2020年01月01日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.12.28〜

 武満徹の作品ばかりを演奏するという至福の合唱コンサートを聴いた(2019.12.28。フェニーチェ堺・小ホール)。

 オープニングは武満自らが作詞した「小さな空」。旋律の跳躍に武満ならではの色合いがあり、「武満のメロディーは美しい!」と素直に感動。そして、武満の詞もまた素晴らしい。空を見ながら過去を回想する内容だが、つまりは時空の超越を歌った詞だと言える。最高傑作の『ファミリー・ツリー』を筆頭に、武満の作品は時空を超えた永遠性を感じさせるが、それは武満自作の簡潔な詞にも表れていた。武満の詞の簡潔な素晴らしさといえば、『〇と△の歌』も凄い。「地球は丸いぜ!」という至極当たり前のことを敢えて声にすることで、平和を愛したヒューマニスト武満の思いが見事に表れていた。

企画した小味渕彦之と指揮の西岡茂樹が要所でトークを入れており、これが実に的確でわかりやすい。この解説によれば、武満が書いた合唱のための曲は実は少ないとのこと。その数少ない合唱のための作品だという『風の馬』のインパクトが凄かった。女声のみ(2曲)、男声のみ、混声、の4曲構成で、そのほとんどが詩のないヴォカリーズ。女声の鋭さや男声の泰然といった、声それ自体の特性を見事に生かし、独特の和声を伴って複雑で魅惑的な音響世界が細密に織り上げられる。そして、詞(秋山邦晴による)がある第2曲は「羊を盗もうか?」という悪の囁きで閉じられ、ギョッとさせられた。

コンサートの中盤はピアノ伴奏が入ってのソロ曲。これらは、映画のための音楽などに由来するとのことだ。しかしそうだからこそ、武満の「歌」の数々には武満ならではの旋律の魅力が原色的に詰まっていると見て良いだろう。オーケストレイションの見事さに圧倒されがちなオーケストラ曲とはまた違った趣がある。武満の魅力は旋律の独創性にあるということを再認識させられた。

 西岡が指揮する合唱団はプロとアマチュアの混成によるこのコンサートのための合唱団とのことだが、前衛的な和声の色彩感と、感情が吹き上がるような底力のある表現が素晴らしい。僕にとっての今日のクライマックスは、『死んだ男の残したものは』だ。僕はこの作品が、人類史上の至高の芸術の一つに数えられると確信している。前奏のヴォカリーズから並々ならぬ怒りの感情が吹き荒れ、谷川俊太郎による凄みのある反戦歌を導く。「死んだ子供の残したものは、ねじれた脚と、乾いた涙」「死んだ兵士の残したものは、壊れた銃と、歪んだ地球。他には何も残せなかった。平和ひとつ、残せなかった。」。前世紀に作られたこの歌は、現代を歌う作品としてそのまま通用する。悲しいことに。

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2019年11月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 〜ブルックナー8番2題〜

 ひと月の内にブルックナーの交響曲第8番(第2稿)を立て続けに聴くという、なかなか稀有な機会に恵まれた。

 まずはクリスチャン・ティーレマン指揮のヴィーン・フィル(2019.11.07。愛知県芸術劇場コンサートホール)。ティーレマンの演奏はこれまでに、これまたブルックナー8番(ハース版)ばかり2度聴いている。いずれも遅いテンポで一貫した堂々たる巨大な演奏であった一方で、そのテンポ感に「無理矢理遅くしている」という固さを感じさせた点に若干の不満もあった。対して今回は、基調テンポの遅さは従来と変わらないが、そこに無理矢理な印象を感じることはなく、自然な音楽感情の発露としてのテンポに感じられた。これは自発性の強いヴィーン・フィルとの協演であることが大きいかもしれない。例えばブルックナー休止から再始動する際に、ティーレマンは棒を止めたまま何の指示も出していないのに、オーケストラが弾き始める場面が多々あった。棒で完全にドライヴするよりも、こうした自発性に任せた方が、音楽の泉がジワリと湧き出すような自然さを感じさせる。

一方で、従来は大きなテンポ変化をしない点が特徴であったのに比べると、今回は要所で大きなテンポ変化を見せていた。特にスケルツォを除く各楽章の展開部でのテンポ変化が大きく、ここで場面が大きく転換するという印象を与えた。僕は、「ティーレマンはブルックナー8番から何がしかの物語を描こうとしているのではないか」という個人的印象を持った。その印象を強くしたのは、第1楽章展開部冒頭のホルン・ソロからだ。こうした管楽器のソロは、指揮者はキューを出すだけの場合が多い。しかしティーレマンは、一点一画にいたるまでこと細かに棒で指示を出し、ヴァーグナー由来のこの主題に人格を持たせようとしていたのだ。そうすると、この巨大な交響曲が、ホルンが演じた主題を主人公とする長大なドラマのように見えてくる。僕の印象としては、巡礼者を主人公とした道行きの物語のように感じた。しばしばブルックナー批判の対象となる雰囲気の唐突な変化も、主人公が道中で遭遇する困難や幸運ととらえられ、すんなり入ってくる。

私見では、故スクロバチェフスキはブルックナー8番の中に受難曲のストーリーを見出し、それを実現するために8番を繰り返し演奏し、最後の読響との演奏で実現したのだと思っている。ティーレマンも同様にブルックナー8番から巡礼者のストーリーを見出したのではあるまいか。指揮者としての道程がまだまだ長いティーレマン。今後もさらにブルックナー8番の巡礼を続けてほしい。

もっとも、こうしたストーリー的解釈を成功させた背景には、音楽の基礎構造を厳格に確実に演奏していたことがある、ということを強調しておきたい。とりわけ、低弦をシモテに配する古典派位置で肉厚な音を出していた弦楽器は、例えば金管楽器が主旋律を吹いている場面での伴奏にメリハリがあり、音楽に太い骨格を与えていた。また、響きの色彩感を決定する木管が、ファゴットを筆頭にしっかり鳴っていたのも頼もしかった。金管も、たとえば第1楽章提示部第2主題における3番トランペットのロングトーンなど、地味だが重要な役割でしっかりと仕事をしており、肉厚な音楽を作り上げていた。

 

曲全体の捉え方が印象的だったティーレマンの演奏とは対照的に、ズービン・メータ指揮ベルリン・フィル(2019.11.21。サントリーホール)は、各ブロックの表現が個別に印象に残った。

まず冒頭、トレモロの弓幅を敢えてプレーヤーごとにバラバラにする奏法(故チェリビダッケがしていた奏法で、今もミュンヘン・フィルに世代を超えて受け継がれている。「チェリビダッケ・トレモロ」と呼んで良いと思う)を採用。これによって、カオス的な雰囲気を効果的に演出していた。

通常ならリズムの鋭さが印象に残るはずの第2楽章は、この日はむしろ横の流れの繋がりが印象に残る個性的な演奏。チェロの主題をブルックナーの指示とは異なる返し弓を使ったのみならず、4小節単位からなる各メトリークの継ぎ目を滑らかに繋げることを意識していたように思われた。

逆に大河的なはずの第3楽章では、各ブロックの表情の違いがはっきり浮かび上がった。興味深かったのはヴァイオリン・ソロ。3人のユニゾンが指定されたこのソロを、コンサートマスター樫本大進のソロで弾き始め、途中から2人加わって3人のユニゾンにしたのだ。オーケストラ全体の音量が徐々に盛り上がることへの対処だろうか? しかし、樫本一人がソロイスティックに弾いている方が遥かに存在感があり、3人のユニゾンになるとむしろアタックが相殺されてオーケストラに溶け込みやすく感じられた。ブルックナーのヴァイオリン・ソロの扱いについて考えるうえで興味深い体験だ。ブルックナーはミサ曲第3番でもヴァイオリンの長大なソロを書いているが、その演奏スタイルを考える上でも面白い。

また、ベルリン・フィルの美しさが際立ったのはハープの分散和音に合わせて奏でられる弦楽器のロングトーン。目立ちやすい最高音よりも、むしろ中音域の音の動きを雄弁に響かせることによって、和声の変化がもたらす色彩の移り変わりを楽しむことができた。そうした静かな和声は管楽器も見事で、とりわけホルン・セクションは、首席のシュテファン・ドールだけでなく下吹きにも役者がそろっているだけあって、静謐かつ濃厚なユーフォニーを実現していた。

一方で、金管が咆哮する盛り上がり部分では、いかなベルリン・フィルといえども弦楽器の音が掻き消されてしまう。しかしながら、首席から末席までまったく手抜かりしない全身を使った弾きっぷりによって、視覚で音を伝えていた! とりわけ、古典配置のため中央に陣取ったヴィオラの激しい全身の動きからは、シンコペーションの伴奏がはっきりと「見えた」。

こうした視覚的にも音が伝わってくる表現は、ポリフォニーの極致とも言うべきフィナーレのコーダで特に効果を発揮した。第1楽章の再現であるトロンボーンの下降音型を中核に据えながらも、別の楽章の主題を担当する奏者が全身を使った演奏で加わる。とりわけ、それでなくても遠達性のある音を誇るフルート首席エマニュエル・パユが、激しい動きによって視覚的にも音を伝えていたのが印象的だった。

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2019年11月12日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜ショスタコーヴィチ11番2題〜

 ショスタコーヴィチの交響曲第11番を1箇月おきに聴くという、なかなかに稀有な体験ができた。

 

 先月は105日で井上道義指揮のNHK響(NHKホール)。遅いテンポを徹底し、全楽章を通した音楽の横への広がりが印象的な、大陸的ともいうべき演奏。そして、とにかく旋律を美しく歌うことを重視していたが、そうすることで、第2楽章などの暴力的な箇所との対比が残酷なまでに鮮明となった。第3楽章におけるヴィオラの哀歌や、フィナーレでのイングリッシュホルン池田昭子の独白は、いずれも雄弁な歌い方。とりわけ池田のソロは、前半は昔話をする老婆のように、感情が豊かでいながらも落ち着きがあったが、音域が急に高くなる後半では「あな、いたわしや無辜の民!」とでも言いながら泣き叫ぶように感情を爆発させ、その豹変ぶりに慄然とさせられた。最後の鐘は、沼尻竜典がセンチュリー響と演奏した時のように残響が自然消滅するまで鳴らしっぱなしにするスタイルもあるが、今日の道義はすぐに消音させた。まるで息の根を止められたかのような、残酷な終わり方だった。

 

 そして今月は1111日にエリアフ・インバル指揮の東京都響(東京文化会館)。道義とは対照的な、速めのテンポ設定。そうすることで、1楽章と2楽章が一つのブロックとして一体的な印象を与えた。そして、それぞれが明確な個性を持った第3楽章と第4楽章とで、3つのブロックが鼎立するような曲全体の構成感が明白になった。さらに、12楽章のブロック内では、金管のファンファーレ部分では常にテンポを1段上げる、旋律はフレーズごとにメッサ・ディ・ヴォーチェを徹底する、などの抑揚を効かせ、動的な印象を一層強くした。

 対照的に第3楽章は、店村眞積率いるヴィオラのパート・ソロが感情を押し殺した静謐な演奏スタイルで徹底。1・2楽章ブロックとの残酷なまでの対比をなした。

そしてフィナーレは当然、第3楽章との違いを強調した動的な演奏スタイルを取る。とりわけコンサートマスター矢部達哉率いる弦楽器のユニゾンの、まるで暴発するように躍動的なリズムが圧倒的。東京文化会館のクリアで乾いた音響と相まって、音楽のエネルギーがダイレクトに襲い掛かってくるようだった。しかし大植圭太郎のイングリッシュホルン・ソロは、淡々とした静謐なスタイルで、第3楽章の哀歌に帰ってきたような残酷さがあった。最後の鐘は、残響を残さず早めに消音したが、道義のように一瞬に止めたのとは異なる、ほかの楽器群の残響が消えるのと合わせた自然な消音だった。この巨大で残酷な音物語は、実は一瞬の幻に過ぎなかった、とでもいうような不思議な後味が残った。

 

 ショスタコーヴィチの交響曲の中でもとりわけ愛聴する11番だが、その恐るべき底深さを再認識できた2公演で、一層この怪物的な作品が好きになった。

posted by ちぇろぱんだ at 22:41| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする