2019年01月01日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪~2018.12.29・30

音楽監督・尾高忠明によるベートーベン・ツィクルスの最終回は9番。我らが岩井先生も勿論ご出演。(2018.12.29・30。フェスティヴァル・ホール)

 大フィルのシェフになってからの尾高は、これまでの端正なイメージに、情熱を暴発させる破天荒さが加わったように思われる。今日のベートーベンも、第1楽章からインテンポを維持し、フレーズの終わりのカデンツも生真面目に決める形式美を堅持。しかしながらその形式の枠の中を、音楽のエネルギーが荒れ狂うように暴れまわる。たとえば宮田英恵率いる第2ヴァイオリンの轟然たる刻みが音楽に肉厚な魂を吹き込む。第1楽章での刻みの活躍は予想通りだが、第3楽章における刻みの凄みは予想外の素晴らしさだ。

 第2楽章では、中村拓美の地底にまで突き刺さるようなティンパニの音色が作品に相応しい。そしてトリオでは今日最高の美しい響きが聴かれた。トロンボーンを主体とした金管が2分音符を刻む場面で、通常の演奏では同じく2分音符を刻んでいるはずのヴァイオリンが、今日は全音符を弾いていたのだ。大フィルならではの「音それ自体が美しい」ヴァイオリンの響きと、その上に乗る神聖な金管の刻み、という立体的な美しさを実現していた。終演後に演奏者に確認したところ、新版の楽譜に拠ったとのこと。

 第3楽章は、第1主題部から第2主題部へと移る瞬間の妖艶な音色に魅了された。シベリウスを得意とする尾高の個性がこの一瞬に現れていたように思われる。また、野津臣貴博と大森悠の木管デュエットを頭一つ突き出して強調し、コンチェルト・グロッソ的な面白さを引き出す。一方で高橋将純のホルン・ソロは遥か彼方からかすかに聞こえてくるような柔らかい弱音が滑らかに流れる。

 第4楽章は、福島章恭が指揮者になってからの発展が著しい大阪フィル合唱団の魅力が全開。たとえば、テノール福井敬が先導するトルコ・マーチはバッカナール的に豪快。対照的にフーガの直前は、シベリウス的に静謐で妖艶な響きを聴かせる。また、尾高の特徴の一つは、バストロンボーンが鳴る直前の大合唱におけるスフォルツァンドの強調だが、これがトランペットのファンファーレと結びついていることがよくわかり、実に説得力があった。そして最後の合唱を支える弦楽器の全弓による伴奏の音色が素晴らしく、交響楽団と合唱団という2つの大阪フィルが一体となっての名演であることを刻印した。

 尾高忠明は個人的に非常に思い入れのある指揮者だ。僕の二十歳の誕生日をブルックナー9番の至高の名演で祝ってくれた恩人であり、朝比奈隆逝去後も大フィルのブルックナー・サウンドが健在であることをやはり9番で知らしめてくれた巨匠である。尾高忠明と大阪フィルという僕が最も愛する指揮者とオーケストラの、来年以降のさらなる活躍が楽しみだ。
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2018年07月21日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ ~2018.7.13~

シモーネ・ヤングが新日フィルのマチネで得意のブルックナーを演奏(すみだトリフォニーホール)。交響曲第4番の、僕が熱愛する初稿だ。かつて初稿演奏の星だったインバルが最近は第2稿に移行してしまったため、今やヤングこそ初稿演奏の星だ。

 冒頭、低弦がトレモロから離脱する部分の音響変化が印象的だろうと思ってはいたが、実演でのインパクトは予想以上。特にヴァイオリンのメッサディヴォーチェを思い切り強調して音楽を動的なものに豹変させていたこともあり、第1主題確保が、単なる反復を超えた新たな音楽のステージの始まりのように聴こえた。〈ホルンを中心とした落ち着きのある第1主題提示〉→〈木管を中心とした、飛翔するような軽さと動きがある第1主題確保〉、という、音楽の明快な発展が冒頭にして既に聴かれた。初稿独特の動的なホルンもそうした動的な確保の表現と一体化したものだったのだ。

初稿独特の長い総休止は、ヤングのようなブルックナーに長けた指揮者の手にかかると、音楽を止めるものではなく、音楽の次の展開を準備する必要な呼吸の一部として無理なく流れていく。そして低音から始まる挿入句的な部分は、その後にもたらさせる天国的に静謐な下降音型まで一体的な流れをもって演奏されている。

第1楽章中央の金管コラールとヴィオラの並行は、初稿の方が、一層透明感が高くて神聖。そのうえ、ホルンによる第1主題の打ち込みの印象の強さは第2稿には無い魅力。

 コーダは、ギーレンのようには休止のフェルマータを強調はせず、休止を節度のあるひと呼吸と解釈して早めに再開。ホルンによる短い上昇音型の打ち込みは、ベル・アップによって強調。これは短いながらも、フィナーレを反行的に予告する重要な動機であり、それを強調しているのはセンスが良い。動的なスピード感が印象的なコーダで、第1楽章それ自体の印象も、雄大な第2稿よりも若々しく攻撃的、そして、極めて劇的に感じた。「ロマン的」という真意を図りづらい標題には、「劇的な曲を書き得たぞ!」というブルックナーの自信が現れているのかもしれない。

また各楽章に共通することだが、性格の異なる2つの要素の並行、たとえばバッハ的に厳格な伴奏とロマン派的な歌謡主題の並行、あるいは、田園的な素朴な歌と黙示録的な苛烈な動きの並行も、ヤングは両手を使い分けてうまく解析していた。そして、愛聴するギーレン盤ではほとんど拾えていなかった木管の音響やリズムも、今日ははっきりと聞こえる。これによって、ポリフォニーの奥行きや、神性が内在しているかのような空気感が表現されていた。

 第2楽章は、第1楽章と同様に第1主題の提示と確保の印象の違いが鮮明。冒頭には無かったコントラバスが、確保から伴奏に加わることで、動的な躍動感までも加わったのだ。「第1楽章冒頭…提示:主旋律は中音域。伴奏にコントラバスあり。→確保:主旋律は高音域の木管。伴奏にコントラバスあり/第2楽章冒頭…提示:主旋律は中音域。伴奏にコントラバスなし→確保:主旋律は高音域の木管。伴奏にコントラバスあり」というように、第1楽章と第2楽章の冒頭に、平衡や対照の関係があるのが良く見えた。

アンダンテの第1主題部よりもアダージョの第2主題部の方が速く聞こえるという逆転現象はヤングの指揮でも同じ。ただし、流れの滑らかさにアダージョ的なものを表現しているのかもしれない。

第1主題の再現では、第1ヴァイオリンのピッツィカートやティンパニ(定年退職したはずの近藤高顯の重く生命力あるブルックナー・サウンドを再び聴けたのは望外の喜び!)の行進音型が想像以上に効果的で、提示部とは異なる動的な印象を与えた。

ヒロイックなヴァイオリンの動きは初稿独特の魅力だが、それ以上に印象的だったのがそこにかぶさる木管のコラール風の響き。8番フィナーレのコーダ直前を髣髴とさせ、同時に、全く異なる要素が並行するブルックナーの不思議な魅力がここでも炸裂していることを実感した。

音響の豪快な打ち付けが圧倒的なクライマックスから、コーダが終わるまでは意外なほど短く感じる。その短さゆえかえって、鄙びた魅力あふれるホルン・ソロによる終結という魅力が強く印象に残る。ここも『ロマン的な曲をかけたぞ!』というブルックナー自信の箇所かもしれない。

スケルツォは、ヤングがどうカウントするかも興味の的だったが、冒頭はなんと、ヤング自身は全く何もせず完全にソロ・ホルンに一任。今日の客演首席ホルンは、テクニックの完璧さは当然として、音色の奥深さから、音量の多彩な変化まで、この曲のこの稿が求めるソロ・ホルンに求められるあらゆる表現を見事に実現。この名手があってこそのヤングの指揮だろう。ホルン・ソロが終わってからは一小節一つ振りで指揮。例えば7番・8番のような、メトリークや拍子が生み出す律動感が魅力のスケルツォとは全く異なる、拍子すら曖昧な音楽の流れの「得体の知れなさ」がむしろ魅力的。しかし、得体の知れない太い流れの中にも、強弱の変化やトロンボーンの悪魔的な強奏によってしっかりとしたメリハリを作り出す。

トリオの旋律がスケルツォ主部の旋律とあまりにも似ているのがこの稿の弱点かもしれないが、こうして聴いてみると、色彩感と爽快感がトリオに入ったとたんにカラッと明るくなっており、明瞭な変化があった。そして、トリオ終結のホルンによる前打音付きリズムが予想以上に印象的。スケルツォ主部を予告させるだけでなく、主部がダ・カーポされた後も、このリズムに一層注意が行くようになり、同じ音楽の繰り返しなのにやや異なる印象を受けるという不思議さを体験できた。主部を楽譜通り最後まで演奏してから(スコアに無いカットはせず)コーダに入る。ただし、その接続にはやや無理やりな印象を受けた。ブルックナーがスケルツォにコーダを付けることにそろそろ疑問を感じ始めていたのかもしれない。

フィナーレは、ヴァイオリンの強拍弱拍の逆転をきちんと演奏するが、それを強調するようなあざとさはなく、消化された印象。驚かされたのは全音符の下降を中心としたユニゾン主題の表現で、ヤングは完全に棒を止めて一小節ごとの長大なフェルマータで演奏した。そうすると、初稿独特の休止や上昇音型とも相まって、まるで9番のユニゾン主題のような幅広の音楽に聴こえてきた。

この楽章のもう一つのユニゾン主題である5連譜の下降音型の表現もまた見事。奏者に過大な緊張を強いるはずのこの5連譜が、むしろ小節線の枠から解放された自由を謳歌しているように感じられたのだ。

ミサ曲第3番の復活主題から始まるコーダは、主題群の並列が幅広な印象を与え、第2楽章コーダとは対照的に長大な印象を受け、ゆったりと身を委ねられた。その終盤で5連符が再現されたとき、ユニゾン主題で感じた「自由」の印象も再現され、自由の喜びの謳歌の中で曲が閉じられた。

終演後のサイン会の際、ヤングにスコアを差し出すと、既に書かれているサインを指して「これは誰かしら?」と訊いてきたため、インバル(初稿の世界初録音者)であることを告げた。ヤングは「ファンタスティック! 私も大好きよ。」といって先人に敬意を表していた。僕が「僕は初稿を一番愛しています。是非ほかの作品の初稿も演奏してください、特に…」と言いかけると、ヤングは「8番よね!」と僕が言いたいことを先取りしてくれた。今後のヤングの活躍に期待大だ。



 マチネだったのでこのまま関西へ帰ろうと思っていたところ、常連仲間から、ソワレでミサ曲の第3番が演奏されるという衝撃の情報を知らされる。迷うことなく行程を変更し、初台へ飛んだ。その飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルによるミサ曲第3番(オペラシティ・武満メモリアル)。

 キリエの冒頭は弦楽器の弱音が模糊としていたのが印象的で、トレモロによる原詩霧ではなくても、やはりブルックナー開始なのだと思わせる。荒井英治によるヴァイオリン・ソロは縦線が合っているかどうかを度外視して生命力が爆発するような表現を敢行。昼間聴いた4番初稿の異種並行もそうだったが、ブルックナーは縦線の正確さよりも、それぞれの要素が生命力を持っているか、ということの方が遥かに重要であることを実感。ソプラノ・ソロの喜びに憑かれたかのような絶唱もブルックナーの生命力を一層高めていた。

 グローリアは、録音ではトランペットばかり拾ってしまう冒頭が、こうしてライヴで聴くと多様な要素の分厚い重なりによって巨大な音の生命体になっていることがよくわかる。弱音部分は神秘的かつ前衛的だ。そしてフーガは、骨太の音色でありながらもテンポは快速で押し通し、瞠目せざるを得ないすさまじい興奮を呼び起こした。

 飯守は楽章間をほとんど休まずに突き進んだので、フーガの興奮冷めやらぬままクレドに突入する。ソリスト4人を指揮者の両横に配置した視覚効果もあって、ソリストが喜びに溢れた人々を先導しているように見える。室内楽的なオーケストラとソリストの交唱の場面になると合唱団は一斉に座る。合唱の出番がないのではなく、静かに歌っているのだが、座奏になることで静かな印象が一層強くなり、重層的なオーケストレイションの妙味が一層生きてくる。対向するヴァイオリンとヴィオラのソロはシンコペーションに推進力があり、静かな中にも途切れることの無い生命の流れを感じる。そして、昼間聴いた4番初稿と同じ素材を使ったキリストの復活の場面に入ると、まさに期待していた通り!合唱団が一斉に立ち上がり、視覚的にも「蘇り」を表現した。予想していたのにもかかわらずその迫力は圧倒的で、心臓の鼓動が狂いそうなほどだった。そして復活の場面の後のフーガは今日の白眉。フーガの中にそびえる大理石の柱とも評される「クレド!クレド!」の4音が、1回1回表情が異なり、時に誇らしく、時に慈愛に満ちて、時に悲しみに寄り添うように、様々に多様な表情で慰めてくれたのだ。

 サンクトゥスは改めて聴くとその短さに驚かされるが、直後のベネディクトゥスで全く同じ「ホザンナ」が再現するため、2曲合わせてスケルツォ楽章的になっているように感じられた。また、昼間の4番初稿で聴かれた低音から始まる挿入句がミサ曲でも聞かれ、ブルックナーにとって交響曲とミサ曲が同一地平にあることを再認識させられた。

 そしてアニュス・デイでは、終盤の3音の上昇音型の繰り返しが力強く輝かしい。そしてグローリアのフーガ主題の再現は荒々しく熱狂的。それでいながら曲を締めくくるオーボエ・ソロはイン・テンポのまま、良い意味でそっけなくあっさり吹き終える。壮麗なミサが催された聖堂の外へ出ると、そこには小さな花が風に揺れる穏やかな農村風景が広がっていた。といった雰囲気で、ブルックナーの心の故郷が農村であることを確信させる演奏であった。
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2018年04月22日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2018.04.07

 尾高忠明の大阪フィル音楽監督就任披露公演。大フィルでシェフを勤めるための通過儀礼とも言うべき、ブルックナーの8番を指揮。もっとも、朝比奈隆逝去後、定期演奏会で最初にブルックナー(9)を演奏し、「大フィルのブルックナー健在!」を印象付けたのは他ならぬ尾高だ。むしろ待望の尾高/大フィルのブルックナー8番と言うべきだろう。

 第1楽章。響きの面からもポリフォニーの面からも、ブレンドされた深みを重視した演奏。例えば冒頭の金井信之(クラリネット)のソロは、無から静かに立ち上がるような吹奏。あるいは楽章最後の井野辺大輔率いるヴィオラの下降音型は、マルカート感を廃した模糊とした音色によって静寂へと溶け込んでいった。一方で、際立たせるべきものはクッキリと描き出してメリハリを付ける。筆頭が藤原雄一のテノール・テューバ。技術が安定しているのは当然のこととして、特筆すべきは朗々たる歌謡性と頭一つ突き出した存在感。ブルックナーの原典版に求められる、自発性に溢れた生命力を見事に体現していた。リズムもクリアに鳴らされており、例えばカタストロフィを形成する金管の「死のリズム」で細かい音符がきっちりと分割されて鳴らされていた。また、高橋将純(ホルン)のソロは全く不安がないので、広大な丘陵のようなイメージに浸ることができる。その高橋から大森悠(オーボエ)へとソロが受け渡される瞬間、ヴァイオリンのトレモロがスビート・ピアノされ、目に浮かぶ風景が遠景に変わる。ブルックナーの生命線である弦のトレモロの美しさは、大フィル最大の遺産として受け継がれている。圧巻はカタストロフィへの道程。一音一音、踏みしめるようにしっかりと鳴らしていくのだが、トレモロの弦楽器がその各一音の冒頭を長い弓幅を使ってしっかりと鳴らすのである。これも大フィルのブルックナーが誇るトレモロだ。

 スケルツォは先々への見通しが効いた演奏。5小節目のスビート・フォルテをしっかりと生かすが、これは、再現時にティンパニが加わることを見通していることの証左である。ただし、ボウイングは作曲者の指定を無視した返し弓。少しがっかりしたが、これも先々を見通しての改変だと判明。川浪浩一のコントラバステューバとともに同じ主題を大音響で反復する場面になって、ブルックナーの指示通りの連続ダウン・ボウで弾き始めるのだ。「野人」の雰囲気を、小出しにしながら盛り上げていく、遠大な視座を持った演奏だったわけだ。また、この楽章では特にクラリネットの鳴りが良く、響きの色合いを深めていた。そして、ブリッジ部分に対して、クライマックスに勝るとも劣らない魅力を感じさせるのは名演の常だが、今日もそう。ヴィオラから始まる苛烈な断片の応酬で傷ついた後に、癒すような木管の柔らかい音に包み込まれる、その展開が見事だった。ピッツィカートを受け継ぐフルートは、弦との落差を感じさせない稀有な演奏。もちろん音量は弦に及ばないが、田中玲奈ら奏者たちの鋭い勢いによって、弦に遜色ない緊張感を出していた。この熱演あって、提示とはまた異なる炎のような色彩が再現部に加わった。

 トリオは、ハープが演奏し終えてから始まる中間部分を、一層テンポを落として静謐に演奏。ここが第2楽章の核であることを強く印象付けた。フレーズを収める篠崎孝(トランペット)のスビート・ピアノが見事!

 第3楽章。決して設定テンポは速くないのだが、前半2楽章をかなり遅めのテンポで演奏したために、実際以上に速い印象を受ける。アダージョの重量感を持ちつつ、生命力ある推進力をも兼ね備えた演奏を、大曲全体を見通したテンポ設定によって実現したのだ。第1主題部の、平野花子ら2台のハープと弦楽器の天国的合奏は、1音ごとに歌い直すスタイルの演奏ではなく、4小節間を一つの流れを持った歌として滔々と流すスタイルをとり、ここでも推進力を感じさせる。フレーズの収めはたっぷりと引き伸ばし、これによっても音楽の流れを作り出す。第2主題部は今日の演奏の白眉。近藤浩志率いるチェロの温かい歌が、「君の人生は間違っていない」と言うかのような肯定的な承認を与えてくれる。ブルックナーを聴く意義はここにあると言っても過言ではない。第1主題からこの第2主題へと至る部分の説得力ある流れは圧巻。蒲生絢子(2番ホルン)のソロ、田野倉雅秋・力武千幸・鈴木玲子によるヴァイオリン・ソロはいずれも、無からいつの間にか始まって音楽の生命を大きく醸成する。これを受けた金井のクラリネット・ソロが、クレッシェンド気味に存在感を増しながら降臨してくると、リテヌート気味に丁寧に藤原のテノール・テユーバへと受け渡す。ここでも藤原は父性(父を早くに喪ったブルックナーにとっては、おそらく神性と同義)を体現したかのような包容力と存在感を実現していた。また、ハースが初稿から引用したフレーズは、躍動感を持って演奏され、クライマックスでの躍動的な表現をさりげなく予告していた。ハース版を使う意義をしっかりと感じさせる演奏だ。そのクライマックスでは、大音響なのに他の楽器をかき消さないという大フィルのティンパニの伝統を堀内吉昌がしっかりと継承していた。そして最後のヴァーグナー・テューバ合奏は、第1楽章再後のヴィオラと同様、全体にブレンドされるようにして溶けていった。

 フィナーレは特に展開部が圧巻で、とりわけ印象的だったのは練習番号Lの下降音型。9番第3楽章の、奇しくも練習番号Lのような滋味深さを感じさせる。弦・木管の音色はもちろん、福田えりみ率いるトロンボーン・セクションの音色が神々しい。神の降臨を思わせるこの場面では、やはりヴァーグナー・テューバではなくトロンボーンを使わなければならないのだ、ということを認識させられた。そして、第1主題の再現では、管楽器の主旋律以上にヴァイオリンの激しい下降音型を際立たせる。滋味深い下降音型が、力強く変貌した姿だということだろう。また、第3主題が再現される直前では、ハース版にしかないフレーズが不穏な雰囲気を醸し出し、コーダの悲劇性を予告した。ここでもハース版を使う意義を感じさせた。尾高が以前、NHK響でハース版を演奏した際には、この箇所でフルートが大崩壊していた。尾高は大阪フィルという理想的なオーケストラを得て、ようやく自らが目指す演奏を実現したと言えるだろう。コーダでは、ホルンによるスケルツォ主題の回想を、アシスタントの安土真弓(名古屋フィル首席)も加わった5人のベル・アップで強調。最後を飾るトランペットのスケルツォ主題へと見事に繋げた。最後はしっかりとリテヌートで引き伸ばされ、遠大な視座によって長大な流れを実現した今日の演奏にふさわしい締めくくりとなった。

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