2020年07月11日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.07.09

 ミュージック・アドヴァイザー秋山和慶が先月に続いてセンチュリー響に登壇(2020.07.09。シンフォニー・ホール)。
 1曲目はヴェーバーのオベロン序曲。間隔を広くあけて着座しているため、冒頭の日高剛のホルン・ソロと伴奏の弦楽器との間に文字通りの距離があり、「遥か彼方から聞こえてくる角笛」という雰囲気がいっそう強化された。この効果は木管群が加わってからも同じで、離れたところにいる妖精たちと声を交わしあっているような印象を受けた。主部に入ってからも、離れて着座した各奏者がしっかりと音を出しているためか、実際の人数以上に充実した印象の肉厚な響きが出ていた。
 2曲目は今日もっとも楽しみにして来たショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番で、独奏は俊英・佐藤晴真。冒頭、チェロのソロで、涙が一滴こぼれ落ちるような下降音型を核とする動機を弾き始めると、それがオーケストラに受け継がれ発展する。そのメロディーのタコ臭くてグロテスクなこと!まさにショスタコを聴く至福だ。第1楽章はラルゴの遅い音楽だが、荒井英治率いる弦の伴奏のシンコペーションの生気のおかげで程好く動的。グロテスクな容貌はそのままに、おもちゃ箱のように猥雑な軽快さを持った音楽に豹変する場面では、先日リバイバル上映を観た『AKIRA』の、可愛いクマの縫いぐるみが強大な怪物に変貌する場面を思い出した。もちろん両者に関連はないだろうけど、ショスタコーヴィチの音楽は映像的だ、ということが表れていると思う。そして、晩年のこの作品にはショスタコーヴィチならではの様々な要素が溶け合っているのを感じる。大太鼓の印象的な連打は、マーラー10番へのオマージュではないだろうか。そして終盤の打楽器群による死を刻む時計は、明らかに自身の4番シンフォニーの引用であり15番シンフォニーの先取りだろう。この打楽器をロングトーンで支えながらやがて孤高に姿を現す最後のソロ、佐藤の凛としたクレッシェンドは、冒頭の涙の音型が逞しく変貌した姿に見えた。全体として、佐藤もセンチュリー響も、ショスタコーヴィチならではの乾いた美しさを見事に表現していた。たとえば日高のホルンは、ヴェーバーでの柔らかな音色とは全く異なるテヌート重視の音質で、音楽の構造が生々しく眼前に展開するようだった。そして佐藤のソロも、時として深々とした低音を聞かせつつも、基本的にはホールの残響と敢えて手を切るような乾いた音色で、ショスタコーヴィチの厳しさを表現していた。見事である。
 しかし佐藤の表現者としての力量がさらに遺憾なく発揮されたのは、アンコールの『鳥の歌』だったかもしれない。美しい楽器の音というよりも、むしろ腹の底から絞り出した肉声のような音をホールに満たした。思うにウィルス禍が悲しいのは、病気の流行というだけでなく、そのことが人類の醜さとおぞましさをあぶり出してしまったからではないのか。この悲しみは、カザルスが感じた悲しみと同類だろう。ホールを満たしたチェロの音に、世界に対して青年が直截に感じている思いが発露していたのではないかと感じた。そして、今日のこの歌の中には、淡い淡い希望がこもっていたようにも思われた。
 休憩をはさんで後半は、メンデルスゾーンの交響曲第3番『スコットランド』。シベリウスを得意とする秋山なら清涼な演奏を楽しめるだろう、と期待したが、その予断がいかに一面的に過ぎないものだったかを思い知らされる超絶的な名演だった。秋山は各楽章の主要主題を静謐に寡黙に演奏したが、これによって僕たち聴衆はいつも以上に注意深く耳を傾けることになる。そして、このスタイルの真の効果が生きたは再現部であった。再現部も同様に静謐に演奏されるが、提示部には無く再現部にだけ加えられた副旋律が、妖艶な光を放って僕たちを魅了したのだ。注意深く提示部を聴けたからこその、再現部の感動である。ソナタ形式を見事に生かしたメンデルスゾーンの作曲の技と、それを見事に再現した名匠・秋山の双方に感嘆した。また第2楽章では、距離を取って着座したことで、冒頭の応答が四方八方から木魂が聞こえるかような面白い効果を出していた。またこの楽章では、フル・オーケストラで主題を演奏する部分の迫力が凄かった。今までこの部分は「ホルンにこんな無茶をさせるのか!」という印象ばかりが強かったが、今日はホルン以上に安永友昭のティンパニの轟音が衝撃的。結果、旋律線の動きが不明瞭になるが、この場面はメロディーを聞かせる箇所ではなく轟音の迫力を聞かせる場面、いわばベートーベン9番のフィナーレ冒頭と同じだ、と納得した。ベートーベンがそうであるように、メンデルスゾーンも永遠に前衛的な音楽だと実感した。しかし今日の圧巻は何といっても、フィナーレのコーダだ。主部のテンポからすると明らかに遅いテンポで、覇気のある充実した音楽を堂々と進め、程好く加速しながら希望にあふれた生命力を持って終わった。
 前半プログラムの終わりが青年の発した悲痛な告発であったとすれば、後半プログラムの締めくくりは老巨匠による「大丈夫だよ」という回答であったように感じた。人類の未来が大丈夫である保証はどこにもない。しかし、忌まわしい排斥の歴史を生き延びてきた作品を、人生の大先達が指揮して「大丈夫だ」と語らしめたのだ。信じてみても良いのではないか、という気がしてきた。

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2020年06月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.06.26

 大阪フィルに桂冠指揮者・大植英次が登壇しベートーベンを演奏。我らが岩井先生ももちろんご出演(2020.06.26。フェスティヴァル・ホール)。
 巨大なフェスティヴァル・ホールの舞台をいっぱいに使って奏者が疎らに着席。弦楽器も一人につき譜面台1台を使用する。興味深かったのはコンサートマスターの須山暢大が、まるでオペラのピットのように一人だけ雛壇上に着座していたこと。これだけ離れて配置されると、やはりコンサートマスターを見にくくなるのだろうか。
 柔軟で表現の引き出しが多い大植は、このやむを得ずに取られた特殊な配置に相応しいスタイルでベートーベンを演奏。ベートーベンには目くるめく変化をスピードで押しまくって聴衆を圧倒するスタイルもあるが、今日はその逆のスタイル。遅めのテンポで各セクションの音を浮かび上がらせる演奏だった。音それ自体の美しさと、一人一人の奏者の自立した表現力を特長とする大阪フィルが、広い舞台を広く使って陣取っているのだ。各セクション、各奏者の表現力を目いっぱい堪能できる遅めのスタイルを取ったのは慧眼だ。同時に、どのようなスタイルの演奏にも対応し得るベートーベンの音楽の強靭さを再認識させられた。
 この配置は予想外の効果も発揮した。疎らに陣取った弦楽器群の隙間から、木管の音色が雄弁に届いてきたのだ。オーケストラの音色の奥行きは木管が左右するのに、それに比べて弦楽器が強すぎる、という印象を持つことが多い。しかし今日は、いつものように大フィルの弦楽器が強力に鳴りながらも、木管もしっかりと前面に出て豊かな色が実現していた。
 また大植は、歌う部分は奏者の自発性に任せる一方で、トッティ部分では楽譜に無いアクセントを適宜加えて推進力と重量感を加えていた。
 1曲目の第4交響曲の冒頭は、この配置とテンポだからこそ、前衛性が引き立つ。また特に第2楽章では、個性豊かな木管の各奏者の表現力が生きる。とりわけこの楽章の2大主役である金井信之(クラリネット)と小林佑太朗(ファゴット)が、明るい中にもほんのりと寂しさを感じさせる、静謐な存在感を出していて見事。離れて着座したからだろうか、静かな部分に緊張感があり、それが心地よい。冗談音楽的な表現も可能なフィナーレも、今日は音の美しさと音楽の立派さを重視したスタイルを取った。
 休憩はせず、管楽器奏者のほとんどを入れ替えて第5交響曲を演奏。今日のスタイルだと、何度も聴いたこの曲から新たな魅力がどんどんと湧き上がってくる。第1楽章はリズムの魅力が印象的だと思っていたが、今日の演奏では旋律や音色の魅力にも気づく。繰り返される冒頭音型が、その度ごとに楽器の構成を異にして目くるめく色彩の変化を持たせていたことが良く分かった。第2楽章では、田中美奈率いる第2ヴァイオリンが、107小節目からのごく短いフレーズを魅惑的に演奏。ベートーベンはなんて美しいんだ!と素直に感動する。またこの楽章では堀内吉昌のティンパニが生々しい人間味を前面に押し出す。大森悠のオーボエが、16分音符を吹いているだけなのにその音が無上に美しい、というのもまさに大フィルのサウンドだ。そしてやはり圧巻は、第3楽章からフィナーレへの移行部分。静謐な中にも、アルコの弦楽器、ピッツィカートの弦楽器、木管楽器、という多様な要素がちりばめられていることが、今日の配置だからこそよく分かる。とりわけ圧巻は井野邉大輔率いるヴィオラ。弱音ながらも装飾音符がクリアに描き出され、生物の蠢きのような存在感があった。そしてフィナーレに突入した瞬間、福田えりみ率いるトロンボーンの神々しい響きが、神が降臨したような強い印象を放った。つまり音楽史上に燦然と輝くこのブリッジは、生物が蠢くカオスから、神による秩序立った世界への移行を描いた、いわばベートーベン版の『天地創造』とさえ言えるのではないか、と感じた。
 これから地球はどうなってしまうのか、全く想像がつかない。しかし今日は、この状況だからこそ聴けた音楽、この状況にならなければ聴けなかった音楽に、間違いなく触れることができた。
posted by シャーリー at 12:09| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月25日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜ブルックナー3番2題〜

 ブルックナーの交響曲第3番を2日続けて、しかも異なる稿で聴くという稀有な経験に恵まれた。

まずは尾高忠明指揮の大阪フィルによる第3稿(2020116日。フェスティヴァル・ホール)。

 冒頭、チェロ・ベースの刻みがかなり硬質なのが印象的で、篠崎孝によるトランペットの主旋律は静かな中にアクセントの強調と自然な強弱がついた動的な表現。カオス的な冒頭の中に、「今日の演奏は動的で激烈なものになるのではないか?」という予感を感じさせた。果たしてその通り、リズムの鋭さが強調され、豪放な大フィル・サウンドが聳え立つような演奏になった。晩年に改訂された第3稿とはいえ、やはり初期の発想が脈打った作品であることには違いない。そうした、シンフォニストとしてまだ青年期にあったブルックナーの若々しさが燃え立つようであった。

メロディーが多いという第3稿の特徴を生かしてしっかりと歌うが、流麗に歌うのではなく、アクセントを強調して厳格なイメージを付与した。僕はとりわけ、1・2楽章の展開部のクライマックスを形作る第3稿にしかないトランペットのメロディーに違和感がある。しかし今日のように鋭角的に歌うと、そのメロディーよりも、その直後を受ける軟らかい音楽との対比が明確になったことが印象に残った。全く性格の異なるものを接続してしまうブルックナーの天才性がここに表出しているように感じられ、第3稿は第3稿でやはりブルックナーの音楽なのだ、と納得できた。

第1楽章の第2主題部は、ブルックナーに長けた大フィル・サウンドの白眉。ポリリズム的な音たちを敢えて整理せず、茫洋としたまとまりとして大づかみにすることで、かえってふくよかで温かな音楽を生み出していた。ブルックナーの故郷の柔和な農村風景が浮かんできた。尾高はこうした大フィル・サウンドの伝統を生かしつつも、音量バランスに精緻な配慮をしてブルックナーの魅力を一層深めていた。例えば金井信之の硬質で存在感あるクラリネットの音をかなり強調していた。この曲ではクラリネットは、主旋律のエコーや反行形など裏方の役割が多いが、その裏方を強調することでオーケストレイションをより深みのあるものにしていた。また、トロンボーン群の音量を頭一つ突き抜けさせていたのも印象的だ。ブルックナーの交響曲では、「神の声の代弁者」という特殊な役割を担っていた名残でトロンボーンが独自の動きをする部分が多いが、そうした特殊な性格が強調されていた。欠員が続く2番トロンボーンに名手・箱山芳樹を迎えていたこともあって安定感が凄い。また、堀内吉昌のティンパニは、ややザラつきのあるトレモロの音色が野人ブルックナーに相応しい。今回「やはりブルックナーは凄い!」と思ったのが第1楽章の再現部で、一見すると冒頭のカーボン・コピーのようでありながらも、ティンパニのどよめきを伴っている点で冒頭とはやや異なる深みを出していたのだ。堀内の名演がブルックナーの凄さに気づかせてくれた。

今回の尾高の表現で興味深かったのはフィナーレの第2主題。管のコラールと弦のポルカが並行するこの場面、どちらを強調するのかに指揮者の個性があらわれるが、今日は明確にポルカを前面に出していた。音量差だけでなく、コンサートマスターのチェ・ムンスの強烈なリーダーシップを活かし、躍動感で前面に躍り出ていたのだ。そして単なる優雅な舞踏に終わらないのがブルックナーで、第3主題に近づくにつれて不穏な雰囲気を高めていき、まるで美女が般若に豹変するかのようだった。あるいは尾高がポルカを強調した狙いはここにあったのか?

 

翌日は本名徹二の指揮で大阪響による第2稿(2020117日。シンフォニー・ホール)。

アクセントを強調した尾高とは対照的に、旋律の歌い方はテヌート重視。濃縮された第3稿とは異なり、音楽の広がりがある第2稿に相応しくて良い。弦楽器を古典配置にしたおかげで、ポリフォニックな弦楽アンサンブル部分に纏まり過ぎないふくよかさがあるのが良い。譜面へのこだわりが見られたのはボウイングで、第1楽章の第1主題をフル・オーケストラで演奏する部分は、ブルックナーの指示を遵守して連続ダウン・ボウを採用。これによって、弦楽器の各音に金管のテヌートに負けないテンションが生まれていた。

第1楽章は、特に再現部が終わって以降の、ブルックナー休止を挟みながら全く異なる性格のブロックが連ねられていく様が第3稿にはない魅力。特に悪魔的なまでに明るいブロックの印象は鮮烈で、昨年、山形で聴いた序曲の初稿コーダを彷彿とさせた。同時に、こうした第1楽章のコーダの構造が、フィナーレのコーダの構造と平行になっていることも理解できた。

第2楽章は、第2主題に指定されたアンダンテというやや速めのテンポ設定を重視して颯爽と流したのが印象的。第3稿と違ってシンコペーション伴奏が長大な第2稿でこのテンポを取るのは冒険的ともいえるが、本名は正確さではなく幸福感を重視しているようだった。幸福感に満ちた心地よい風が様々な方向から吹き去っていくような印象を受けた。シンコペーションの演奏に求められるのは数字的な正確さではなく、爽快な雰囲気である、と感じた。目から鱗が落ちた思いだ。巨大なブロックが連ねられてクライマックスが形成される第2稿では、室内楽的なコーダが非常に短く感じられたが、このあっさり感もまた良い。

第3楽章はとてつもない快速ではじめられたが、スケルツォ内中間部とも言うべき部分で若干テンポを落とし、構成の深みを強調した。第2稿ならではの、5番を先取りしたような連続打ち込みと、さらに「これでもか」とばかりに続くコーダの迫力は格別。巨象の群れが全力疾走するような重々しく凄まじい迫力があった。

フィナーレもやはり快速で、冒頭伴奏音型の異界的な雰囲気がいっそう強調された。

第2主題部は、尾高とは逆にポルカの躍動感を控えめにして管のコラールを強調。カットが少ない第2稿ではコラールの見せ場が多く残されているので、管を主役に据えた方が良いという判断になったのだろう。第3稿の尾高、第2稿の本名、それぞれの楽譜から最も望ましい判断を導き出したと言える。

そしてシンコペーションの嵐となる第3主題は、第2楽章第2主題と同様、正確さではなく雰囲気を求めた演奏。第2楽章が丘陵地帯の風のような爽快なシンコペーションだったのに対し、フィナーレのシンコペーションはもちろん大聖堂の峻厳さのイメージだ。

再現部の直前、フィナーレ冒頭音型をヴィオラで予告するが、このヴィオラのパート・ソロは、マーラーの『巨人』フィナーレの名高いヴィオラのパート・ソロを先取りしている、と気づいた。青年マーラーはブルックナー3番のピアノ編曲を任されていたので、この曲を熟知していたはず。ブルックナー3番がマーラー『巨人』に影響を与えたことは充分にあり得る。

初稿マニアとしては、第2稿でも「いいところがカットされている」と感じてしまうが、もちろん昨日の第3稿よりは複雑な構成の奥行きは楽しめる。その筆頭はコーダにおける唐突な第1楽章第2主題の回想だ。故郷の幻を見たかのような一瞬のまどろみが、重量感あるブロックが連続する中での緊張感の緩和という重要な働きを担っていることを確信した。

posted by ちぇろぱんだ at 20:25| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする