2022年12月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 (2022.12.22)

坂入健司郎が愛知室内オーケストラを指揮 (2022.12.22。しらかわホール)。
 1曲目はペルトの作品としては演奏機会が多い『カントゥス ~ベンジャミン・ブリテンの追悼』。弦楽合奏とチューブラベルのための作品で、以前聴いたときは、極めて静謐な作品と感じた。しかし今日の坂入の演奏は、真摯な祈りが貫徹した中にも、怒りさえ感じさせる動的なエネルギーが渦巻いていた。簡潔な動機に荒々しいパワーがあっただけでなく、保続音でさえ強烈なヴィブラートによって激しく明滅していたのだ。鐘の音も、1回1回の強さを明瞭に変えて、全体の流れにうねりをもたらしていた。しかし最後の鐘は弦楽に溶け込むような音量で、ようやく安息を得たかのようだった。その鐘のかすかな残響が消えるまで、祈りの音楽が持続していた。
 2曲目は川本嘉子のヴィオラ独奏で『ラクリメ ~ダウランドの歌曲の投影』。僕にとっての3大Bの一角を占めるブリテンは、完璧無比で高みから俯瞰するような神童らしさが魅力の一つだと思っていた。しかしこの作品は、心の弱さを曝け出すような近づき易さがあったのが意外だ。弦楽だけの作品だが、コントラバスのピッツィカートを効果的に使うなど、オーケストレイションが見事。断片的な動機をソロとオケが呼び交わし、それが悲痛な印象を強くする。しかし終盤では素朴な歌が紡がれ、それが安息をもたらした。
 後半はブルックナーの交響曲第1番。僕が坂入の存在を知ったのは、彼がブルックナーの墓所・聖フローリアン修道院に残した寄せ書きからである。そのようなブルックナーへの思い入れを持ったマエストロ坂入が、ブルックナーへの熱い愛情を前面に出した名演を繰り広げた。冒頭の第1音からして既に、思いの丈をすべて注ぎ込んだような密度の高いエネルギーがあり、その後に続くあらゆる音もその充足感を受け継いだまま衰えることが無い。宇野功芳が最大限の賛辞としてよく使った「響きにコクがある」とはこういう音のことなのか、とようやく理解した。第1ヴァイオリン6人~コントラバス3人、という少人数の弦楽器が、「ブルックナーの生命線は弦楽器」ということを改めて納得させる熱演を繰り広げる。とりわけ刻みを中心とする伴奏音型を弾く際の力強さが素晴らしく、フレーズの語尾まで明確なキャラクターをもって弾き切る。同じリズムの繰り返しでありながらも、和声が1小節ごとに変化することで陶酔感をもたらすブルックナーの魅力が、弦楽器の伴奏の土台が確固とした力を持ったことで実現していた。
 もっとも僕は、昨今のオーケストラは弦楽器があまりにも多すぎるのではないか、という疑問を持っているので、むしろこのぐらいの人数でちょうど良いと再認識した。弦が多いと木管の響きの影響力が落ちるのだ(弦を増やすのなら、朝比奈隆がしていたように木管を倍管にすべきだ)。今日はもちろん、木管と弦がブレンドした音色を楽しめたが、これは木管の各奏者の全身全霊をかけた吹奏のおかげでもあろう。
 そしてこの曲の白眉である第2楽章アダージョは、更なる共感に満ちた名演。3本の聖なるフルートは極端に突出させることなく、ブルックナーの故郷オーバーエスターライヒの空気に溶け込んでいるようなさりげない表現。逆に、ヴィオラの上昇音型は、トップに座った川本嘉子の強力なリードで強烈な存在感を放っていた。ヴィオラの上昇音型はあらゆるブルックナー作品に共通する特徴だが、僕はこれらを、天国まで吹き上げるような強烈な祈りの表現と考えている。そうした僕の好みに見事に適合する表現だったので大いに感動した。また、この楽章に頻出する五連符と六連符の並行は、その衝突が緊張感をもたらすのではなく、それぞれが拍子の制約から解き放たれて自由に飛翔しているかのような印象を与えた。その一方で、第二ヴァイオリンやヴィオラを中心に頻出する長大な分散和音には不穏な緊張感があり、多様な表情が盛り込まれた奥行きのある楽章として表現されていた。
 スケルツォでは大重鎮・呉信一が客演首席を務めたトロンボーンが大いに存在感を放つ。ホルンより1小節遅れて入るなど、「均整を壊す」トロンボーンの役割を見事に果たし、面白さを引き立てた。トリオにおける2番トロンボーンのソロも、8番を先取りしたような面白い音響になっていた。そして、初期の交響曲にしかないコーダを、開放感と喜びを爆発させるように締めくくった。
 フィナーレでも弦の伴奏の活躍が音楽の土台を固めていたが、とりわけ裏拍での打ち込みが複雑な面白さと推進力を出していた。管楽器は、練習番号Eなどのように1小節単位の保続音の連続を、力強く入って程好くテンションを緩めるという表現で徹底。これが全体としての生き生きとした表現に繋がっていった。こうした地味な部分の徹底の積み重ねが、全体の表現へと昇華されていたように思う。フル・オーケストラが逞しく鳴る場面でも、田舎風の素朴な表現でも、手を合わせて祈りたくなるような感動が随所にあった。最後は大曲を締めくくるにふさわしく堂々とリテヌートされ、客演首席の稲垣路子(京響)らのトランペットのリズムが輝かしくホールを満たした。
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2022年11月09日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.28)

 音楽監督・小泉和裕が指揮する名古屋フィル定期で、マーラーの交響曲第2番『復活』が演奏された(2022年11月4日。愛知県芸術劇場コンサートホール)。

 第1楽章で類稀な演奏が実現できたことで、今日の演奏が名演になることが早くも決定づけられた。この楽章の中には、地底を蠢く魑魅魍魎、神聖とは対極にあるような醜い悪魔、グレゴリオ聖歌風の厳めしい神聖さ、官能的で卑俗な歌謡、といった多彩な要素が封入されており、しかもそれらが異種並行的に共存している。そうした複雑な要素群が明晰に解析され、破格な密度を持って演奏された。

 そして、第1楽章では同時に鳴っていたそれらの要素を、後続の楽章で分化し拡大していることがよく分かった。すなわち、第2楽章は官能的で卑俗な歌謡でひと楽章を成しており、第3楽章はまさに魑魅魍魎と悪魔が主役だ。そして第4楽章は神聖さだけで描かれている。それらの要素が、第5楽章で再び同時に登場し、今度は異種並行というよりは坩堝で溶かされたように一体となって(金属板の乱打が、神聖さと溶け合った魑魅魍魎のようだ!)大団円を迎える、というストーリー構成がよく見えた。もしも、マーラーの指示通りに第1楽章の後に長いパウゼを入れたら、後続楽章にどのような印象の変化が生じるだろうか、と興味深く思った。

 小さな部分にも全曲を貫く説得力を感じさせた。例えば第2楽章の練習番号3で、安土真弓(ホルン)の刻みが主役の弦楽器以上に存在感を放っていて印象に残った。この「ホルンの刻み」が、第5楽章の練習番号18前後で「ホルンの刻みの咆哮」となって帰ってきた時には、大いに驚かされると同時に、長大な曲を貫く説得力を感じさせた。さらに、第5楽章のこの場面は魑魅魍魎と悪魔が乱闘を繰り広げるような苛烈な音楽なのに、ホルンの刻みを媒介にして第2楽章の愛らしく柔和な音楽を思い起こす、という不思議な体験までできた。後でスコアを確認すると、第2楽章の練習番号3は、ホルンの刻みには主旋律の弦楽器よりも大きな音量が指定されていたのだ!

 スコアを細部まで読み込んだ結果生まれた名演であり、マーラーの恐るべき深謀遠慮と、それを読み取った小泉の眼力に身震いする思いだ。

 そして全体として、土に根差した音楽、という印象を受けた。多くの旋律の歌い方が、良い意味で洗練されていない朴訥としたもので、宮本弦(トランペット)の静謐なコラールも、アクセントなどを程好く利かせてゴツゴツした味わいがあった。また、舞台裏の中央で演奏された金管のバンダも、地の底から魑魅魍魎が叫び声を上げたり、怨霊の軍楽隊が地中を行進しているかのような泥臭さがあり、舞台上の清らかな音と好対照で破格の広がりを出していた。

 そして、ロットを偏愛する僕には、今日の『復活』は「ロットの魂を慰める音楽」として伝わってきた。ロットから多大な影響を受けたマーラーだが、『復活』にはそれが最も顕著に表れている。何しろ、第3楽章にロットの交響曲の一部が完全にコピーされているのだ。今日、改めて聴いてみると、ロットからの引用にマーラーの意図が明瞭に表れているのに気づいた。ロットからの引用は第3楽章で2度登場するが、一度目の登場箇所の直後は、夢の中で祈るような幻想的な音楽になる(全体的におどろおどろしい第3楽章だけに、その天国的に雰囲気は異彩を放つ)。そして2度目の登場は楽章の終盤で、神聖な第4楽章へと続くのである(そもそも第4楽章のコラールも、明らかにロットからの影響が感じられる)。楽壇に恨みを残して夭折したロットの魂は、救われずに怨霊となって地をさまよっているのではないか。魑魅魍魎が跋扈する第3楽章でのロットの引用は、そうした悲しい思いの表現だろう。しかしそのロットの引用は、直後の滋味深いコラール(しかもロット風!)で慰められるのだ。「ロット君、君の音楽はこんなにも美しいんだ。誇り高く天国に行っていいんだよ」とマーラーが語りかけているかのようだ。

こうしてロット印象が刻印されると、今まで気付いていた以上に、この曲にロットからの影響があると分かる。とりわけ、終楽章の覇気に満ちた行進曲はまさにロット的で、「ロットの魂がマーラーに憑依してこの曲を書かせた!」とさえ思われてくる。マーラーがこの曲で『復活』させようとしたのは、友人ロットの音楽だったのかもしれない。昨年12月に名古屋フィルが川瀬賢太郎の指揮で史上空前のロットの名演を成し遂げてから、まだ1年経っていない。オーケストラの血肉に刻み込まれたロット演奏の記憶が、今日のマーラーの名演につながったと確信する。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2022年10月30日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.27)

 今日はニルセン尽くしの一日。
 まずマチネは、Kカンパニーのバレエ『クレオパトラ』を観る(オーチャードホール)。これは熊川哲也がつくったオリジナルのバレエだが、音楽は全てニルセン作品のコラージュでできているのだ。演奏は井田勝大指揮のシアター・オーケストラ東京で、ピットの中にコントラバス5人を擁する大オーケストラが陣取って、ニルセンの音楽をパワフルに演奏した。

『アラディン』の中の「祝祭行進曲」(組曲版では第1曲目)を最重要曲として扱っているが、ほかにも交響曲など多くの作品を引用。そればかりでなく僕が全く知らない曲も多数あるので、僕にとって未開拓のジャンルである劇音楽からも多く引用しているのだろう。肉厚でギラギラした響きが炸裂し、別世界への憧れに満ち、複数の要素が異種並行するニルセンの音楽は、権力欲と色欲が荒れ狂うクレオパトラの濃密な人生を群舞によって描き出すのにぴったりだ。そして、音楽の選択が実に秀逸。夜明けの場面に『ヘリオス』を使用するのは当然として、僕が特に感動したのは、カエサルがブルートゥスらに暗殺される場面。ここに第5交響曲の第1楽章を使用。雄大なコラールに軍楽隊が暴力的に闖入してくるこの音楽を使用することによって、栄華を誇るローマの町の日常と、カエサル暗殺という大事件とを、同時に描き出すことに成功していた。

僕は初演時の『クレオパトラ』のツアーも観ているので今回が2度目の鑑賞になるのだが、やはり2度目の方が感慨深く観られる。今回特に唸らされたのはクレオパトラがカエサルに初めて謁見する官能的な場面で、4群に分かれたオーケストラが全く異なる音楽を同時並行させる前衛性で名高い「イスパハンの市場」(『アラディン』より)が使用されている。初演時に観たときは「舞台上にクレオパトラとカエサルの2人しかいないのに、何故4声部からなる音楽を使うのだ?」と疑問に思った。しかし2度目となる今日の鑑賞で、当時の自分の感性が浅はかであったことを思い知った。確かに踊っているのは2人だが、巧みな照明によって彼らの影が壁面に多重に映り、まるで6人以上の大人数が躍っているように見えていたのだ。そしてこれは、人物は2人であっても、その中に「謀略家」「権力者」「女」「男」…など実に様々な顔があり、それらが入り乱れて目眩のするような駆け引きを繰り広げていることの暗喩であろう。その膨大な人格の乱舞を表現するのに、「イスパハンの市場」を引用したのは慧眼というほかない。
クレオパトラが死を決意する最後の場面では、クレオパトラ役の浅川紫織が壮絶な演技によって、あまりにも多くの悲劇を背負い過ぎた一人の人間の激烈な人生を振り返る。ここでの音楽は前述の「祝祭行進曲」(『アラディン』)である。

ソワレはサントリーホールに移動して、巨匠ブロムシュテットが指揮するNHK響を聴く。
前半はグリーグのピアノ協奏曲で、ブロムシュテットは遅い悠然たるテンポでオーケストラを歌わせて大陸的に広いイメージを抱かせる。対照的にソリストのムストネンは、動機を鋭いアタックで弾き始めるもすぐに減衰するスタイルで徹底し、一瞬で溶けて消える雪のような印象を受ける。このようにソロとオーケストラの様相が正反対であることによって、重厚感を担当するオーケストラと煌めきを担当するピアノ・ソロ、というように役割分担をしているように感じられ、多層的な充実感を感じさせる演奏になっていた。

そして後半がニルセンの交響曲第3番『エスパンシーヴァ』で、今日のニルセン尽くしの締めくくりだ。前半のグリーグとは対照的に、テンポの推進力に惹き込まれる動的な演奏だった。
冒頭のユニゾンの打ち込みは爆音ではなくむしろ端正だが、かえってリズムが印象深く記憶に残る。そのことで、全曲にわたって回想される簡潔なリズムに既視感を覚えることになり、全曲の統一感が生まれていた。そのほかにも例えば、第1楽章で印象深く鳴らされたトランペットのトレモロが、フィナーレでホルンのトリルとなって再帰するなど、全曲を通しての説得力ある統一感が印象的な演奏であった。昼間に『クレオパトラ』を観た印象が残っているため、ニルセンの音楽には壮絶な人生を反映できるようなエネルギーに満ちていることを強く感じる。それに加えて、今日のブロムシュテットによる説得力ある交響曲の演奏では、ひとつの完結した小宇宙という絶対音楽ならではの崇高さを感じた。
中でもこの第3交響曲は、第2楽章のヴォカリーズを筆頭に、実に微細な音楽表現が盛り込まれている。まるで森羅万象を短い演奏時間に集約したような作品であり、それを強く印象付ける演奏であった。

それにしても、ブロムシュテットのテンポ設定は素晴らしい。フレーズを納めるリタルダンドなどが、単に見えを切っているのでなく、その次に来る新たなテンポを導入する布石となっていることを強く感じさせ、テンポの緩急によって曲全体に呼吸を持った推進力がもたらされているのだ。特に終楽章の終盤近くでは、目的地に向かって音楽が自然に吸い寄せられていくような圧倒的な推進力が聞かれた。これはネーメ・ヤルヴィが得意とする表現だが、まさにライヴで音楽を聴く醍醐味の一つである。実に贅沢なニルセン尽くしの一日であった。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする