2020年06月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.06.26

 大阪フィルに桂冠指揮者・大植英次が登壇しベートーベンを演奏。我らが岩井先生ももちろんご出演(2020.06.26。フェスティヴァル・ホール)。
 巨大なフェスティヴァル・ホールの舞台をいっぱいに使って奏者が疎らに着席。弦楽器も一人につき譜面台1台を使用する。興味深かったのはコンサートマスターの須山暢大が、まるでオペラのピットのように一人だけ雛壇上に着座していたこと。これだけ離れて配置されると、やはりコンサートマスターを見にくくなるのだろうか。
 柔軟で表現の引き出しが多い大植は、このやむを得ずに取られた特殊な配置に相応しいスタイルでベートーベンを演奏。ベートーベンには目くるめく変化をスピードで押しまくって聴衆を圧倒するスタイルもあるが、今日はその逆のスタイル。遅めのテンポで各セクションの音を浮かび上がらせる演奏だった。音それ自体の美しさと、一人一人の奏者の自立した表現力を特長とする大阪フィルが、広い舞台を広く使って陣取っているのだ。各セクション、各奏者の表現力を目いっぱい堪能できる遅めのスタイルを取ったのは慧眼だ。同時に、どのようなスタイルの演奏にも対応し得るベートーベンの音楽の強靭さを再認識させられた。
 この配置は予想外の効果も発揮した。疎らに陣取った弦楽器群の隙間から、木管の音色が雄弁に届いてきたのだ。オーケストラの音色の奥行きは木管が左右するのに、それに比べて弦楽器が強すぎる、という印象を持つことが多い。しかし今日は、いつものように大フィルの弦楽器が強力に鳴りながらも、木管もしっかりと前面に出て豊かな色が実現していた。
 また大植は、歌う部分は奏者の自発性に任せる一方で、トッティ部分では楽譜に無いアクセントを適宜加えて推進力と重量感を加えていた。
 1曲目の第4交響曲の冒頭は、この配置とテンポだからこそ、前衛性が引き立つ。また特に第2楽章では、個性豊かな木管の各奏者の表現力が生きる。とりわけこの楽章の2大主役である金井信之(クラリネット)と小林佑太朗(ファゴット)が、明るい中にもほんのりと寂しさを感じさせる、静謐な存在感を出していて見事。離れて着座したからだろうか、静かな部分に緊張感があり、それが心地よい。冗談音楽的な表現も可能なフィナーレも、今日は音の美しさと音楽の立派さを重視したスタイルを取った。
 休憩はせず、管楽器奏者のほとんどを入れ替えて第5交響曲を演奏。今日のスタイルだと、何度も聴いたこの曲から新たな魅力がどんどんと湧き上がってくる。第1楽章はリズムの魅力が印象的だと思っていたが、今日の演奏では旋律や音色の魅力にも気づく。繰り返される冒頭音型が、その度ごとに楽器の構成を異にして目くるめく色彩の変化を持たせていたことが良く分かった。第2楽章では、田中美奈率いる第2ヴァイオリンが、107小節目からのごく短いフレーズを魅惑的に演奏。ベートーベンはなんて美しいんだ!と素直に感動する。またこの楽章では堀内吉昌のティンパニが生々しい人間味を前面に押し出す。大森悠のオーボエが、16分音符を吹いているだけなのにその音が無上に美しい、というのもまさに大フィルのサウンドだ。そしてやはり圧巻は、第3楽章からフィナーレへの移行部分。静謐な中にも、アルコの弦楽器、ピッツィカートの弦楽器、木管楽器、という多様な要素がちりばめられていることが、今日の配置だからこそよく分かる。とりわけ圧巻は井野邉大輔率いるヴィオラ。弱音ながらも装飾音符がクリアに描き出され、生物の蠢きのような存在感があった。そしてフィナーレに突入した瞬間、福田えりみ率いるトロンボーンの神々しい響きが、神が降臨したような強い印象を放った。つまり音楽史上に燦然と輝くこのブリッジは、生物が蠢くカオスから、神による秩序立った世界への移行を描いた、いわばベートーベン版の『天地創造』とさえ言えるのではないか、と感じた。
 これから地球はどうなってしまうのか、全く想像がつかない。しかし今日は、この状況だからこそ聴けた音楽、この状況にならなければ聴けなかった音楽に、間違いなく触れることができた。
posted by シャーリー at 12:09| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月25日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜ブルックナー3番2題〜

 ブルックナーの交響曲第3番を2日続けて、しかも異なる稿で聴くという稀有な経験に恵まれた。

まずは尾高忠明指揮の大阪フィルによる第3稿(2020116日。フェスティヴァル・ホール)。

 冒頭、チェロ・ベースの刻みがかなり硬質なのが印象的で、篠崎孝によるトランペットの主旋律は静かな中にアクセントの強調と自然な強弱がついた動的な表現。カオス的な冒頭の中に、「今日の演奏は動的で激烈なものになるのではないか?」という予感を感じさせた。果たしてその通り、リズムの鋭さが強調され、豪放な大フィル・サウンドが聳え立つような演奏になった。晩年に改訂された第3稿とはいえ、やはり初期の発想が脈打った作品であることには違いない。そうした、シンフォニストとしてまだ青年期にあったブルックナーの若々しさが燃え立つようであった。

メロディーが多いという第3稿の特徴を生かしてしっかりと歌うが、流麗に歌うのではなく、アクセントを強調して厳格なイメージを付与した。僕はとりわけ、1・2楽章の展開部のクライマックスを形作る第3稿にしかないトランペットのメロディーに違和感がある。しかし今日のように鋭角的に歌うと、そのメロディーよりも、その直後を受ける軟らかい音楽との対比が明確になったことが印象に残った。全く性格の異なるものを接続してしまうブルックナーの天才性がここに表出しているように感じられ、第3稿は第3稿でやはりブルックナーの音楽なのだ、と納得できた。

第1楽章の第2主題部は、ブルックナーに長けた大フィル・サウンドの白眉。ポリリズム的な音たちを敢えて整理せず、茫洋としたまとまりとして大づかみにすることで、かえってふくよかで温かな音楽を生み出していた。ブルックナーの故郷の柔和な農村風景が浮かんできた。尾高はこうした大フィル・サウンドの伝統を生かしつつも、音量バランスに精緻な配慮をしてブルックナーの魅力を一層深めていた。例えば金井信之の硬質で存在感あるクラリネットの音をかなり強調していた。この曲ではクラリネットは、主旋律のエコーや反行形など裏方の役割が多いが、その裏方を強調することでオーケストレイションをより深みのあるものにしていた。また、トロンボーン群の音量を頭一つ突き抜けさせていたのも印象的だ。ブルックナーの交響曲では、「神の声の代弁者」という特殊な役割を担っていた名残でトロンボーンが独自の動きをする部分が多いが、そうした特殊な性格が強調されていた。欠員が続く2番トロンボーンに名手・箱山芳樹を迎えていたこともあって安定感が凄い。また、堀内吉昌のティンパニは、ややザラつきのあるトレモロの音色が野人ブルックナーに相応しい。今回「やはりブルックナーは凄い!」と思ったのが第1楽章の再現部で、一見すると冒頭のカーボン・コピーのようでありながらも、ティンパニのどよめきを伴っている点で冒頭とはやや異なる深みを出していたのだ。堀内の名演がブルックナーの凄さに気づかせてくれた。

今回の尾高の表現で興味深かったのはフィナーレの第2主題。管のコラールと弦のポルカが並行するこの場面、どちらを強調するのかに指揮者の個性があらわれるが、今日は明確にポルカを前面に出していた。音量差だけでなく、コンサートマスターのチェ・ムンスの強烈なリーダーシップを活かし、躍動感で前面に躍り出ていたのだ。そして単なる優雅な舞踏に終わらないのがブルックナーで、第3主題に近づくにつれて不穏な雰囲気を高めていき、まるで美女が般若に豹変するかのようだった。あるいは尾高がポルカを強調した狙いはここにあったのか?

 

翌日は本名徹二の指揮で大阪響による第2稿(2020117日。シンフォニー・ホール)。

アクセントを強調した尾高とは対照的に、旋律の歌い方はテヌート重視。濃縮された第3稿とは異なり、音楽の広がりがある第2稿に相応しくて良い。弦楽器を古典配置にしたおかげで、ポリフォニックな弦楽アンサンブル部分に纏まり過ぎないふくよかさがあるのが良い。譜面へのこだわりが見られたのはボウイングで、第1楽章の第1主題をフル・オーケストラで演奏する部分は、ブルックナーの指示を遵守して連続ダウン・ボウを採用。これによって、弦楽器の各音に金管のテヌートに負けないテンションが生まれていた。

第1楽章は、特に再現部が終わって以降の、ブルックナー休止を挟みながら全く異なる性格のブロックが連ねられていく様が第3稿にはない魅力。特に悪魔的なまでに明るいブロックの印象は鮮烈で、昨年、山形で聴いた序曲の初稿コーダを彷彿とさせた。同時に、こうした第1楽章のコーダの構造が、フィナーレのコーダの構造と平行になっていることも理解できた。

第2楽章は、第2主題に指定されたアンダンテというやや速めのテンポ設定を重視して颯爽と流したのが印象的。第3稿と違ってシンコペーション伴奏が長大な第2稿でこのテンポを取るのは冒険的ともいえるが、本名は正確さではなく幸福感を重視しているようだった。幸福感に満ちた心地よい風が様々な方向から吹き去っていくような印象を受けた。シンコペーションの演奏に求められるのは数字的な正確さではなく、爽快な雰囲気である、と感じた。目から鱗が落ちた思いだ。巨大なブロックが連ねられてクライマックスが形成される第2稿では、室内楽的なコーダが非常に短く感じられたが、このあっさり感もまた良い。

第3楽章はとてつもない快速ではじめられたが、スケルツォ内中間部とも言うべき部分で若干テンポを落とし、構成の深みを強調した。第2稿ならではの、5番を先取りしたような連続打ち込みと、さらに「これでもか」とばかりに続くコーダの迫力は格別。巨象の群れが全力疾走するような重々しく凄まじい迫力があった。

フィナーレもやはり快速で、冒頭伴奏音型の異界的な雰囲気がいっそう強調された。

第2主題部は、尾高とは逆にポルカの躍動感を控えめにして管のコラールを強調。カットが少ない第2稿ではコラールの見せ場が多く残されているので、管を主役に据えた方が良いという判断になったのだろう。第3稿の尾高、第2稿の本名、それぞれの楽譜から最も望ましい判断を導き出したと言える。

そしてシンコペーションの嵐となる第3主題は、第2楽章第2主題と同様、正確さではなく雰囲気を求めた演奏。第2楽章が丘陵地帯の風のような爽快なシンコペーションだったのに対し、フィナーレのシンコペーションはもちろん大聖堂の峻厳さのイメージだ。

再現部の直前、フィナーレ冒頭音型をヴィオラで予告するが、このヴィオラのパート・ソロは、マーラーの『巨人』フィナーレの名高いヴィオラのパート・ソロを先取りしている、と気づいた。青年マーラーはブルックナー3番のピアノ編曲を任されていたので、この曲を熟知していたはず。ブルックナー3番がマーラー『巨人』に影響を与えたことは充分にあり得る。

初稿マニアとしては、第2稿でも「いいところがカットされている」と感じてしまうが、もちろん昨日の第3稿よりは複雑な構成の奥行きは楽しめる。その筆頭はコーダにおける唐突な第1楽章第2主題の回想だ。故郷の幻を見たかのような一瞬のまどろみが、重量感あるブロックが連続する中での緊張感の緩和という重要な働きを担っていることを確信した。

posted by ちぇろぱんだ at 20:25| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2020.01.05〜

 東京ユヴェントス・フィルハーモニーの演奏会を聴く(2020.01.05。ミューザ川崎シンフォニーホール)。指揮は音楽監督の坂入健司郎。

 このコンサートの存在は、昨年9月にブルックナーの墓参りに行った際、墓所であるサンクト・フローリアン修道院の寄せ書き帳に「テ・デウムを歌うのでやって参りました。この書き込みを見た日本の方、15日はぜひ、川崎に来て下さいね!」と日本語で書かれていたのを見て知った。これを見た以上、行かないという選択肢はあり得ない。敬愛するブルックナーの墓所を参拝した者同士、舞台と客席を共有できたことを喜ばしく思う。また演奏者の中には、かつてフィロムジカで一緒にブルックナーを吹いた仲間もいた。これまた喜ばしい。

 1曲目がブルックナーの『テ・デウム』。冒頭、石丸由佳のオルガンが畏怖を覚えるほどの轟音で、ブルックナーの作曲の動機に、神への感謝と同時に怖れがあったことを想像させる。これに比べると弦の「テ・デウム音型」は柔らかな表現で、今日の演奏の基調にあった「慈しみ」が反映されていたと言って良い。声楽ソリストの重唱になってからは、声楽の旋律線をなぞる木管の存在感に意義深さを感じた。単に音程や音量の補助をしているのではなく、声楽が表現している天使たちの影が雲に映っているかのような、重要な独自の役割を演じているように思われた。そしてア・カペラになると、中庸に始まったテンポをぐっと遅くし、人間の声の美しさをじっくりと聞かせた。テ・デウムはア・カペラ部分で緊張感が萎えてしまう演奏が散見されるが、今日はむしろ逆で、「声のみの部分にこそ伝えたいことがある!」というマタイ受難曲ばりの思い入れを感じさせた。この箇所以降、じっくりと歌う遅めのテンポで固定された。合唱によるア・カペラも同様に、一層テンポを落としてじっくりと語った。

 驚かされたのは、終止線ごとに完全に棒を下ろして曲を止め、分断された5曲からなる組曲風に演奏されたことだ。テ・デウムを聴くのは恐らく今日で10公演目ぐらいになるが、このようなスタイルは初めてだ。今まで聴いたあらゆる演奏はアタッカで続けて演奏していた。確かにアタッカで演奏した方が、音楽の緊張感が持続して良い。ただし、慣習を無視してスコアを素直に読むなら、今日のようなスタイルになる筈だ。そして、遅めのテンポですべての音を慈しむように歌う今日の演奏スタイルだと、1曲ごとに丁寧に曲を止めるのもまた相応しく感じる。また教会で行われるミサは短い讃美歌と説教との繰り返しなので、今日のスタイルは本来の祈りの音楽に近いのかもしれない。

 そのきちんとした休止の後に始まったTe ergo。弦楽器古典配置のために中央に陣取ったヴィオラの刻みが、ブルックナーの表現で重要である自然体のディミヌエンドを見事に効かせる。また、テノール・ソロとヴァイオリン・ソロの天国的重奏部分は、この両者だけでなく、トゥッティのヴァイオリンによる音色の支えが美しい効果を発揮した。前述の木管もそうだが、「裏方」の見事な仕事によって全体の美しさに深みが増していた。Te ergoの再現部ともいうべきSalvum facでも、裏方である合唱の弱音が素晴らしい仕事をしていたのは同じだ。

 白眉ともいうべきフーガでは、ソプラノ合唱の安定感のある真っ直ぐな声が良い。「ブルックナーは高音こそ大切」というのが僕の持論なので、大いに感動した。またトランペットが、前面に出るわけではないが埋もれることもなく響きの核を担う、という9番アダージョを先取りしたような難しい役割を、見事に演じていた。

 そしてクライマックスである7番アダージョとの共通主題部分では、再びソプラノ合唱が見事な演奏。高音のロングトーンを、がなりたてるような声でも張り詰めた声でもない、軟らかく温かい滋味深い声で歌ったのだ。慈しみに満ちた今日の演奏にふさわしいクライマックスである。最後はソリストも合唱に加わり、平明なハ長調の和声がミューザ川崎の素晴らしい音響の中に溶け切った後も、幸福な静寂が続いた。

 

 休憩をはさんだ後半はベートーベンの交響曲第9番。ブルックナーとは対照的な推進力あふれる快速で、両者の個性を明瞭に描き分ける。中でも快速だった第1楽章では、展開部の直前とコーダの直前の2箇所のみ、とてつもなくテンポを緩めた。これによって、「提示部展開部およびそれと融合した再現部コーダ」という3部構成が明瞭になり、ブルックナーにつながる「展開部と融合した再現部」を形成した先進性が強調された。木管による提示部第2主題はベーレンライター社版に拠っていたが、提示部と再現部が全く異なるこの版を使用したことで、提示部と再現部が全く別のブロックであることを強調する意味が出たと言えよう。

 第2楽章は、弦楽器を古典配置にしたおかげで、カミテから順に弦楽器がフーガを重ねていくという視覚的面白さを味わえた。また、朝比奈隆逝去後聴く機会が少なくなったリピートをすべて遵守する演奏で、リピート愛好者の僕としては嬉しい限り。これによって回数が多くなったティンパニのソロは、ケトルを2台しか使わないシンプルなスタイルで、地に突き刺さるような見事な音色を披露してくれて感動。クライマックスは、慣習的なヴァイオリンの変更はせずに木管とヴァイオリンを交錯させるスコア通りの演奏で、これまた僕好みで嬉しかった。最後の一音はスコアの記載通りに音量を抜き、次へ続く余韻を作った。

 チューニングと、合唱団の入場に続いて、第3楽章。この曲で唯一となる遅い箇所であることを強調し、時間が静止したかのような静謐さを重視。ただし第2主題は動的で、楽章内で緩急がついている。テ・デウムで首席を吹いたホルン奏者がベートーベンでは4番ホルンを担当していたので、この楽章の鍵となるホルン・ソロが実に素晴らしく決まっていた。クライマックスの後は、第2ヴァイオリンが実に硬質な音色で金管のエコーを演じた。古典配置のおかげで音が客席と逆方向に飛ぶことになるため、エコーの効果がさらに高まっていた。

 フィナーレ冒頭は、木管を増強していたこともあって、木管の主旋律の中に隠し味的にトランペットが潜り込む理想的な音響が聞かれた。そして素晴らしかったのは低弦のレチタティーヴォ。細かな強弱がつけられ、本当に語り聞かせているように聞こえてきた。これに続く合唱主題がトランペットも加わって賑やかになったところで、ソリストが舞台に入場。楽章中に拍手が挟まるのを防ぐ手段として妥当な判断だろう。合唱主題も第1楽章同様に快速で、vor Gottのフェルマータもあっさり切り上げる。これに対してトロンボーンが響きの中核を成す部分は、ブルックナーと同様のじっくりと遅いテンポで演奏。世俗的な賑やかさと、宗教的厳粛さとを、しっかりと描き分けているようであった。この楽章のみ活躍するシンバルは、基本的に小型のものを使っていたが、オーケストラのみによるコーダでは大型のシンバルに持ち替えた。合唱と重なる部分は歌を掻き消さないように小型のものを使用したのだろう。細部にいたるまで考え抜かれた演奏だった。

posted by ちぇろぱんだ at 21:16| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする