2025年06月07日

遠藤啓輔のコンサート日記(2025年5月24日)

 九州大学芸術工学部フィルハーモニー管弦楽団が、珍しいブルックナーの初期の作品を演奏した。指揮は楠本隆一。(2025524日。福岡市立南市民センター・文化ホール)

 1曲目がブルックナーの『行進曲ニ短調と3つの管弦楽小曲』。この曲はブルックナーが作曲修行をしていた時の習作をまとめたもので、実は曲名の表記も統一されていない(そもそもブルックナーが曲名を付けていない)。いま簡単に手に入るブルックナー協会版のスコアでは『4つの管弦楽小品』のタイトルでまとめられている。僕がまだ録音も含めて聴いたことが無い珍しいブルックナー作品なので、敢えて音源を聴かず、スコアだけで予習してコンサートに臨んだ。以下は、協会版のスコアに合わせて各曲を「Ⅰ~Ⅳ」で表記する。そのため、当日配布のプログラムノートとは楽章名が食い違う。ちなみに団員執筆のプログラムノートは、演奏者としての実感が現れていて共感しやすい。特に終曲について、「これまでの楽章とは対照的に、どこか吹っ切れたようなすがすがしさを感じさせる」と書いているところなど、鑑賞するうえで大いに助けになる。

 素人の僕は楽譜を見ても和声をイメージ出来無いので、初めて音で聴くと、その響きの色彩感に驚かされた。特に第Ⅳ曲の冒頭は、対位法的には極めて簡潔に書かれているものの、旋律線の要所要所に前衛的な和声が忍ばされていて、官能的とさえ言える色彩の変化に富んでいた。ブルックナーを聴く法悦だ!

 この曲集は第Ⅰ曲冒頭に「Marsch(行進曲)」と書かれているだけで、テンポ指示が一切無い。したがって、どのようなテンポを取るか、ということそれ自体が興味深い。遅めのテンポを好む僕には、今日のテンポはやや速目な印象を受けたが、そのおかげで、旋律の中にほのかな滑稽味があるのを感じた(特に第Ⅰ曲!)。素朴さの中に可笑しみを忍ばせた、ブルックナーのスケルツォ楽章に通じるものがある。

 そして今日の演奏は、イン・テンポを堅持したのが良かった! 後年のブルックナー作品と同様、この初期の習作でも、伴奏音型をより細かく刻ませることによって立体的な盛り上がりを造る。こうした建造物のような巨大な音楽は、テンポを煽って作為的に盛り上げようとすると、音の構築物が崩壊してしまう。今日のテンポは、作品の構造に合った堂々たる落ち着きがあった。また、主部と中間部でテンポをはっきりと変えるのも有り得ると思うが、今日は全く同じテンポで通した。それでも、例えば第Ⅰ曲の中間部は、オーケストレイションの軽やかさによって主部と異なる雰囲気が出ており、各曲とも3部形式の充実感があった。

 ただ1箇所、楽譜に無いルフトパウゼを加えて効果を出した場所があった。第Ⅲ曲の最後だ。この曲の終盤は、短調の和声で進行しながらも、最後の1小節のみ長調の和声の延ばしになる。この転調の鮮烈さを、ルフトパウゼを加えることで見事に強調していたのだ!

 極端な変化というブルックナーの特徴が、この初期の習作ですでに、立派に形を成しているのを強く感じた。特に第Ⅱ曲や第Ⅲ曲での、フォルテからピアノへの極端な変化は、期待通りの効果を出していた。初めて音で聴いて驚いたのは第Ⅲ曲で、ヴァイオリンのターン音型の直後にフォルテとピアノの交錯が現れており、盛り上がった感情をさらに豊かにしていたのだ。ブルックナーに特徴的な語法が、きちんとストーリーをもって展開していることが良くわかった。

実際に音として聴いてみてその効果を再認識させられたものには、複雑なものと簡潔なものの対比もある。例えば第Ⅳ曲は、中間部のシンコペーションが徐々に印象的になっていく(特にヴィオラとチェロが0.25拍ズレるのが凄まじい!)。そのように複雑化を極めた頂点で、極めて簡潔に書かれた主部の冒頭にダ・カーポするのだ。比類のない対比の効果である。

 賑やかに終わる第Ⅰ曲と第Ⅳ曲の最後が、徹底したイン・テンポだったことも奏功して、「えっ? これで終わったの?」と感じさせる、あっさりとしたものだったのも良かった。僕は41880年フィナーレや8番初稿のあっさりした終わり方を好むので、今日の演奏は「これこそブルックナーの終わり方だ!」と膝を打ちたくなった。

 オーケストレイションの面では、トランペットが、ファンファーレやリズムの音型だけでなく、旋律を歌う面でも活躍しているのが印象的だった。ブルックナーは、序曲ト短調や2番までの交響曲では、ファンファーレとリズム打ちを主体にしたベートーベン風のトランペットの使い方をしている。僕はてっきり、リンツ時代のブルックナーの身近にいたトランペット奏者の技術的限界を反映しているのだろうと思っていた。しかし今日の曲を聴く限り、そういうわけではなさそうだ。ブラームスと同様、「交響曲を書く際はトランペットを敢えて抑制的に使おう」という意図が、一時期ブルックナーの念頭にあったのかもしれない。

 この4曲は、ストーリー性を意識して作曲したわけではないと思うが、今日の演奏は、全4曲を通しての音楽の大きな流れを造っていた。例えば前半では、トランペットのファンファーレ音型を全く目立たせなかったが、第Ⅳ曲になって高らかに鳴り響かせた。前半の曲でのファンファーレは飽くまでも伏線として扱い、終曲でその種明かしをするという大胆なストーリーを持たせていたのだ。あるいは、トロンボーンの扱いも印象的だった。譜面では、トロンボーンを3本使うのは第Ⅰ曲のみで、第Ⅱ~Ⅳ曲はバス・トロンボーン1本のみだ。しかし今日は中間の曲でも要所でトロンボーンを2本ユニゾンで使い、そして終曲の第Ⅳ曲ではトロンボーンを3本ユニゾンで用い、堂々たるフィナーレという印象を強化したのだ。



 2曲目はバルトークの『ハンガリーの風景』。バルトークも僕が熱愛する作曲家だが、こうしてブルックナーと並べて聴いてみると明らかに個性が違う。ブルックナーが均整のあるメトリークとイン・テンポの流れを使って壮麗な音の構築物を造営していたのに対し、バルトークは民謡風の歌の自由闊達さが魅力であり、それを描き分ける演奏がなされていた。テューバなど低音によるグロテスクな音色も魅力的だ。印象的だったのはハープの代用として使用された電子ピアノ。まるでツィンバロンのような魅力を放っていた。そもそもバルトークがこの曲にハープを使ったのは、ツィンバロンの代用としてではないのか? ハープを電子楽器で代用したことによって、かえってバルトークの当初の意図に帰ってきたように感じた。



 3曲目はドヴォジャークの交響曲『新世界より』。これまた民謡調の旋律が魅力の作品。ただし僕は、ドヴォジャークはブルックナーと通じる部分が多い作曲家だと感じている。田舎の自然を愛する、信仰心が篤い、弦楽器奏者として出発、オルガンの名手、などの共通点があるのだ。今日の演奏も、主旋律はドヴォジャーク独特の土臭い豪放さを持ったものだったが、それを支える伴奏は土台がしっかりしており、色彩の変化に落ち着いた流れがある。ブルックナーと同様、讃美歌を支える伴奏と同じ発想で書かれているのだろう。均整ある伴奏に支えられたブルックナー、自由闊達な民謡を素材にしたバルトーク、その両者の特長を併せ持つものとしてのドヴォジャーク、というストーリー性を持ったプログラミングになっていた。

 今日の演奏で印象的だったのは、「夜」の雰囲気を感じさせる箇所。私見だが、ドヴォジャークは夜の場面と昼の場面をはっきりと描き分けていると思う。今日の演奏では、第2楽章で、夜を象徴する弱音器付きホルンが登場してから、オーボエが朝を告げるところまで、光の無いモノクロームの雰囲気がしっかりと描かれていた。この表現の見事さから、第4楽章でも「夜」が描かれているのではないか、と連想した。擦り奏法によって見事に神秘的な音を出したシンバルの後の、第2主題部前半。ここの静謐な表現に「夜」の雰囲気を感じた。ドヴォジャークがわざわざ1回だけシンバルを用いたのは、この「夜」を演出するためではないか、と邪推した。ちなみにこの第4楽章では、本来使わない筈のテューバを使用していた。第2楽章冒頭を回想する部分などで吹いており、整合性の取れたアレンジである(小林研一郎も同様のアレンジをしている)。その第2楽章の冒頭であるが、透明な薄い音色で演奏されていたのに驚かされた。この場面、ここでだけ使われるテューバのために重々しい響きになることもあるが、今日は速めのテンポに合った軽い響きを志向し、それを実現していた。見事である!

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2024年11月25日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024年9月4日/10月11日)

 ブルックナー・イヤーの今年、ブルックナーの誕生日と命日を、僕はともに広島で過ごした。もちろん、広島交響楽団がブルックナーを演奏したからだ(演奏会場はともに広島文化学園HBGホール)。


 生誕200周年のまさにその日である94日は、ミサ曲第3番を演奏。この選曲のセンスが素晴らしい。ミサ曲は神への賛美で貫かれた幸福感の塊のようなジャンル。その最高傑作である3番は、ブルックナーの生誕を賛美するのにふさわしい。

 指揮は広響の常連指揮者の一人、ヘンリク・シェーファー。ヴィオラ出身だけあって、ポリフォニーをくっきりと彫琢した立体感のある響きを構築する。

 全体に滋味深い明るさに満ちており、先月歩いてきたブルックナーの故郷の農村風景が目に浮かんでくる。終曲のクライマックスは輝きに満ちており、聖フローリアンに凱旋するブルックナーの晴れやかな心情が表れているかのようだ。この部分でシェーファーは、楽譜には無い潤色をして効果を上げた。簡潔に輝かしく上向するトランペットなどの金管を、少しずつディミヌエンドさせたのだ。これによって、晴れがましい大聖堂の威容が少しずつ遠景にフェードアウトし、「平和を与えたまえ」と言う人間の声が浮かびあってきた。

ブルックナーに長けた偉大なコンサートマスター四方恭子が率いる弦楽器を中心に、オーケストラの鳴りが立派。名古屋から聴きに来た我らがヴァイオリニストの安江ちゃんの見立てによると、弓を長く使い過ぎることなく、一番鳴る箇所を使って「良い音」をしっかり出していたとのこと。

 声楽陣もしっかりした響きを出しており、とりわけ合唱を名門・東京オペラシンガーズが担当したので、和声の色彩感やフーガの立体感が素晴らしい。

また、「hosanna」を先導するソプラノ・ソロの隠岐彩夏が無垢で溌溂とした声色で、ブルックナーの生誕を賛美するにふさわしかった。


 ブルックナーの命日である1011日は、準メルクルが指揮。曲はもちろん、まさにその日まで作曲を続けた交響曲第9番だ(ただし、3楽章版)。

 メルクルの9番は横の流れが印象的な演奏。もちろん、音響も素晴らしい。ヴィオラをシモテに配する古典配置のため、内声がしっかり鳴って、立体感がある。第3楽章冒頭の第1ヴァイオリンのパート・ソロに第2ヴァイオリンも重ねる潤色をして、音響を一層肉厚にしていた。しかしそれら以上に、連続する各ブロックが応答しているようで、その流れが意味深く感じられたのだ。例えば、全曲中の最大の見せ場の一つである第3楽章の練習番号L。その直前の管楽器によるミゼレーレが悲痛な感情を込めて訴えるように演奏されると、それに対する神の答えのように、極めて静謐だが慈愛に満ちた響きで練習番号Lの弦楽コラールが演奏されたのだ。この名場面に代表されるように、メルクル演奏の9番は、物語的な印象を受けた。ブルックナーは晩年、オペラを作曲するよう熱烈なオファーを受けるも、9番作曲を優先して断っている。しかし、もしもブルックナーがオペラの作曲を受諾していたらどのようなものになっていただろうか? メルクルの今日の演奏は、その仮説への壮大な解答例であるようにも感じられた。


 壮麗に邪心なく神を賛美した壮年期の傑作・ミサ曲第3番に比べると、最晩年の交響曲第9番は、悲しみや苦悩の深さが極大化している。ブルックナーの人生の中で、測り知れない艱難辛苦があったのだろう。しかしそれらをも音楽の中に昇華してしまう強靭さで、ブルックナーは1011日まで作曲を続けたのだ。

 ブルックナーの誕生日と命日に、それぞれに最もふさわしい曲が演奏され、ブルックナーの偉大な人生が浮き彫りになった。この広島交響楽団の1カ月は、世界のブルックナー愛好者に誇るべき偉業だ。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2024年09月29日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024年9月14日)

 ブルックナー交響曲第8番の初稿演奏、こんどはNHK交響楽団が、シェフのファビオ・ルイジの指揮で敢行した(2024914日。NHKホール)。

 ルイジはテンポ変化がほとんど書かれていない初稿の楽譜を、「テンポは演奏者に委ねられている」と解釈したのだろう。(楽譜には書かれていない)大胆なテンポ変化によって、大きな抑揚を持った音楽に仕上げていた。ブルックナーの音楽は、テンポ変化が上手くいかないと大失敗する危険がある。失敗パターンの典型は、「テンポを少しずつ煽った結果、音楽が軽薄になる」「雄大にテンポを落とそうとしたものの、ぎこちない動きになった」「テンポの前後関係の辻褄が合わない」といったことがある。しかしながらルイジは偉大で、ブルックナーの特徴に合ったテンポ変化を、確信をもって実施していた。

 典型がスケルツォ主部。ブルックナーのスケルツォは、スケルツォ主部の中にも中間部的なブロックがあるが、そのブロックを別世界的に遅いテンポで演奏。冒頭の音型が回帰すると、最初の速いテンポにすぐに切り替えたのだ。ブルックナーのスケルツォ(特に初稿)は4小節単位のメトリークでできており、これを無視して少しづつテンポ変化すると、音楽がぎこちなくなる。今日のルイジのように、メトリークの変換点でスパッとテンポを切り替えた方が、ブルックナーの音楽が生きる。なお、スケルツォ楽章では、休んでいる筈のヴァーグナーテューバ奏者がホルンに持ち替えて、アシスタントとして演奏に加わっていた。しかも、1~4番ホルンとかなり細かく演奏箇所を分担するこだわり。ルイジがこの楽章に特別な思いを持っていることをうかがわせた。

 また複雑な構造を持った第4楽章でもテンポによる整理が光った。第3主題部をかなり速いテンポで突き進み、同じ伴奏音型を持つ展開部の行進曲風部分も、同様の速いテンポを取った。これは初稿演奏の開拓者・インバルと同じ解釈で、「同じ要素を持つ部分を同じテンポで演奏する」という説得力がある。


 初稿だからこその美しさは、特に第1楽章において光っていた。ルイジは、その身振りからも、この楽章が「歌に満ちた美しい楽章」であることを前面に出していたと思われる。ティンパニを限定的にしか使わない初稿独特のオーケストレイションが、これを裏打ちする。硬質なティンパニによって隈取られた逞しい音楽、というイメージは、第2稿がもたらしたものなのだ。なお、やはり初稿独特の静かで長大な展開部も印象的だった。第2主題由来の弦楽器の背後で静かに蠢く木管の動きが、まるで雅楽のような神秘性を持っており、ブルックナーの前衛性に慄然とさせられた。


 ルイジの個性的解釈が全体的に印象的だった中、第3楽章は極端なテンポを取ることはなく、端正に表現した。特に、各フレーズがしっとりと収められていたのが良い。ただ、ハープが中途半端に2台しか用いられなかったのは残念だ。広島交響楽団といい、先週の東京シティ・フィルといい、ブルックナーの指示通りハープを3台使用し「三位一体」を視覚的にも実現する演奏が、最近のプロ・オーケストラでは一般化したと思っていたのだが。N響ほどのオーケストラがこのような人数縮減をするのは、文字通り見劣りがする。


 楽器配置は両ヴァイオリンを並べ、ヴィオラをカミテ外側に出すN響の通常配置で、新鮮味はない。対照的に興味深かったのは金管の配置。ホルン・ヴァーグナーテューバをシモテに配し、直管は一列に並べて、カミテにトランペットを置く。これは、コントラバステューバを、トロンボーンとヴァーグナーテューバの間に置き、双方のベースラインとなりやすいように、との配慮だろう。結果として、トロンボーンが舞台の奥中央に陣取ることになり、神聖な楽器としての存在感が際立った。とりわけ、トリオの要所で神聖な響きを造る初稿独特のオーケストレイションが生きた。また、テューバ5人が一箇所に集まったことで、舞台左奥の高所からテューバの和声が降り注いでくるような効果があった。


 今日の演奏の最大の見せ場は、全曲の最後。トランペットのファンファーレが1本ずつ数を増やすのと比例して増していく幸福感は、長く充実した散歩の末に故郷に帰り着いたかのような晴れがましさがあった。これは、長い散歩のような全曲の演奏が充実していたことの証左に他ならない。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする