2019年10月17日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2019.10.16〜

 藤岡幸夫が関西フィルと魅力的なプログラムを演奏。この斬新な選曲は全国的に注目を集めたようで、関東の常連仲間と大阪で会うという逆転現象(?)も生じた(2019.10.16。シンフォニーホール)。

 前半は藤岡得意のウォルトン作品から、ヴァイオリン協奏曲。独奏は、大阪が生んだ世界の至宝・神尾真由子。今日の演奏の特徴は、静けさ。扇情的なトリル、生気に満ちた不協和音と対照的に冷たく無機質な音響の対比など、紛れもないウォルトンならではの音楽が、静かに展開していく。交響曲やベルシャザールとはまた異なる、静かだからこその凄みがあった。

冒頭はカオスの中でオーケストラが、リズミカルな動機や上昇音型、シンコペーションなどこの曲の核となる要素を提示していくが、梅本貴子のクラリネットを先頭に、静かで柔らかな中にも明瞭な発音を伴って演奏し、動きがしっかりわかる。当初はこのオーケストラの音響に埋もれていた神尾のソロが、徐々に前面に出ていくが、圧倒的パワーで威圧するようなことはない。第1楽章は全体的に暗めの音色で、(矛盾した言い方を敢えてするが)声を上げずに慟哭するような凄みがあった。明快な形を取らないカオス的音響とテンポ変化が支配する冒頭部分が鬱々とした印象を与えていただけに、自然に流れていくコン・モートに入るとほっとした気持ちになる。また、一瞬聞かれる舞曲風の挿入が、静かな中にも強い印象を与える。冒頭にファゴットやチェロで示された上昇音型が後半になって、風早宏隆率いる弱音器付トロンボーンで再現される場面では、カオス的な響きの中にもクリアな動きが聞かれ、説得力があった。

2楽章では、神尾は第1楽章とは対照的にスルポンティチェロ気味の張りのある音色をも多用し、多彩な色彩の妙味を見せる。一方で、静かな印象は継続され、フォルティシモが指定されたオーケストラの冒頭ですら、決して威圧的・開放的にはならない。しかも、静けさを基調にしていながら、その中にさらに強弱による遠近感を作っていたのが素晴らしい。例えば中間部の松田信洋のホルン・ソロが、主役でありながらも徐々に周囲の音響よりも音量を落としていき、主人公が遠ざかっていくような雰囲気を出したのは、スコアの読みが深い藤岡ならではのデリケートな表現だった。この楽章に頻出する変拍子は動きに自由を与えるものとして作用し、進みそうで進まない不自由さを伴っていた第1楽章と対照的な印象を与えた。

フィナーレは、端正な雰囲気と推進力とを大切にした演奏で、先行楽章とはこれまた異なる印象を与える。そうした中にも、時おり挿入される舞曲風の音楽が強い印象を与える。これはもちろん、第1楽章でも聞かれた舞曲との連続性を感じさせ、音楽に説得力を与える。そして、こうした静かで悲しげな音楽の中での舞曲は、シベリウスの「悲しきワルツ」と同様に、まるで死者と踊っているかのような印象さえ受ける。神尾のソロの背後で蠢く木管の伴奏にも、死者との円舞の残り香を感じさせる。ヴィオラによって先行提示された動機をソロがリフレインする箇所で音楽がアクセルを踏みなおし、妖艶さをも備えた後半へと転換する。そしてコーダは、金管楽器が開放感を持って(しかし音色には寂しさを漂わせて)歌うが、これに応答する神尾のソロには歯ぎしりをするような苦しさがある。この残酷なまでの対比に、戦争の不穏を背景に持った作品なのだということを思い出さされる。

地元が生んだスターによる、心の深淵にのめり込んでいくような凄みのある名演に対し、熱い大阪の聴衆はいつものような歓声の絶叫ではなく、落ち着いた拍手によって讃えた。当然である。ウォルトンの音楽と今日の演奏が、静かに訴えかけるものだからだ。成熟した大阪の聴衆は、その演奏との連続性を持った拍手によって前半を締めくくったのだ。

 後半はハチャトリアンの交響曲第2番。膨大な打楽器や2台のハープ、ピアノを駆使した豪華絢爛な楽器編成だが、それだけにかえって、シンプルな楽器の生の音が印象に残る見事なオーケストレイションであった。第1楽章は冒頭からチューブラベルを中心とした打楽器の炸裂が印象的だが、音楽が進むにつれて、中島悦子率いるヴィオラのパート・ソロや、ほかの楽器をブレンドしない木管のソロなど、楽器それ自体の音の美しさが目立つようになる。高崎雅紀(客演)のイングリッシュホルン、鈴木祐子(客演・京響)のバスクラリネットなど特殊楽器のソロも印象的だが、圧巻は星野則雄のファゴット・ソロ。悲しげな高音の悲歌から、低音のドスの効いた語りまで、多彩な表現を聞かせた。そして、「ハチャトリアンって凄い!」と思わされたのが再現部。絢爛豪華に提示された冒頭主題が、再現部ではほぼ弦楽器のみで演奏されたのだ。これによって、弦楽器の音色の美しさと、ハチャトリアンの旋律の美しさとが同時に強調された。コンサートマスター岩谷祐之率いる弦楽器は、弱音器を付けてのフォルテなど、弦楽器だけで多様な音色のパレットを持つことを見事に示してくれた。ハチャトリアンの旋律は、簡潔なリズムの中に時おり挿入された装飾音符が妖艶な色彩感を放っている。そして楽章の最後は、ハープの強烈な不協和音が不思議な印象を残す。

 第2楽章はスケルツォで、3段階ほどにテンポを変換する自由さが魅力だ。この楽章でも、遅いテンポを取る中間部がほぼ弦楽のみで演奏されるなど、(絢爛豪華なオーケストラだからこそ)シンプルな楽器の音の魅力が光る。

 第3楽章はロマン派にありがちな雄大な緩徐楽章ではなく、ハイドンに先祖返りしたかのような、端正だが動的なテンポの音楽。しかし紛れもなくこの曲の白眉である。冒頭はハープとピアノの不協和音が不気味な印象を与える。第1楽章最後の不穏が、第2楽章での伏流を終えて、ここでまた噴出したのだ。そして、伴奏が十字架音型風に蠢いていたが、やがてそれがグレゴリオ聖歌の『怒りの日』の形をはっきりと取る。そして、グレゴリオ聖歌と、ホルンのヒロイックな旋律が、まるで異種平行のように並置された。ソヴィエト時代の作曲当時、為政者は宗教を敵視していたはずだ。そんな時にあからさまな宗教音楽の引用をするのは、かなり勇気のいることだったのではないだろうか? そうすると、対置されたホルンの主題も何かの暗号ではないか、と勘繰りたくなってくる。クライマックスは暴力的な大音響となるが、そんな中でも藤岡は、音程をしっかり取って旋律線を浮かび上がらせ、音楽としての流れをきちんと表現する。

 フィナーレは白水大介率いるトランペット3本のみのファンファーレから始まるが、決して「華麗」「きらびやか」といったものではなく、土俗的で暗鬱な雰囲気を漂わせたものであった。ハチャトリアンが何か単純では済まない考えを腹に納めながら作曲していたことを思わせる。僕は、ハチャトリアンは『仮面舞踏会』組曲しか演奏していないこともあって、真剣に勉強したことがなかったが、ショスタコーヴィチと同様に深追いし甲斐のある作曲家であるように思われた。

 最後は大阪の聴衆が、この作品と力演にふさわしく、歓声の絶叫と熱い拍手で締めくくった。

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2019年09月24日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2019.09.23〜

 オーケストラ・エクセルシスの第10回演奏会、今回はポーランド特集。指揮は常任指揮者の大浦智弘(2019.09.23 杉並公会堂・大ホール)。

 1曲目はモニューシュコ作曲の歌劇『パリア』序曲。

 冒頭はホルンの轟然たる刻みを中心とした荒々しい音楽が凄まじい。曲目解説によれば悲劇のオペラらしいが、不条理に対する怒りがこもっているようだ。これが中間部になると柔らかな歌に変貌する。各々のフレーズ収めがルバートされるが、そこに自然な呼吸がある。指揮の大浦はオペラでも業績を積んでいるマエストロで、さすがの表現力である。弦のトップ・ソロも美しいが、あとからそっと加わるオーケストラの和声もまた優しく温かい。後半は荒々しい主部が再現される。最後は加速するが節度があり、音楽の構築的美しさを損なうことがなかった。

 2曲目はドヴァリョーナス作曲のヴァイオリン協奏曲。ソロは楽団のコンサートマスターでもある小山啓久。

 ヴァイオリン協奏曲でありながらホルン独奏から始まるという斬新な作品。このホルン独奏が仄暗い音色でグレゴリオ聖歌風の旋律を吹き上げ、いきなり宗教的厳粛さを実現する。多様な変化に富んだ作品で、第1楽章だけでも交響曲の4楽章分の表現が凝縮されているようだ(スケルツォ風の部分における木管の下降音型が美しい)。だが、常に冒頭で示された宗教的厳粛さが支配しており、全体の一体感がある。時折挿入される村祭り風の賑やかな音楽も、午前のミサを終えた午後に饗宴をひらく村の習慣を考えれば、これも宗教的厳粛さの一環として腑に落ちる。オーケストラをバックにしない小山の長大なソロ箇所も多々あるが、装飾音符の色彩感をきらめかせながらも、常に冒頭と同じ厳粛さが基調にある。また、オーケストレイションが独特で、ブレンドしない管楽器の生々しい音色の魅力を強調している。(トロンボーンを足さない)ホルンだけ、(ホルンを足さない)トロンボーンとテューバだけ、(ホルンを足さない)木管だけ、の響きが生々しい音色の魅力を醸し出す。第2楽章もクラリネット・ソロで始まる。その後もファゴット2本のみの美しさなどが引き立たされる。こうした素朴なオーケストレイションの中にあってピッツィカートの表現を工夫。ヴァイオリンのみによるピッツィカートをヴィヴラートをかけずに水滴のような簡潔さで始めるが、これに中・低弦が加わっていくにつれてピッツィカートの響きの豊かさを増していくという、深みの増大を見せた。2楽章終盤では小山のソロが印象的に転調され、シンバルが鳴り響く豪壮な終楽章を説得力持って導いた。

 ソリストによるアンコールはヴァインベルク作曲のソナタ第2番の第1楽章で、分散和音の妖艶な色彩感と、洒脱な終わり方が印象的。

 後半はシャルヴェンカ作曲の交響曲。冒頭、ホルンの一音のみから始まって拡大するパセージが、説得力を持って何度も再帰する。力強い第1主題と歌謡的な第2主題が用いられるのは伝統的形式感によく則っているが、驚かされるのは、各楽章とも総休止による切断がほとんどないこと。曲目解説にある「ヴァーグナーの影響」という記述に納得がいく。そして、伴奏音型が、場面場面で個性がある。ヴィオラの単純な刻みだったかと思えば、第2ヴァイオリンの分散和音に変わったり、シンコペーションまで伴った第1ヴァイオリンによる伴奏になったりもする。音楽の骨格である伴奏を追いかけているだけでも楽しい、骨太な交響曲であった。また、序盤で提示された要素が終盤に入って前面に出るなど、全体を通しての説得力あるつながりがあった。たとえば、第1楽章の序盤でティンパニがさりげなく、しかし印象的にベートーベン5番の冒頭音型を叩き、「これが後々に重要な働きをするのではないか」と予感させる。そして実際、第4楽章でこの音型の拡大形が第1ヴァイオリンで力強く示され、この音型の変化形とも言える6連符をホルンが執拗に繰り返す。第2楽章の舞曲ではこの楽章のためだけに用意されたトライアングルが素朴な味わいを出す。緩徐楽章の第3楽章は、最後の金管の柔らかな響きに包まれるようで幸福感がある。第4楽章は冒頭で示された激しい跳躍を伴う逞しい音型で全体がまとめられた。

 最後はアンコール2曲という贅沢さ。最初は冒頭と同じモニューシュコ作曲の歌劇『ハルカ』の舞曲。ホルストの「火星」のような攻撃的な開始が印象的で、打楽器の炸裂を伴う土俗的な力強さを備えていた。

 2曲目はキラール作曲の弦楽作品『オラヴァ』で、今日聴いた中で唯一聴き覚えがある曲(笑)。伊福部昭を思わせる快活で変拍子が楽しい要素が、コンサートマスターや末席奏者など数人のソロによってはじめられ、やがて人が増えていって弦全体へと拡大する。この波を何度も繰り返す。響きは常に瑞々しく神秘的で、無限の波が永遠に繰り返されるようにさえ思われる幸福感に満たされ、最後は掛け声によって締めくくられた。

 オーケストラ・エクセルシスは、いい作品をいい演奏で聴かせてくれる、実に安心して聴け、最高に楽しめるオーケストラだ。今年も存分に楽しむことができた。

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2019年03月12日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.03.09

 山形交響楽団が音楽監督・飯森範親の指揮でブルックナーを演奏(2019.03.09。山形テルサ)

まずは開演前のロビーコンサートでクラリネット2重奏で三善晃の『彩夢』を演奏。クラリネットの特性を生かした無から立ち上がるような様相と、緩急の極端な対比の凄み、そして、速いパセージでも常に魅惑的な和声が聴かれる点が良い。

 

 本プログラム1曲目はモーツァルトのオペラ『愚か娘になりすまし』のための交響曲。モーツァルト12歳の作品とのこと。3楽章からなるが、どれもバロック音楽を感じさせるリズムのはっきりした曲。特に第2楽章は、チェロが完全に休みになり(僕にはそのように見えた)、コントラバス1本が通奏低音として弾いており、なおさらバロック的に感じる。2本のホルンは古楽器を使用。それだけに分散和音が美しい。

 

続いてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ソロの金子三勇士が低音を豪快に打ち付けるパワフルな演奏。行進曲風の部分では、シモテに配されたコントラバスとカミテに置かれたティンパニがステレオ効果で伴奏を弾き、金子の豪快な演奏を盛り立てる。ホルン首席の根本めぐみが深くやわらかな音で、滑らかにつながったソロを吹いた。

 

 休憩後はブルックナーの魅力あふれる作品を続けて演奏。中でも、序曲と詩篇第112篇を続けて演奏するというプログラミングが秀逸。フィロムジカ42回定期の解説で僕が書いたとおり、この2曲は同時期の作品で、同じトランペットのファンファーレを含むという共通性がある。この見事なプログラミングを知ったとき、僕は本当に飛び上がって小躍りした。

ブルックナー三昧の1曲目は序曲ト短調。最初の発音こそ硬質な大音量で始めるが、ディミヌエンドを重視してすぐにカラーを柔らかく変化させ、荘重な中にも人間味のある柔軟さを持った音楽が展開されるであろうことを予感させる。そして、アダージョのテンポを重視した濃厚なチェロの歌でその予感を現実のものにする。ただし、楽譜通り最後に4分音符の一打ちで締めくくるティンパニによって構築的な印象も加えられており、その後の展開との整合性が取れている。

主部はアラ・ブレーヴェで振って大変な快速で飛ばす。アダージョが重厚だった分、そのスピード感が印象強い。そして、ピアニシモを重視した呟くような音量で、スタッカートを重視した乾いた音色。これがト短調という宿命を背負ったような悲劇性としっくりくる。この印象は、昨日ト短調のスケルツォを聴いた経験があることもプラスに作用している。この悲愴な弦楽器の弱音と比べると管楽器の打ち込みはかなり音量が大きく、弦楽器による「極限のピアニシモ」を敢えて打ち消しているようにさえ感じさせるが、これは全くブルックナーの指示通りに音量指定を守った結果だ。僕は、基本的にブルックナーの音楽に極限のピアニシモは似つかわしくないと思っているが、それはブルックナーの最初期の楽譜からもうかがい知ることができる、と自信を深めた。

大音量のトゥッティになると、特に上昇音型でピッコロの音色が効果を出すが、今日の演奏でピッコロが目立ったのはこの上昇音型だけ。かつて高関健/新日フィルで聴いた時ほどにはピッコロの音色を際立たせず、オーケストラ全体の中にブレンドさせていた。

 第2主題直前の弦楽器のうねりを程好くルバートして、テンポを落としてたっぷりと歌謡主題を歌い込む。第1主題の快速はこの第2主題の落ち着きを強調するためなのだと納得がいく。さらに素晴らしかったのは79小節目からの弦の伴奏。第1主題の乾いた音色のまま、重量感を以って一音一音弾き込み、濃厚な歌謡主題なのに重戦車のような堂々たる行軍をする、という破格の音楽になっていた。3番終楽章のポルカとコラールの同時並行のように、異質なものを並行させるのは最初期からのブルックナーの得意技だと分かる。アレグロに戻ってからは、とりわけ山響自慢のトロンボーンが深みのある音色で上昇音型を聴かせ、これだけで涙が出るほど感激した。

136小節目以降もやはり、弦の悲愴な「極限のピアニシモ」を管が打ち消す効果を発揮する。ここでは加えて、一音一音事細かに指定されたアクセントやクレッシェンドを忠実に再現することで滑稽味が出て、苛酷一辺倒では終わらせないブルックナーの懐の深さを感じさせる。

そして、クライマックスが雄大にフェードアウトしていき、「さあ、これから名手根本のホルン・ソロだ」と思った瞬間、とんでもないことが起こった。弦楽器が唐突にアレグロ主部の開始のようなスピーディーな音楽を弾き出したのだ。しかも、リズムは第1主題に似ているものの、旋律の動きはここまでで全く聴いたことの無いもので、苛酷だった第1主題とは対照的な明るく輝かしい音楽。やっと「初稿で演奏していたんだ!!」と気付いた。これは大変なことになった。この初めて聴いた初稿の印象は、最後の最後で意表をついて、躁的に明るく、そして構築的な堅牢さを持った音楽を以って第2のクライマックスを形成した、というものであった。ヴィオラから始まった長調の主題は、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、と重なっていって、数の増加による立派な盛り上がりを作る。最後はトランペットの印象的な3連譜と、それに続くフル・オーケストラの打ち込みで断ち切られる。そこから、聴きなれたホルン・ソロから始まる雄大なコーダとなる。確かにこの初稿だと、ホルン・ソロからの盛り上がりが唐突で、そして短すぎるように感じる。フェードアウトした静けさからそのままホルン・ソロが立ち上がる改訂稿の方が、(実際は同じ長さであっても)自然な流れの中で必要充分な長さのコーダになっている印象を受ける。確かにキツラー先生の指摘は的確なのだろう。

しかしながら逆に、「この初稿こそブルックナー本来の音楽だ!」と確信した。どんなに人間世界が苛酷でも、それとは関係なく神の王国は常に輝いているのだ、というのがブルックナーの変わらぬ作曲姿勢のはずだ。意表をついて突然長調になってからのかなり長いコーダは、ブルックナーが本来表現したかった結論である神の王国の輝きなのだろう。

さらに、「何かしてやろう」と最後の最後まで何がしか変化させようとするブルックナーの姿勢は、9番アダージョで最後の最後になっても5番からの引用を挿入するなど変化の手を緩めないブルックナーの姿勢とつながる。このブルックナーの姿勢は最初から最後まで一貫していたのだ、と思い知った。

初稿でこの曲を演奏した、ということはブルックナー演奏史に残る偉業だ。録音していたようだが、リリースされたら大変な価値がある筈だ。ひょっとすると初稿の日本初演、あるいは世界初演かもしれない。しかし、チラシにもパンフレットにもプレトークでも、初稿については何も触れられなかった。仮にこれまでに初稿で演奏されていたとしても、状況は似たようなものであろう。今日が本当に初演かどうかは、もはや検証のしようがない。

 

つづいて合唱団の山響アマデウス・コアが登壇し、僕が熱愛する詩篇第112篇。濃厚な印象を与えた序曲とは対照的に、速めのテンポでリズムの躍動感を重視した表現を一貫させる。冒頭の弦の上昇音型の最後の4分音符をスパッと切ったのが象徴的だ。飯森はモーツァルトを演奏するとき、「ドイツ語の発音が聞こえるような演奏を意識する」と言ったことがあるが(いずみシンフォニエッタでのプレトーク)、このドイツ語の歌詞を持つ曲でもドイツ語的なはっきりとした演奏を意識したのかもしれない。このような表現だと、田舎の素朴な信仰者たちが、村祭り的な感覚で、日頃から親しんでいる神さんを喜び勇んで賛美している、という雰囲気になる。また、3度繰り返される「アレルヤ」が、一回ごとに力を強めて3回目で結論となる、というドイツ音楽の鉄則(大植英次の公開指導より)に従って書かれていることも実感できた。

 一方で歌謡主題部分はテンポが速いままで力みが無く滑らかさを持った柔和な表現を実現。こうした表現がされたことによって、小気味良い木管の上昇音型が良いスパイスとして生きてくる。また同時に、力強い部分との対比も明瞭になり、テ・デウムを先取りしたような、弦と木管の刻みの上で決然と歌う部分もいっそう覇気のあるものに聴こえてくる。

また、ライヴで聴くとオーケストレイションの妙味も実に効果的だと分かる。序盤の、合唱への合の手が、木管のみから、弦と木管の合同へ、と発展する様は音楽の広がりを獲得する上で実に効果的。ここはブルックナーの推敲を重ねたことが自筆譜からうかがえるが、見事に成功している。

音楽が薄く厳しさをまとう部分では、山響自慢のトロンボーンが程好い存在感を出していた。また、ティンパニが、出番が限られているからこそ、少ない登場箇所で絶大な音響効果を出していた。

テンポが速いだけでなく、ブロックとブロックの間、例えば、オーボエの幸福感あふれるソロから始まる部分の始まりなどでも、全く間を開けずに突き進んだ。作曲家としての青年時代にあたるブルックナーの湧き上がりまくって押さえられない創作意欲のほとばしりを表現したのだろうか。さすがにフーガの前では一呼吸置いたが、やはりフーガも快速で、喜びが爆発したような表現になった。ブルックナーのフーガは、交響曲(5番、9)では荘重で厳粛で神秘的だが、多くの宗教曲では明るく幸福感に溢れ人間味豊かなのが興味深い。

 

続いて詩篇第114篇。この曲はオーケストラ(?)がトロンボーン3本のみなので、交響楽団の定期演奏会にプログラミングすること自体が難しい作品。これを敢えて取り上げたことに、いくら感謝してもし足りない。合唱が2群に分かれていた112篇では中央の男声の左右に女声を配していたが、この曲からは、男声の前に女声を配する並び順に変更。この方がよりブレンドされた声になる印象を受ける。トロンボーンは舞台中央にシモテからテナー、アルト(使用楽器はテナーだったが)、バスの順で並ぶ。

 112篇とは対照的に、遅いテンポで濃厚に、横の流れを重視した表現をとる。それでいながら合唱が音符の動きをクリアに歌っていて、冒頭から音楽が少しずつポリフォニックな厚みを増していく様相がしっかりと伝わってくる。

 山響自慢のトロンボーンは深みのある音色。ただし、常に感情を控えた冷静な演奏に徹し、合唱がクライマックスで感情豊かなフォルテを披露するのとは対照的。トロンボーンが合唱の音色的サポート役に徹したとも取れよう。が、それよりはむしろ、人間的感情に溢れた合唱と、気まぐれな人間感情の影響を受けない神の王国を3本だけで表現するトロンボーン、という対比がなされているように感じた。

 フーガでは、もともと遅かったテンポがさらに遅くなるが、これは奏者にとっても聴衆にとっても極めて妥当な判断だろう。オーケストラがあればヴァイオリンが弾くであろう速いパッセージをこの曲では合唱で表現しなければならない。それをクッキリと歌う(あるいは聴き取る)には相応の落ち着いたテンポが必要だと思う。そしてこのフーガでは、バスから順に交代交代で合唱に加わるトロンボーンが音色的にも視覚的にも実に効果的。終盤でバス・トロンボーンのみがオルゲンプンクトを吹く場面は、タイでつなげて演奏。今日の冷静なトロンボーンの演奏スタイルとしてはこれが正しいのだろうけど、一小節ごとにアクセント気味に吹き分けて盛り上げる解釈もあり得るのではないかな、とも思う。演奏機会が増えて様々な解釈を聴き分けられるようになったら嬉しい。

 

そして最後が、ブルックナー最晩年の傑作にして演奏機会稀少な詩篇第150篇。初期の作品も圧倒的だったが、この晩年の傑作を聴くとブルックナーがさらに凄い境地に達したことを思い知らされる。

 冒頭から、硬質の大音響を強調。特にテューバの存在が重要な働きをしており、まるでオルガンが加わっているかのようだった。

 濃厚な歌謡部分に入ると、複雑な綾を成す弦楽器の伴奏音型が効果を発揮。特に今日は古典配置だったため、線ではなく面として伴奏が聴こえてくる。特に、カミテに陣取った第2ヴァイオリンの8分音符の動きに、8分休符が入っていたのが印象的。昨日聴いた『夕べの音楽』と同様に、一瞬の休符にハッとさせられる魅力があるのもブルックナーの特徴だとの印象を強めた。フルートの天国的動きは、突出はしないが、美しいものが煌めくのがかすかに見えるような表現。また、ファゴットを中心とした中音域がそっと加わるのが実に温かい。

 75小節目以降は木管の3連譜が期待通りハッキリと聞き取れ、来るべきトランペットの3連譜の布石として説得力を持った。そしてそのトランペットは、3連譜だけでなく、その直前の4分音符の動きにも覇気がある。そしてその直後の頂点(97以降)では、ホルンのエコーが絶大な効果を発揮。しかも、2回目のエコーがより長い、という微妙な違いが、次への期待を高める効果を出していた。微細な違いで絶大な効果を出す、ブルックナー円熟の技だ。

 高橋和貴のヴァイオリン・ソロから高橋絵理のソプラノ・ソロへ、という流れは、堅牢で密度が高かった音楽が、いくつかの線が緩やかにまとまった音楽へと変化したことを音響的に「体感」させてくれる。両ソロに加えて、背景に徹した合唱や、細分化された音を吹く管楽器などの多くの要素が、緊密な結びつきではなく、同時並行的なざっくりとしたまとまりになったのだ。これでこの中間部分がエア・ポケット的な魅力を獲得した。僕はスコアを見たとき、「この一瞬のためにソプラノ・ソロを用意しなくても、合唱団員の首席がソロを歌えばよいのでは?」と思ったが、その考えは誤りだった。合唱団から離れた位置で、独立した存在感があるソリストが歌わないと、この音響は「体感」できない。

 フーガでは特にヴィオラなどオーケストラ楽器の中音域が温かい音色で合唱をサポートしているのが印象的。そして、やはり合唱もオーケストラも、人間的な豊かな感情に溢れていた。

クライマックスの巨大な半音階下降は、圧倒的なポリフォニーに対する圧倒的なユニゾンの妖艶さを実現していた。ファンファーレはトランペットよりもホルンを強調して英雄的な表現を取った。最後の音響は高音域を圧倒的に重視。扇情的な表現を取ったともいえるが、高音の延びが豊かな聖フローリアンの音響が再現されたように僕は思った。

posted by ちぇろぱんだ at 23:49| Comment(2) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする