていた。
 秋山は、例えばウォルトンの大曲やオネゲルの難曲におけるパーフェクトな名演も記憶に残る一方、独特の色彩感を見事に描き起こしたシベリウスも思い出深い。そうした秋山らしいベートーベンで、前衛的な和声を滋味深く響かせ、鷹揚な歌を基調にしつつも要所をかっちりと締めていた。センチュリー響もこうした秋山の表現を見事に実現していた。後藤龍伸率いる弦楽器が連続ダウン・ボウを印象的に演奏し、硬質なポイントを形成していた。また、広く分離していることでかえって弦の各パートが明瞭に聞こえ、特に骨格形成で重要な役割を果たす池原衣美率いる第2ヴァイオリンの存在感が光った。管楽器では特にホルンが表現の多様さを見せ、木管に柔らかく溶け込んだかと思えば、金属的な咆哮でシモテから威圧もする。また、2番・三村総撤の底力のある低音から、1番・水無瀬一成の甘美な高音へのソロのリレーでは、ベートーベンがホルンの多彩な音色を生かしてオーケストレイションしていることが良く分かった。
 1曲目は伊藤恵の独奏でピアノ協奏曲第4番。第1楽章冒頭の伊藤の柔らかな音が最初の波紋となり、それが湖面で美しく乱反射するような印象を受けた。第2楽章は逆に、オーケストラの厳めしい動機を発端にして伊藤との応答となっているのがよくわかり、第1楽章と第2楽章がポジとネガの関係になっていることに唸らされた。伊藤は軟らかい表現での瑞々しい響きも素晴らしいが、何よりも、覇気のあるパッセージにおいて華があるのが印象的だ。そしてフィナーレでは、北口大輔のチェロ・ソロの深々とした音色が圧倒的だった。前述の通り首席が一人目立つ配置だったので期待してはいたのだが、まさかこれほどまでの存在感が出るとは!
 伊藤のアンコールはシューマンのトロイメライ。インテンポの演奏で、こうしたスタイルだと要所を締める和声の斬新さがかえって引き立つ。
 休憩後は交響曲第3番。冒頭の2発の後、ほんの少しだけ溜めて第1主題に入った。ここで予告されたとおり、テンポに自由さを持った演奏だった。また、第1主題を3拍目を強調して歌いうなど、旋律の歌い方にも躍動感があった。圧巻は第2楽章で、フーガが躍動感にあふれていた。安永友昭の動的なティンパニの生命力にも大いに興奮させられた。
posted by ひつじ at 21:12| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする

2020年06月28日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.06.27

 関西フィルに鈴木優人が客演指揮(2020.06.27。シンフォニー・ホール)。もともと人数が少ない関西フィルの弦楽器がさらに奏者を絞り込み、市松模様状に着座することで演奏者同士の間隔を確保。よって第1プルトは首席奏者ばかり4人ということになるが、オーケストラは弦楽四重奏の拡大形だということを視覚的にも再認識できた。そもそも関西フィルは、指揮者の個性に合わせて響きを切り替えるカメレオンのような器用さが武器だと思う。今日はバッハ演奏に定評のあるマエストロのもとで、一時的にバロック室内楽団に変貌することでウィルスの流行に対処したと言えよう。昨日聴いた大阪フィルは(関西フィルとは正反対に)、創立者・朝比奈隆が醸成した重量感のある響きを恒に変えないのが唯一無二の個性であり、総力戦での演奏スタイルを維持したのも当然の判断と言える。危機的状況への対処の仕方に、各楽団の個性と魅力が反映していて興味深い。
 1曲目はモーツァルトのドン・ジョヴァンニ序曲で、これが今日最大編成の作品。亡霊の場面に由来する冒頭を凶暴にグロテスクに表現し、スフォルツァンドの衝撃も凄みがある。一方で、主部は躍動的なリズムを鋭く演奏し生命力を出す。トランペット(池田悠人・白水大介)のみ古楽器(無弁で、おそらく指孔有りの長管トランペット)を使用。明る過ぎない肉厚な音色が、オーケストラに馴染みつつも存在感を出していた。
 2曲目はやはりモーツアルトの交響曲29番だが、鋭角的だった序曲とは打って変わって滑らかで柔和な演奏。管楽器がオーボエとホルンのみという、弦楽器主体の作品だからということもあろうか。その弦楽器は、人数が少ない分、個々の奏者がクリアな音色で演奏し、柔和な流れの中にしっかりとした骨格を作り出していた。特にモーツァルト演奏の柱となる「刻み」が粒立ったことで、音楽に推進力が貫通していた。とりわけ中島悦子率いるヴィオラは、まるで天空に向かって刻みを吹き上げているようにさえ感じられた。弦楽器は古典配置を取ったが、これがモーツァルトのオーケストレイションの見事さを引き立たせる。増永花恵率いる第2ヴァイオリンの少し沈痛な主旋律に、岩谷祐之率いる第1ヴァイオリンがきらめくような副旋律を添える場面は劇的ですらある。きらめきと言えば、全体的に装飾音符がくっきりと表現され、これも音楽にきらめきを添えていた。また管楽器は、例えばメヌエットでの狩の表現などが力強く印象的で、限られた素材から最大限の効果を引き出すモーツァルトの凄さを感じさせた。
 休憩をはさんで、シューベルトの人気曲の一つである交響曲第5番。モーツァルトよりも木管の編成が増えたことで、色彩感の多彩さとポリフォニーの面白さが印象的になっている。僕がシューベルトの偉大な個性だと思っているメロディーの不気味さと打ち付けられる音響の凶暴さは、この少年時代の作品でも顕著に聴かれ、天才はやはり少年時代から天才だった、ということを改めて思い知らされる。今日とりわけ印象的だったのは第2楽章で、あらゆるフレーズが半音の上昇によって締めくくられていた点が、バッハのマタイ受難曲を思い起こさせた。シューベルトの5番は何度も聴いたはずなのに、マタイとのつながりが見えたのは今日が初めてだ。これぞバッハ演奏の大家・鈴木ならではのシューベルトと言えようか。ただしひょっとすると、僕自身が自分でも知らないうちに、バッハの音楽に救いを求めているのかもしれない。
posted by ひつじ at 22:18| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする