2024年09月29日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024年9月14日)

 ブルックナー交響曲第8番の初稿演奏、こんどはNHK交響楽団が、シェフのファビオ・ルイジの指揮で敢行した(2024914日。NHKホール)。

 ルイジはテンポ変化がほとんど書かれていない初稿の楽譜を、「テンポは演奏者に委ねられている」と解釈したのだろう。(楽譜には書かれていない)大胆なテンポ変化によって、大きな抑揚を持った音楽に仕上げていた。ブルックナーの音楽は、テンポ変化が上手くいかないと大失敗する危険がある。失敗パターンの典型は、「テンポを少しずつ煽った結果、音楽が軽薄になる」「雄大にテンポを落とそうとしたものの、ぎこちない動きになった」「テンポの前後関係の辻褄が合わない」といったことがある。しかしながらルイジは偉大で、ブルックナーの特徴に合ったテンポ変化を、確信をもって実施していた。

 典型がスケルツォ主部。ブルックナーのスケルツォは、スケルツォ主部の中にも中間部的なブロックがあるが、そのブロックを別世界的に遅いテンポで演奏。冒頭の音型が回帰すると、最初の速いテンポにすぐに切り替えたのだ。ブルックナーのスケルツォ(特に初稿)は4小節単位のメトリークでできており、これを無視して少しづつテンポ変化すると、音楽がぎこちなくなる。今日のルイジのように、メトリークの変換点でスパッとテンポを切り替えた方が、ブルックナーの音楽が生きる。なお、スケルツォ楽章では、休んでいる筈のヴァーグナーテューバ奏者がホルンに持ち替えて、アシスタントとして演奏に加わっていた。しかも、1~4番ホルンとかなり細かく演奏箇所を分担するこだわり。ルイジがこの楽章に特別な思いを持っていることをうかがわせた。

 また複雑な構造を持った第4楽章でもテンポによる整理が光った。第3主題部をかなり速いテンポで突き進み、同じ伴奏音型を持つ展開部の行進曲風部分も、同様の速いテンポを取った。これは初稿演奏の開拓者・インバルと同じ解釈で、「同じ要素を持つ部分を同じテンポで演奏する」という説得力がある。


 初稿だからこその美しさは、特に第1楽章において光っていた。ルイジは、その身振りからも、この楽章が「歌に満ちた美しい楽章」であることを前面に出していたと思われる。ティンパニを限定的にしか使わない初稿独特のオーケストレイションが、これを裏打ちする。硬質なティンパニによって隈取られた逞しい音楽、というイメージは、第2稿がもたらしたものなのだ。なお、やはり初稿独特の静かで長大な展開部も印象的だった。第2主題由来の弦楽器の背後で静かに蠢く木管の動きが、まるで雅楽のような神秘性を持っており、ブルックナーの前衛性に慄然とさせられた。


 ルイジの個性的解釈が全体的に印象的だった中、第3楽章は極端なテンポを取ることはなく、端正に表現した。特に、各フレーズがしっとりと収められていたのが良い。ただ、ハープが中途半端に2台しか用いられなかったのは残念だ。広島交響楽団といい、先週の東京シティ・フィルといい、ブルックナーの指示通りハープを3台使用し「三位一体」を視覚的にも実現する演奏が、最近のプロ・オーケストラでは一般化したと思っていたのだが。N響ほどのオーケストラがこのような人数縮減をするのは、文字通り見劣りがする。


 楽器配置は両ヴァイオリンを並べ、ヴィオラをカミテ外側に出すN響の通常配置で、新鮮味はない。対照的に興味深かったのは金管の配置。ホルン・ヴァーグナーテューバをシモテに配し、直管は一列に並べて、カミテにトランペットを置く。これは、コントラバステューバを、トロンボーンとヴァーグナーテューバの間に置き、双方のベースラインとなりやすいように、との配慮だろう。結果として、トロンボーンが舞台の奥中央に陣取ることになり、神聖な楽器としての存在感が際立った。とりわけ、トリオの要所で神聖な響きを造る初稿独特のオーケストレイションが生きた。また、テューバ5人が一箇所に集まったことで、舞台左奥の高所からテューバの和声が降り注いでくるような効果があった。


 今日の演奏の最大の見せ場は、全曲の最後。トランペットのファンファーレが1本ずつ数を増やすのと比例して増していく幸福感は、長く充実した散歩の末に故郷に帰り着いたかのような晴れがましさがあった。これは、長い散歩のような全曲の演奏が充実していたことの証左に他ならない。

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2024年09月16日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024年9月6日)

 フィロムジカの歴史の中でも、28回定期でブルックナー交響曲第8番の初稿を演奏したことは特筆すべき偉業だと自負するが、( https://www.kyotophilo.com/pamphlet/pamphlet28.pdf )それから14年(も)経って、プロのオーケストラが初稿をたて続けに演奏する時代が(ようやく)来てくれた。

 96日は、最も研究熱心なブルックナー指揮者・高関健が、手兵の東京シティ・フィルの定期演奏会で、このブルックナー交響曲第8番の初稿を演奏した(オペラシティ・武満メモリアル)。期待通り、いや、期待を遥かに上回る、この曲の魅力を存分に伝える名演がなされた。


 全体の特徴としてまず指摘できるのは、保続音(トレモロも含む)と、その積み重ねである和声の響きが存在感を持っていたこと。初稿の特徴の一つは「空隙の多さ」である(曲が始まってすぐ、木管の「合の手」が無いのが典型)。そして今日の演奏では、空隙があることで、かえって全体を満たす「響きの空気」の魅力が味わえたのだ。

 また、特に第2楽章以降では、ティンパニのトレモロによる保続音の存在感があった。このようにティンパニの良い音を聞くと、第1楽章にほとんどティンパニが使われていなかったことの印象が、後から思い出されてくる。第1楽章は、堅牢に見えつつも、ティンパニがほとんど使われていないことによる軽快さをも持ち合わせているのだ。ヘルマン・レーヴィが初稿を批判した理由の一つに「7番と似すぎている」「楽器使用方法の問題」があったらしいが、それはティンパニの抑制的な使い方を指しているのかもしれない。

 そして、保続音重視の極めつけは、全曲の最後だ。第2稿ではチェロ・ベースも主旋律を弾いているのに対し、この初稿では、旋律を演奏するのは管楽器だけで、弦楽器は分散和音と保続音しか演奏していない。それが良い! この曲の骨格であり主役は、保続音であり和声であるのだ、ということが、徹頭徹尾、明瞭に示されたからだ。


 また、この曲は前打音のような鋭いリズムを伴う主題が冒頭から提示されるが、そのリズムによって全曲がまとめられていることをわかりやすく示していた。第2稿ではカットされた、第1楽章最後の大音量のコーダの終盤で、前打音付きのリズムが低音楽器によって打ち込まれるのを強調。そして第2楽章では、スケルツォ主部の(やはり第2稿ではカットされた)最後のひとフレーズで、やはり前打音付きのリズムを打ち込むトロンボーンを強調した。これらは、全曲の最後における、前打音付きのリズムの連続へと収斂していくのである。また第3楽章では、この前打音付きリズムで構成される第1楽章第1主題がホルンで再現される場面が印象的である。こうして、特徴的なリズムによって全曲が一貫性を持っていることが見事に示された。ちなみに第3楽章は、狭い幅でうねるように上下するフレーズが第2楽章と共通性を持っている。つまり、1楽章だけでなく第2楽章をも回想していると言える。仮に第8交響曲のフィナーレが完成されなかったとしても、「全楽章の集大成感があるアダージョで終わる交響曲」として普及するものと想像できる。僕はつまり、「9番のアダージョに集大成感があるからと言って、9番に第4楽章が不要だ、ということにはならない」と言いたいのだが。


 高関の良い意味で淡々とした指揮は、この大曲の「或る一瞬が見せ場となる」ような印象は残さない。ブルックナーの指示通りハープを3台用い、打楽器が炸裂するアダージョ楽章の頂点も、壮大な景色ではあるが飽くまでも散歩道の通過点、という印象を受けた。3発ずつ打たれるシンバルがミサの開始を思わせるところもあり、(信心深いブルックナーにとって)特別ではない日常風景の一部、と思わせる親しみやすさがあった。

 一方で、各楽章の個性がシンプルに表現し分けられていた。第1楽章は、保続音がメトリークごとに少しずつ上昇していく様子が強調されていたので、全体として「上に向かう」印象を与える。対して第2楽章は、冒頭からの下降音型が印象的な「下に向かう」音楽だ。第3楽章は天国的な上昇音型が印象的で「上に向かう」音楽が戻ってくる。終楽章はもちろん、上昇と下降が入り混じった複雑な様相を呈する。このように、大曲でありながらもわずか4つの楽章で構成される、その意味がしっかり分かる演奏であった。


 そのほか印象的だったこととしては、スケルツォ主部の遅めのテンポ設定が挙げられる。これは、トリオのテンポから逆算した結果ではないか、と邪推する。初稿のトリオは、第2稿とは異なり、スケルツォ主部と同じアレグロ・モデラートが指定されている。これを厳密に実現しようとすると、スケルツォ主部を遅めにする必要が出てくるのだ。遅いテンポの効用として、スケルツォ主部における、アウフタクトから始まるリズムと前打音付きリズムの衝突の面白さが、明瞭に聴かれた。ブルックナーはこの楽章で、オン・ザ・ビートの前打音とアウフタクトを明瞭に書き分けているが、あまりにもテンポが速いとそれらがほとんど同じになってしまうだろう。また、初稿に特徴的な、スケルツォ主部再現部のカノンが良く聞こえたのも、テンポの遅さのおかげであるが、同時に、高関がお得意の「ホルンと木管のベルアップ」によってポリフォニーを視覚的にも強化した成果でもある。ただし、欲を言えば、トリオの中央(つまり楽章の中央)のラングザムは、思い切り遅いテンポにしてほしかった。

 そして何と言っても、楽器の配置が良かった。弦楽器はヴィオラをシモテに配する変則的な古典配置。今日のように第2ヴァイオリンがカミテに来ると、音が客席とは逆方向に飛ぶことで、第1ヴァイオリンと明瞭な音色の違いが生じる。ブルックナーはその効果を狙って書いていると思う。今日は、第2ヴァイオリンの控えめな主旋律をきらびやかな第1ヴァイオリンの装飾が彩るアダージョ楽章のほか、初稿では天国的な長さを持っている第4楽章提示部第2主題での第2ヴァイオリンのトリルでも、奥ゆかしい音色を聴かせてくれた。

 そしてヴィオラが、音が良く届くシモテに来たのも良かった。天国的な第4楽章提示部第2主題での上昇音型のほか、アダージョ楽章第2主題部でチェロの主旋律に寄り添う福旋律などで、「この場所のヴィオラはこれほどまでに温かい効果を出していたのか!」と驚かされた。

 また、ヴァーグナー・テューバとコントラバステューバは、シモテとカミテに分かれて座っていた。演奏する側としてはアンサンブルが難しいと思うが、和声が見事に決まれば、舞台の端から端までを広々と響きで満たすような効果を出すことができる。今日も、東京都内に限れば屈指の音響を誇る武満メモリアルの空間を、温かいテューバ群の響きが幸福感をもって満たした。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

2024年02月20日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024.01.18・19)

 音楽監督の尾高忠明が大阪フィルを指揮してブルックナーを演奏。我らが岩井先生ももちろんご出演(2024.01.1819。フェスティヴァル・ホール)


 1曲目は武満徹の『波の盆』。ティンパニやファゴットを使わない軽めの編成を活かした、明るく柔和な音作り。旋律や響きの美しさは、晩年の傑作『Family Tree』を先取りしている。旋律がちょっと不思議な音の跳び方をする点や、根音でない音を強調する和声の鮮烈な色彩感(特に最後!)も同様だ。弦楽のみの素朴な響きを主体にするが、ここぞという聴かせどころ(泣かせどころ)のメロディーには、伊藤数仁のホルンを静かに加えるなど、オーケストレイションが繊細。ヴィオラのハーモニクスやシンセサイザーなどの効果音も良い雰囲気を出している。全曲の中央でのみラッパ隊が加わって快活になる構成は、マーラー『大地の歌』のようで面白い。武満の音楽は、ひとつひとつのフレーズを丁寧に歌い収めてから、次のフレーズを歌い始める。この特徴はブルックナーとも共通しており、ブルックナーと武満をカップリングする尾高の見識の高さに唸らされた。


 そのブルックナーの交響曲、今日は僕が特に偏愛するナンバーの一つである6番。

 冒頭の変形ブルックナー・リズムからして、猛然たる推進力に驚かされる。主題が始まり、フル・オーケストラによってそれが確保されてからも、巨大なフェスティヴァル・ホールを存分に満たすような密度の高い響きで、やはり圧倒的な生命力を持って突き進む。中期の総決算と位置付けることも可能な6番を、作曲家としての壮年期とも言うべき若々しさと気迫に満ちた作品、と尾高が位置づけているのだろうか。

一方、この爆発力のある怒涛のエネルギーは、細部の表現を精緻に磨き上げたからこそ実現したのだと思われる。例えば低音で始まる冒頭の主題は、メッサ・ディ・ヴォーチェによる強弱の表情がつけられているが、それを自然な抑揚を持って表現し、歌に生命力を与えていた。また、ブルックナーはテンポを変にいじると音楽が矮小化してしまうが、かといって杓子定規なテンポのままでは音楽に締まりがなくなる、という難しさがある。今日の尾高のテンポは、主題部分のテンポは変化させずに保持する一方、主題と主題を繋ぐブリッジ部分で軽くルバートをかける、というスタイル。これによって、一定したテンポがもたらす安定感と、イン・テンポから解放される一瞬の気安さ、の双方を実現していた。特に唸らされたのは、全曲の締めくくりである第4楽章のコーダ。低弦のピッツィカートから始まるブロックではテンポを上げてかなりの快速で進むが、第1楽章第1主題がトロンボーンによって回帰する最後の部分に入るとやや遅めのテンポに切り替え、堂々たる重量感をもった終結を実現した。この最後の部分は、あまりにもテンポが遅すぎると締まりのない音楽になりかねない。この部分に入る前のブロックを速いテンポで演奏することによって、最後のブロックの「遅く堂々とした」イメージを実際の遅さ以上に印象付けることに成功したのだ。

尾高のテンポ設定は、作品の構成理解の上でも効果を発揮した。主題を3つもつ複雑な両端楽章について、第1・第2主題を一体感を持ったまとまりとして把握する一方、第3主題は屹立するような存在感を持って演奏し、構造把握を容易にしていた。

自発性に溢れた大阪フィルの演奏スタイルも、ブルックナーの音楽に生命力を与えていた。特に印象的だったのは白眉である第2楽章で、ヴィオラ首席の井野邉大輔とチェロ首席の近藤浩志が、にこやかにアイ・コンタクトを取りながら、可愛らしい動きをする伴奏を弾いていた。伴奏からしてこれだけの生命力があるのだ。音楽に厚みが出るわけである。そして、同じ第2楽章では、第2主題でチェロが軽くディミヌエンド気味に弾き、これも歌に自然な使命力を与えていた。また、第1楽章の第2主題部のように、伴奏と主旋律がズレるようにわざと書かれたブロックも、各セクションが生き生きと自発的に演奏する大阪フィルだからこそ効果的な演奏ができる。

1楽章では、フル・オーケストラの豪快な鳴りが、静かな部面の美しさをも惹き立てた。特にコーダにおけるホルンとトランペットの呼び交わしでの、静かで柔らかな表現が印象的だった。

2楽章は、終盤の肝であるフルートとクラリネットのユニゾンの動機を、オーケストラ全体の透明な響きによって神々しさを惹き立てていた。この動きを受け止めるヴィオラの上行音型も、井野邉のリードによって静かに力強く決められた。

 第3楽章のスケルツォは、フル・オーケストラで暴れ出す部分でのロー・ブラスの動きに驚かされた。トロンボーンが下降音型なのに対し、テューバは上昇音型なので、ロー・ブラスの中だけで十字架を描いているのがくっきりと見えたのだ。村祭りと信仰が一体不可分となったブルックナーらしい音楽といえるが、これがクリアに浮かび上がったのは、福田えりみと川浪浩一の技術があってのことだろう。

 第4楽章もトロンボーンが印象的だった。第1主題から派生した、リズムは単純だが複雑に上下する動きが頻出するが、グレゴリオ聖歌のように厳粛な存在感があったのだ。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする