2023年08月21日

遠藤啓輔のコンサート日記(2023.08.12)

オーケストラ・ダヴァーイの第16回演奏会。ロシア音楽の知られざる「交響曲第3番」を「3」曲並べるという意欲的なプログラム。指揮は森口真司(2023年8月12日。横浜みなとみらいホール)。

1曲目はシェバリーンの交響曲第3番。
冒頭から、打楽器の暴力的音響に度肝を抜かれるが、すぐにその表層に隠された奥深さに魅了されることになる。この曲の最大の魅力は、刻々と変化する和声がもたらす色彩感。木管は各パートとも特殊管を用い、テューバは2人を擁するなど、管楽器群が充実しており、それによって豊かな和声が造られる。
そして特に両端楽章は、引き締まった筋肉質の音楽や、感情に耽溺しすぎない冷徹さが印象的で、曲の雰囲気が近いと思われるのはオネゲル(特に交響曲第2番)。また、ロシア音楽で印象が近い作曲家を探せば、スクリャービンの原色的な色彩感を思い出す。
第2楽章はコンチェルト・グロッソ的に旋律が歌い継がれる充実した楽章だが、その旋律がことごとく人間味を排した冷たいものである点が独創的だ。イングリッシュホルンやトロンボーンがソロを吹き出すと、ついついショスタコーヴィチからの連想で剥き出しの感情が吐露されるのを期待してしまうが、それが気持ち良く裏切られる。一方で、フィナーレのフーガの均整美には、ショスタコーヴィチ1番の第3楽章を連想させるところもある。
このように、総じて人間臭さを排した冷徹さが目立つ中、スケルツォの泥臭さや、フィナーレの中間部で一瞬だけ姿を見せる耽美的な表情は、この作曲家が実は多相な魅力を持っていることを充分に伺わせる。最後は、フルオーケストラの圧倒的興奮の中で閉じられるが、そのエンジンになっていたのはティンパニと低音楽器によるシンコペーションのリズムだ。シェバリーンは、しっかりとしたオーケストレイションの技法と、他に類を見ない個性とを持ち合わせた作曲家だと感じた。

2曲目、ボロディンの交響曲第3番は一転して、郷愁を誘う旋律美が前面に出た作品で、シェバリーンとのカップリングは両者の個性の違いを際立たせるという点で秀逸だ。冒頭からオーボエのソロが大活躍するが、まさに人間味の塊。科学者のボロディンは、科学では解明できない人間の魅力を音楽で表現したのだろうか、などと邪推してしまう。フィナーレであるスケルツォは、提示と再現でかなりオーケストレイションが変えられていて面白く、補筆完成者のグラズノフの力量をも感じさせた。

最後はハチャトリアンの交響曲第3番。偶然この曲のスコアをササヤ書店でめくっていた時、ズラズラと並んだ十数人からなるトランペットを見て、驚きよりもむしろ「この曲は何かの冗談なのか?」と困惑したことをよく覚えている。こんな曲をまさか実演で聴くことができるとは!!
この膨大な人数のトランペットは、音量によるこけおどしではなく、稠密なクラスター和音を造るために不可欠な人数だとわかった。舞台上のトランペットと、別動隊トランペット(ポディウム席に横一列に配置)との音響の違いも対話的で面白い。
3部構成で、中間部は民族音楽的だが、両端部は終始「警鐘」を発しているように「見える」(音響だけでなく視覚効果もあるので、敢えて「見える」と書く)。
印象的なのはオルガン・ソロ。オルガンはやはり宗教的なので、本来無宗教であるはずのソヴィエト体制と相容れないのでは、という疑念を音から感じる。さらに、ポディウム席の上にあるコンソールに座って、ペダルを多用して両腕両脚を縦横に駆使するオルガニストの姿は、この地上を忙しく差配する天上の神のようにも見える。指揮者が「政治指導者」だとしたら、それよりはるかに高いところにオルガニストが君臨する様相は、政治指導者よりも偉大な存在がいる、と暗黙の裡に示しているかのようだ。単なる体制賛美ではない、いや、むしろその逆の思想の反映のようにも見えた。ハチャトリアン、実は一筋縄でいかない作曲家なのかもしれない。
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2023年08月05日

遠藤啓輔のコンサート日記(2023.08.01)

トーマス・ダウスゴーの指揮で、PMFオーケストラ2023の最終公演である東京演奏会が開催された(2023.08.01、サントリーホール)。
 最初は金川真弓のソロでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。金川は、フレーズを反復する毎に充実感を増していく表現で、遠大な視座を持ってこの曲を捕らえているのが分かる。オーケストラも、この曲を「愛らしい小品」としては捉えておらず、大曲の風格を持った大オーケストラ曲として充実の響きを出していた。もっとも、このようなオーケストラのスタイルが成立しえたのは、金川の立派な音が大オーケストラに太刀打ちできるからだろう。特に第3楽章は、連続アップ・ボウで爽快かつ逞しく突き進む金川のソロと、芳醇な響きのままに軽快さまでも兼ね備えたオーケストラが一体となっていた。
 金川はアンコールにガーシュウィンを演奏。重音を得意とする金川にふさわしく、まるで二重奏であるかのような厚みのある響きになっていた。

後半はブルックナーの交響曲第9番を、補筆完成フィナーレを付けた4楽章形式で演奏。フィナーレはサマレ、マツッカ、フィリップス、コールスによる2012年版で、かつて神戸アンサンブル・ソロイスツで聴いたのと同じ版だ。
http://kyotophilo.seesaa.net/article/390898410.html#more

この4者による補筆完成フィナーレは何度も改訂されているが、今回の版は、第1楽章ユニゾン主題の再現が有り、コーダが長大で充実している点は僕の好みだが、各楽章の主題の同時演奏がカットされているのは残念だ。ともあれ、ブルックナー9番を4楽章形式で聴くことに最大のこだわりを持っている僕としては、まさに待ち望んだ演奏会だ。
 また、教育を目的とした音楽祭らしく、ティンパニは4人の奏者が楽章ごとに交代する、という異色の一面もあった。しかも全員、奏者の右側に低音のケトルを置くスタイルで統一していたのにも驚いた。一人で全楽章叩くよりも難しいのでは?

 第1楽章の冒頭、ダウスゴーは両腕を下げたままほとんど動かず、音楽が自然に滲み出て来るのを待っているかのようだった。そして始まった弦の響きは無音に色だけ付けたかのような静かなもので、木管の和音から音楽がようやく始まる、という印象を与えた。無から少しずつ音楽が立ち上がっていくようだ。ユニゾン主題に至るまでは、次々と湧き出して来る要素をそれぞれ新鮮に演奏し、モザイク感を強調。ユニゾン主題の前から猛然とアッチェレラントをかけ、のたうち回るような生命力ある演奏になることを序盤から示した。ユニゾン主題はダウン・ボウを主体にしたボウイングで三連符を強調。激しい演奏だったからこそ、ユニゾン主題の後の静かなブロックでのリラックス効果が生きる。第2・第3主題はやや速めのテンポ設定。逆に、第2主題部と第3主題部のブリッジは遅く演奏し、この部分の別世界から届いてくるような不思議な静けさが強調されていた。音だけでなく、第2主題部を前後に分けるフェルマータの総休止(130)といった「無音」も印象的。展開部も、別世界的に不思議な音空間や、フェルマータの総休止を強調し、第1主題部ユニゾン主題の再現に向けて猛然と加速する提示部のスタイルを透徹する。Rでの弦楽とティンパニだけの静かで素朴な響きが生きるのも、提示部と同様の効果だ。第3主題部では、再現部にしかないトランペットの音型が、1番奏者にだけスタッカートがつけられている、という綿密な記譜を強調し、響きの立体感を出していた。コーダを導く管楽器の下降コラール(Wの後半)は、各フレーズの中央に付されたアクセントを、あざとくない程度にしっかり表現していた。Z直前は提示部とは異なり返し弓。最後は、「ラ→レ」と動く1番トランペットGrace O’Connellの、「ラ」の高音が強く印象に残った。

 第2楽章は打ち込まれるリズムという「縦の動き」以上に、音楽がうねるように流れていく「横の動き」の方が強い印象を与える。序奏部分は、一人で吹き切った1番トランペットO’Connellを中心にして響きの色彩感の不思議さを強調。続く同音連打は、ブリッジとなるティンパニのトレモロをバーンスタイン風にクレッシェンド気味に伸ばす。このティンパニのトレモロは、流れをせき止めるように短く切る演奏が多い中、今日、第2楽章を担当したOmar El-Abidinのスタイルは、むしろ音楽の流れのアクセルを踏み込むようで、「横の動き」を強調する有効な手段となっていた。そして何と言っても印象に残ったのは、C以降の上昇音型。巨大な昇り龍のように、一体となった生命力を持ってうねった。その後の静かなEでも、オーボエを伴奏する第2ヴァイオリンのピッツィカートが上昇音型で閉じられるのを強調する(ヴァイオリン両翼配置なので視覚的に目立つ!)など、各所にちりばめられた上昇音型を強調した。トリオは木管が突っ込み気味に演奏して鳥の声を表現。そして弦の伴奏のクレッシェンドとスビート・ピアノを強調し、やはり動的な生命力がある。El-Abidinのティンパニの、硬い撥を用いての雑音に近い音色が不思議な効果を出す。

 第3楽章は、冒頭の弦楽をうねるように濃厚に表現。管楽器が加わってからは、これまで元気の良い演奏が多かったトランペット隊にしっとりした響きで演奏させ、上昇音型の美しさを印象付けた。ヴィオラが第1ヴァイオリンの隣という目立つ場所に配されていることもあって、重要な役割を果たす上昇音型がよく聞こえるのも良い。Bでは、金管の咆哮を繋ぐ弦楽によるブリッジをすべてトレモロで濃厚に弾き、ここが上昇音型になっていることを印象付けた。そして、フェードアウトする部分では、トランペットがスタッカートからテヌートへと表情記号が変化していくことをしっかりと表現し分け、それによって遠近感を出していた。ここまで各所で上昇音型を印象付けたからこそ、下降コラールの「生からの別れ」が印象深くなるのだろう。第2主題部は、特に後半部分(D)がダウスゴーの演奏の白眉。ピッツィカートを強調して速目に動的に演奏したことで、舞曲の印象が出て、老ブルックナーが童心に帰って蝶や花たちと円舞を踊っているかのような愛らしさを感じたのだ。再現部では、Kの直前のオーボエからホルンへのリレーを、どちらも力強く濃厚な表現で演奏したのが印象的。この2小節間だけでマタイ受難曲の厳しさを再現したかのようだった。そしてKからは、不協和音による頂点まで、怒涛の流れを持って表現。Lは提示の天国的な発光だけでなく、確保のしみじみとした落ち着きも印象的だったが、これさえも途切れない流れの中で表現された。だからこそ、不協和音の頂点が断ち切られた後の総休止の、長い長い空白が意味深く感じられた。そしてさらに、コーダの別世界のような幸福感に満ちた不思議さも生きて来る。ホルン軍団が8番の回想をする場面でのヴァイオリンの伴奏はレガート気味の艶やかで優しさに満ちた表現。また、ホルンがシモテに配されたので、カミテ側のトロンボーン・コントラバステューバとかなり距離があるが、そのおかげで、最後のトランペットを除いた金管の和声は、舞台の端から端まで淡い雲に覆われたような幸福感に包まれた。

 第4楽章のティンパニのトレモロによる始まりは、オーバーエスターライヒの農村の土から生命力が湧き出してくるような印象を与え、前楽章が雲の中で終わったかのような印象を与えたのと好対照をなす。序盤は全体に音量も力強さも控えめで、鋭いリズムによる第1主題をフル・オーケストラで演奏するまでは、むしろカオスに近い印象を与えた。つまり、第1楽章の序盤がユニゾン主題が出てくるまでカオスのように進行するのと、平衡関係である、ということを強調していたのだ。第1主題部から第2主題部へのブリッジでの、ホルン軍団とトロンボーン・コントラバステューバによるコラールは、前楽章の最後と同様、淡い響きが広い空間を満たす。ヴァーグナー・テューバとコントラバステューバが離れているのはアンサンブルをする上では難しいと思うが、渡部のどかのコントラバステューバの音色が安定しているので、今日は「空間的広がり」というプラスの結果がもたらされた! しかも静謐! 今日のダウスゴーの演奏は、こうした静謐が要所で効果を放ったが、それらはいずれも、「緊張感のみなぎった、殺気立つような静寂」では決してない。広々としたオーバーエスターライヒの畑の土の中にあらゆる音が吸い込まれていくような、「懐かしさや安らぎを感じさせる静寂」だった。これが実にブルックナーに相応しい。第2主題は、第1主題と同じリズムを用いているためにどう表現し分けるかが問われるが、ダウスゴーは第1主題以上に速く軽い表現で演奏。第2ヴァイオリンによる副旋律も可憐(ヴァイオリン両翼配置でカミテ外側に配されたため、音色が控えめになったのも良い)。つまりダウスゴーは、第3楽章第2主題部後半で表現したのと同じ、瀕死の老ブルックナーが童心に帰って遊ぶさまを表現したのだろう。そして白眉は何と言っても第3主題。下降コラールを、各フレーズの中程に力点が来るように音量に大きな変化をつける。つまり、この下降コラールの源流である第1楽章W後半の管楽器の下降コラールとおなじアクセントを付けて演奏したのだ。第1楽章でのアクセントの付け方が控えめだったのは、「第1楽章で蒔いた種が、第4楽章で大輪の花を咲かせる」という感動を表現するためだったのだろう。このコラールではブルックナーの指示通り、ヴァーグナー・テューバを使わずホルン奏者全員がホルンで吹いていたのも印象的だ。僕は、ブルックナーが死に対するオカルト的・背徳的興味を示している場面でヴァーグナー・テューバを使っているのでは、と想像している。第3主題部はひたすらに神聖で崇高な場面なので、だからヴァーグナー・テューバは使わないのだ、と納得が行く。展開部は各ブロックを印象深く演奏してモザイク的だが、これも第1楽章で総休止を強調したモザイク的な演奏をしていたので、平衡感のある説得力がある。低弦のピッツィカートを動力にした行進曲では、金管の打ち込みが軽快に鋭かったのが印象的。ここでは老ブルックナーが青年に戻っているのだろうか。そして、災いをもたらす喇叭のようなトランペットのファンファーレに導かれた、第1主題再現部に相当するフーガは、各弦楽器が主題を連続ダウン・ボウで決然と弾き切ってメリハリをつけていた。スケルツォの同音連打を除けば、「連続ダウン・ボウ」は第1楽章提示部以来、実に久し振りな印象を受ける。つまり第1楽章のコーダで連続ダウン・ボウを採用しなかったのは、第4楽章の連続ダウン・ボウの効果を引き立たせるためだったのだ!
 このフーガを締めくくるホルンの上昇音型は軟らかく吹かれ、「格好良さ」ではなく「温かい優しさ」を志向していた。全楽章に頻出する上昇音型の様々に異なる表情が、ここでも示された。第2・第3主題の再現部は、ブリッジ部分に出現する新たな要素の存在感や、劇的な変化の連続に慄然とさせられる。ブリッジ部分の弦楽によるコラール(Bogen26F)が徹底的に遅く、しかも温かみのある静けさを以て演奏される。補筆者のアイディアで加えられたトランペットの保続音も、O’Connellの音色が素朴で良い。この安らぎに満ちた静寂が、グレゴリオ聖歌風の厳めしい動機の咆哮によって悲劇的に暗転するが、その悲劇性は、第3主題の下降コラールの幸福感によって劇的に明転する。しかしその幸福感も、補筆者のアイディアによって挿入された、第1楽章第1主題部のユニゾン主題によって重々しく閉じられる。この部分では弦楽器が連続ダウン・ボウで三連符音型を伴奏し、連続ダウン・ボウを第1楽章で出し惜しみした効果がここでも発揮される。ユニゾン主題は下のラに降りたところで断ち切られる。第1楽章終盤でのトランペットの高いラの音の印象が、ここに上下逆転して流れ込んできたかのようだ。そして、パーティセルスケッチに基づくコーダに入る。この静かな始まりは、別世界から届いてくるような不思議な音楽で、これまで先行楽章の各所で示されてきた同様の不思議な瞬間と見事な平衡関係を成す。コーダの後半は補筆者のアイディアで構成されるが、この楽章の白眉である第3主題の下降コラールや、第1主題を上昇音型へと反転させた動機を使って、幸福感を出す。その幸福感は、フーガを導いたのと同様のトランペットの不協和音のファンファーレで不穏な陰りを見せるが、それが嘘のように長調の和声に突然変わる(とてもブルックナーらしい手法だ!)。最後は、第2楽章を筆頭にそこかしこで強調されてきた上昇音型をベースに、やはり要所要所に配されてきた三連符音型をトランペットの上昇音型としてちりばめ、弦の打ち込みで逞しく締めくくられる。説得力、幸福感、興奮を兼ね備えた見事な終わり方だった。サントリーホールの空気に圧倒的な感動が充満し、幸福に満ちた静寂が長く続いた。

 今回の4楽章形式によるブルックナー9番でとりわけ印象に残ったのは、完成しなかったとはいえ、ブルックナーが残した第4楽章の断片たちがいかに優れた内容を持っているか、ということだ。それらを聴いた感動は、完成できた第3楽章までの印象さえも凌駕するほどだ。ブルックナーが死のその日まで、命を削って紡ぎ出した動機たちは、過酷な中で生み出されたものであるからこそ、聴く者の心を打つ珠玉の音なのだ。そしてこれらは、ダウスゴーのようなブルックナーへの愛に満ちた指揮者の手にかかれば、とたんに音楽の生命を帯びるのである。
 ダウスゴーについてはこれまで、ニルセンの演奏において他の追随を許さない大指揮者、という印象を持っていたが、ブルックナーについても熱い共感と愛を持っていることがよく分かった。補筆完成フィナーレも含めて全楽章を(リハーサルさえも)暗譜で指揮し、すべての音の運びに確かな意味を持たせているのが伝わってきた。楽譜に無いテンポ変化も、「ブルックナーのこの世界を実現するためにこのテンポがどうしても必要だ」、とでも言うような理念と意志を感じた。

 僕は札幌での公開リハーサルや野外演奏会も聴いたが、意外にも、2日間あった公開リハーサル(会場はKitara)は両日とも通し練習をしただけであった。しかも、破綻しかけた箇所を返し練習することも無かった。「問題点は自分で把握し、自分で解決しなさい」と背中で語っているようで、ある意味、最も厳しい指導者なのかもしれない。しかし青年たちは、課題を見事に解決し、立派に成長してくれた!
 この至高のブルックナーを実現した青年たちが、世界各地でブルックナー9番4楽章版の素晴らしさを伝導していってくれると確信する。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2023年07月02日

遠藤啓輔のコンサート日記(2023.06.26)

 ウィルス禍前に演奏した3番初稿の激烈な印象がいまだに色褪せないマルク・ミンコフスキと都響が、またもやブルックナーの圧倒的演奏を成し遂げた。曲はフィロムジカでも演奏した交響曲第5番(2023.06.26、サントリーホール)。
 3番の記憶から予想はついていたが、やはり圧倒的な快速。ただしミンコフスキのテンポは単に速いのではなく、スピード感を持って流れるフレーズが次のフレーズを呼び出して繋がっていく印象を受け、次々と湧き出すような生命力を持った快速だ。フレーズの歌い方も動的で、たとえば第1楽章第1主題はメッサ・ディ・ヴォーチェを強調した濃厚な歌で、また、フィナーレの第1主題も強拍・弱拍を強調した躍動的なものだった。
 一方で、乾いた表情を持った要素もある。その筆頭は5番を特徴づけるピッツィカートで、全くヴィブラートをかけない乾いた表現であった。このような正反対の表情を持つ要素たちを組み上げることで、作品の奥行きを一層深いものにしていた。

 弦楽器は第1ヴァイオリン16型の大編成によるヴァイオリン両翼配置。前面に並んだヴァイオリンの音を後ろから低弦が押し出すという、弦楽が厚みを持って響く配置だ。そして、ヴィオラをシモテ側奥という音が立つ位置に配する。しかもヴィオラはリンツ・ブルックナー管弦楽団で活躍した鈴木学と、巨匠・店村眞積という両雄が並ぶ最強の布陣。ヴィオラがエンジンとなって、生命力を次々と爆発させる躍動的なポリフォニーとなった。また、第2楽章第2主題は弦の厚い響きが最も効果を発揮する箇所だが、ここではさらに、二分音符で響きを支える低弦の奏法が光った。まるで古楽器のように減衰気味に弾く(ただしヴィブラートはしっかりかける)ことで、バロック音楽のように清澄なブルックナーの一面を浮かび上がらせた。
 管楽器は、金管はトランペットとホルンに1人ずつアシスタントを付けていたが、それよりも木管が各パート4人に倍加されていたのが目立つ。しかも、単なる音量補強ではなく、「トップのソロ以外は(ピアノの部分も含めて)ほぼすべて4人で吹く」という様相だった。これが素晴らしい効果を上げていた。最も感動したのは、第2楽章の後半でフルートのユニゾンに答えて、トランペット・ソロが反芻する場面(183~)。4人(!)のフルートがユニゾンで吹くと、(4人分の空間的な広がりがあるために)平原を心地好く吹き流れる風のような印象を受ける(マーラー4番などで聴かれるのと同様の効果だ)。対して、応答するトランペットはソロ、しかも憑かれたように妖艶な表現をする岡崎耕二の演奏だ。野を吹き渡る風の中に神の姿を見出した祈り人が、感嘆の声を上げているようではないか!
 僕は、ホルンは森の声を、トロンボーンは神の声を、トランペットは人の声を代弁する金管楽器だと考えているが、今日のこの場面はトランペットの「人間臭さ」が最大限に生かされた名演奏だった。

 楽譜は適宜潤色。フィナーレの連続ダウンボウ(390前後)を返し弓に変更していたのは、快速テンポを取った時点で予測がついたが、意外だったのは第2楽章の最後。ここは木管を、原典通りに下降して終わらせる演奏のほか、フランツ・シャルクによる編曲版と同じく上昇して終わらせる演奏もしばしば見られる。果たして今日は、原典通りに吹いたかと思ったら、フルートの最後の2個の四分音符だけシャルク版と同じ高い音を吹いたのだ。どっちの魅力も捨てがたいので、両方の良い所取りをしよう、ということなのか?(僕個人は下降して終止感を出す原典通りが良いと思っているが)
 また、スケルツォ主部で、低弦にクレッシェンドを付加して躍動感を付けていた(38と282)のも、今日のミンコフスキのスタイルに相応しい潤色だった。その一方で、フィナーレの「Choral」に入ったところで、トランペットの音を上げて旋律線を吹かせる品の無いアレンジはせずに、岡崎に楽譜通りの音を吹かせることで、ブルックナーが意図した深みのある音響を実現していたのは嬉しかった。

 今日の演奏で特に凄かったのは、この大曲の構成を実にコンパクトにまとめていたこと。第2楽章が終わった後、客席のざわめきが収まらないうちに(ほとんどアタッカで)第3楽章に入る。これによって、テンポは全く異なるが同じ伴奏音型を持つ第2楽章と第3楽章の双生児的性格を感じさせた(伴奏音型だけでなく、第2楽章は農村の穏やかな風景を、第3楽章は農村の逞しい踊りを表現する、という「農村」繋がりでも両楽章は双生児と感じられた)。しかも、「第1楽章→第2・3楽章→第4楽章」という3部構成的性格が明瞭になると、第4楽章冒頭が第1楽章冒頭のほとんどコピーであることの意味が重要性を帯びて来る。「もとのあるべき場所に帰ってきた!」という感慨が深まるのだ。この「帰ってきた!」感は、第4楽章終盤のVで一層明瞭な形を取る。第1楽章の第1主題(アレグロ主題)が木管のユニゾンによって吹奏される部分で、これをオーボエとクラリネット全員がベル・アップして演奏したのだ。倍加された8本の楽器が高々と天を向くのだから、音響効果だけでなく視覚効果も凄まじい。これによって、「この大曲の最初と最後が繋がったよ!」ということを明確に示したのだ。

 以下は各楽章で印象に残った点。
 第1楽章は、躍動感のある歌い方が徹底された。例えば再現部への導入となるコントラバス(346)が、次へのステップのような躍動感を持って弾かれた。そして、第2主題部再現部のトランペット・ソロ(415~)は、岡崎がスラーの旋律を妖艶に吹きながらも、最後の四分音符のオクターヴ下降を鋭く跳ねて、やはり躍動感を感じさせる。また、展開部の導入(I以降)では西條貴人(ホルン)が安定したソロを決めた後、ホルン・セクションによる序奏の再現となる、その「ホルンからホルンへ」という音色の流れに滑らかさを感じた。
 第2楽章の提示部第1主題は、6つ振りで貫徹。ヴァイオリンが主役になるAからの4小節間のみ4つ振りに切り替えて「異質なものが挿入された」面白さを出すスタイルもあるが、今日はそうではなくむしろ、1つの主題部が同じリズムで貫かれた面白さを前面に出していた。この楽章では特に、久一忠之(ティンパニ)のトレモロや、風早宏隆、ザッカリー・ガイルス、井口有里の黄金のトロンボーンの、弱音の保続音の存在感が光った。
 第3楽章は、スケルツォ主部の最後でヴァイオリンの旋律線の動きが明瞭に浮かび上がった。トリオが快速の中に濃厚な歌があったのも印象的。
 フィナーレは、快速のテンポ設定のおかげで、二重フーガがミニマル・ミュージック風に細分化された音の断片になっても(N前後)高い密度を保持し続けていた。同時に、ホルンなどにごく短い旋律が出てきただけでも、そこに歌を感じることができた。コーダの「Choral」に入って初めて、躍動感あるリズムから詠唱風の歌い方に変わり、崇高さを一層高めた。矢部達哉率いるヴァイオリンが、メトリークの変わり目ごとにトレモロを弓幅広く弾き直し、大きなスパンでの躍動感を出していた。
 すべての音が終わってから拍手が起こるまでの長い静寂は、空気の中に生き生きとした満足感が充満しているように感じた。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする