2018年07月21日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ ~2018.7.13~

シモーネ・ヤングが新日フィルのマチネで得意のブルックナーを演奏(すみだトリフォニーホール)。交響曲第4番の、僕が熱愛する初稿だ。かつて初稿演奏の星だったインバルが最近は第2稿に移行してしまったため、今やヤングこそ初稿演奏の星だ。

 冒頭、低弦がトレモロから離脱する部分の音響変化が印象的だろうと思ってはいたが、実演でのインパクトは予想以上。特にヴァイオリンのメッサディヴォーチェを思い切り強調して音楽を動的なものに豹変させていたこともあり、第1主題確保が、単なる反復を超えた新たな音楽のステージの始まりのように聴こえた。〈ホルンを中心とした落ち着きのある第1主題提示〉→〈木管を中心とした、飛翔するような軽さと動きがある第1主題確保〉、という、音楽の明快な発展が冒頭にして既に聴かれた。初稿独特の動的なホルンもそうした動的な確保の表現と一体化したものだったのだ。

初稿独特の長い総休止は、ヤングのようなブルックナーに長けた指揮者の手にかかると、音楽を止めるものではなく、音楽の次の展開を準備する必要な呼吸の一部として無理なく流れていく。そして低音から始まる挿入句的な部分は、その後にもたらさせる天国的に静謐な下降音型まで一体的な流れをもって演奏されている。

第1楽章中央の金管コラールとヴィオラの並行は、初稿の方が、一層透明感が高くて神聖。そのうえ、ホルンによる第1主題の打ち込みの印象の強さは第2稿には無い魅力。

 コーダは、ギーレンのようには休止のフェルマータを強調はせず、休止を節度のあるひと呼吸と解釈して早めに再開。ホルンによる短い上昇音型の打ち込みは、ベル・アップによって強調。これは短いながらも、フィナーレを反行的に予告する重要な動機であり、それを強調しているのはセンスが良い。動的なスピード感が印象的なコーダで、第1楽章それ自体の印象も、雄大な第2稿よりも若々しく攻撃的、そして、極めて劇的に感じた。「ロマン的」という真意を図りづらい標題には、「劇的な曲を書き得たぞ!」というブルックナーの自信が現れているのかもしれない。

また各楽章に共通することだが、性格の異なる2つの要素の並行、たとえばバッハ的に厳格な伴奏とロマン派的な歌謡主題の並行、あるいは、田園的な素朴な歌と黙示録的な苛烈な動きの並行も、ヤングは両手を使い分けてうまく解析していた。そして、愛聴するギーレン盤ではほとんど拾えていなかった木管の音響やリズムも、今日ははっきりと聞こえる。これによって、ポリフォニーの奥行きや、神性が内在しているかのような空気感が表現されていた。

 第2楽章は、第1楽章と同様に第1主題の提示と確保の印象の違いが鮮明。冒頭には無かったコントラバスが、確保から伴奏に加わることで、動的な躍動感までも加わったのだ。「第1楽章冒頭…提示:主旋律は中音域。伴奏にコントラバスあり。→確保:主旋律は高音域の木管。伴奏にコントラバスあり/第2楽章冒頭…提示:主旋律は中音域。伴奏にコントラバスなし→確保:主旋律は高音域の木管。伴奏にコントラバスあり」というように、第1楽章と第2楽章の冒頭に、平衡や対照の関係があるのが良く見えた。

アンダンテの第1主題部よりもアダージョの第2主題部の方が速く聞こえるという逆転現象はヤングの指揮でも同じ。ただし、流れの滑らかさにアダージョ的なものを表現しているのかもしれない。

第1主題の再現では、第1ヴァイオリンのピッツィカートやティンパニ(定年退職したはずの近藤高顯の重く生命力あるブルックナー・サウンドを再び聴けたのは望外の喜び!)の行進音型が想像以上に効果的で、提示部とは異なる動的な印象を与えた。

ヒロイックなヴァイオリンの動きは初稿独特の魅力だが、それ以上に印象的だったのがそこにかぶさる木管のコラール風の響き。8番フィナーレのコーダ直前を髣髴とさせ、同時に、全く異なる要素が並行するブルックナーの不思議な魅力がここでも炸裂していることを実感した。

音響の豪快な打ち付けが圧倒的なクライマックスから、コーダが終わるまでは意外なほど短く感じる。その短さゆえかえって、鄙びた魅力あふれるホルン・ソロによる終結という魅力が強く印象に残る。ここも『ロマン的な曲をかけたぞ!』というブルックナー自信の箇所かもしれない。

スケルツォは、ヤングがどうカウントするかも興味の的だったが、冒頭はなんと、ヤング自身は全く何もせず完全にソロ・ホルンに一任。今日の客演首席ホルンは、テクニックの完璧さは当然として、音色の奥深さから、音量の多彩な変化まで、この曲のこの稿が求めるソロ・ホルンに求められるあらゆる表現を見事に実現。この名手があってこそのヤングの指揮だろう。ホルン・ソロが終わってからは一小節一つ振りで指揮。例えば7番・8番のような、メトリークや拍子が生み出す律動感が魅力のスケルツォとは全く異なる、拍子すら曖昧な音楽の流れの「得体の知れなさ」がむしろ魅力的。しかし、得体の知れない太い流れの中にも、強弱の変化やトロンボーンの悪魔的な強奏によってしっかりとしたメリハリを作り出す。

トリオの旋律がスケルツォ主部の旋律とあまりにも似ているのがこの稿の弱点かもしれないが、こうして聴いてみると、色彩感と爽快感がトリオに入ったとたんにカラッと明るくなっており、明瞭な変化があった。そして、トリオ終結のホルンによる前打音付きリズムが予想以上に印象的。スケルツォ主部を予告させるだけでなく、主部がダ・カーポされた後も、このリズムに一層注意が行くようになり、同じ音楽の繰り返しなのにやや異なる印象を受けるという不思議さを体験できた。主部を楽譜通り最後まで演奏してから(スコアに無いカットはせず)コーダに入る。ただし、その接続にはやや無理やりな印象を受けた。ブルックナーがスケルツォにコーダを付けることにそろそろ疑問を感じ始めていたのかもしれない。

フィナーレは、ヴァイオリンの強拍弱拍の逆転をきちんと演奏するが、それを強調するようなあざとさはなく、消化された印象。驚かされたのは全音符の下降を中心としたユニゾン主題の表現で、ヤングは完全に棒を止めて一小節ごとの長大なフェルマータで演奏した。そうすると、初稿独特の休止や上昇音型とも相まって、まるで9番のユニゾン主題のような幅広の音楽に聴こえてきた。

この楽章のもう一つのユニゾン主題である5連譜の下降音型の表現もまた見事。奏者に過大な緊張を強いるはずのこの5連譜が、むしろ小節線の枠から解放された自由を謳歌しているように感じられたのだ。

ミサ曲第3番の復活主題から始まるコーダは、主題群の並列が幅広な印象を与え、第2楽章コーダとは対照的に長大な印象を受け、ゆったりと身を委ねられた。その終盤で5連符が再現されたとき、ユニゾン主題で感じた「自由」の印象も再現され、自由の喜びの謳歌の中で曲が閉じられた。

終演後のサイン会の際、ヤングにスコアを差し出すと、既に書かれているサインを指して「これは誰かしら?」と訊いてきたため、インバル(初稿の世界初録音者)であることを告げた。ヤングは「ファンタスティック! 私も大好きよ。」といって先人に敬意を表していた。僕が「僕は初稿を一番愛しています。是非ほかの作品の初稿も演奏してください、特に…」と言いかけると、ヤングは「8番よね!」と僕が言いたいことを先取りしてくれた。今後のヤングの活躍に期待大だ。



 マチネだったのでこのまま関西へ帰ろうと思っていたところ、常連仲間から、ソワレでミサ曲の第3番が演奏されるという衝撃の情報を知らされる。迷うことなく行程を変更し、初台へ飛んだ。その飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルによるミサ曲第3番(オペラシティ・武満メモリアル)。

 キリエの冒頭は弦楽器の弱音が模糊としていたのが印象的で、トレモロによる原詩霧ではなくても、やはりブルックナー開始なのだと思わせる。荒井英治によるヴァイオリン・ソロは縦線が合っているかどうかを度外視して生命力が爆発するような表現を敢行。昼間聴いた4番初稿の異種並行もそうだったが、ブルックナーは縦線の正確さよりも、それぞれの要素が生命力を持っているか、ということの方が遥かに重要であることを実感。ソプラノ・ソロの喜びに憑かれたかのような絶唱もブルックナーの生命力を一層高めていた。

 グローリアは、録音ではトランペットばかり拾ってしまう冒頭が、こうしてライヴで聴くと多様な要素の分厚い重なりによって巨大な音の生命体になっていることがよくわかる。弱音部分は神秘的かつ前衛的だ。そしてフーガは、骨太の音色でありながらもテンポは快速で押し通し、瞠目せざるを得ないすさまじい興奮を呼び起こした。

 飯守は楽章間をほとんど休まずに突き進んだので、フーガの興奮冷めやらぬままクレドに突入する。ソリスト4人を指揮者の両横に配置した視覚効果もあって、ソリストが喜びに溢れた人々を先導しているように見える。室内楽的なオーケストラとソリストの交唱の場面になると合唱団は一斉に座る。合唱の出番がないのではなく、静かに歌っているのだが、座奏になることで静かな印象が一層強くなり、重層的なオーケストレイションの妙味が一層生きてくる。対向するヴァイオリンとヴィオラのソロはシンコペーションに推進力があり、静かな中にも途切れることの無い生命の流れを感じる。そして、昼間聴いた4番初稿と同じ素材を使ったキリストの復活の場面に入ると、まさに期待していた通り!合唱団が一斉に立ち上がり、視覚的にも「蘇り」を表現した。予想していたのにもかかわらずその迫力は圧倒的で、心臓の鼓動が狂いそうなほどだった。そして復活の場面の後のフーガは今日の白眉。フーガの中にそびえる大理石の柱とも評される「クレド!クレド!」の4音が、1回1回表情が異なり、時に誇らしく、時に慈愛に満ちて、時に悲しみに寄り添うように、様々に多様な表情で慰めてくれたのだ。

 サンクトゥスは改めて聴くとその短さに驚かされるが、直後のベネディクトゥスで全く同じ「ホザンナ」が再現するため、2曲合わせてスケルツォ楽章的になっているように感じられた。また、昼間の4番初稿で聴かれた低音から始まる挿入句がミサ曲でも聞かれ、ブルックナーにとって交響曲とミサ曲が同一地平にあることを再認識させられた。

 そしてアニュス・デイでは、終盤の3音の上昇音型の繰り返しが力強く輝かしい。そしてグローリアのフーガ主題の再現は荒々しく熱狂的。それでいながら曲を締めくくるオーボエ・ソロはイン・テンポのまま、良い意味でそっけなくあっさり吹き終える。壮麗なミサが催された聖堂の外へ出ると、そこには小さな花が風に揺れる穏やかな農村風景が広がっていた。といった雰囲気で、ブルックナーの心の故郷が農村であることを確信させる演奏であった。
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2018年04月22日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2018.04.07

 尾高忠明の大阪フィル音楽監督就任披露公演。大フィルでシェフを勤めるための通過儀礼とも言うべき、ブルックナーの8番を指揮。もっとも、朝比奈隆逝去後、定期演奏会で最初にブルックナー(9)を演奏し、「大フィルのブルックナー健在!」を印象付けたのは他ならぬ尾高だ。むしろ待望の尾高/大フィルのブルックナー8番と言うべきだろう。

 第1楽章。響きの面からもポリフォニーの面からも、ブレンドされた深みを重視した演奏。例えば冒頭の金井信之(クラリネット)のソロは、無から静かに立ち上がるような吹奏。あるいは楽章最後の井野辺大輔率いるヴィオラの下降音型は、マルカート感を廃した模糊とした音色によって静寂へと溶け込んでいった。一方で、際立たせるべきものはクッキリと描き出してメリハリを付ける。筆頭が藤原雄一のテノール・テューバ。技術が安定しているのは当然のこととして、特筆すべきは朗々たる歌謡性と頭一つ突き出した存在感。ブルックナーの原典版に求められる、自発性に溢れた生命力を見事に体現していた。リズムもクリアに鳴らされており、例えばカタストロフィを形成する金管の「死のリズム」で細かい音符がきっちりと分割されて鳴らされていた。また、高橋将純(ホルン)のソロは全く不安がないので、広大な丘陵のようなイメージに浸ることができる。その高橋から大森悠(オーボエ)へとソロが受け渡される瞬間、ヴァイオリンのトレモロがスビート・ピアノされ、目に浮かぶ風景が遠景に変わる。ブルックナーの生命線である弦のトレモロの美しさは、大フィル最大の遺産として受け継がれている。圧巻はカタストロフィへの道程。一音一音、踏みしめるようにしっかりと鳴らしていくのだが、トレモロの弦楽器がその各一音の冒頭を長い弓幅を使ってしっかりと鳴らすのである。これも大フィルのブルックナーが誇るトレモロだ。

 スケルツォは先々への見通しが効いた演奏。5小節目のスビート・フォルテをしっかりと生かすが、これは、再現時にティンパニが加わることを見通していることの証左である。ただし、ボウイングは作曲者の指定を無視した返し弓。少しがっかりしたが、これも先々を見通しての改変だと判明。川浪浩一のコントラバステューバとともに同じ主題を大音響で反復する場面になって、ブルックナーの指示通りの連続ダウン・ボウで弾き始めるのだ。「野人」の雰囲気を、小出しにしながら盛り上げていく、遠大な視座を持った演奏だったわけだ。また、この楽章では特にクラリネットの鳴りが良く、響きの色合いを深めていた。そして、ブリッジ部分に対して、クライマックスに勝るとも劣らない魅力を感じさせるのは名演の常だが、今日もそう。ヴィオラから始まる苛烈な断片の応酬で傷ついた後に、癒すような木管の柔らかい音に包み込まれる、その展開が見事だった。ピッツィカートを受け継ぐフルートは、弦との落差を感じさせない稀有な演奏。もちろん音量は弦に及ばないが、田中玲奈ら奏者たちの鋭い勢いによって、弦に遜色ない緊張感を出していた。この熱演あって、提示とはまた異なる炎のような色彩が再現部に加わった。

 トリオは、ハープが演奏し終えてから始まる中間部分を、一層テンポを落として静謐に演奏。ここが第2楽章の核であることを強く印象付けた。フレーズを収める篠崎孝(トランペット)のスビート・ピアノが見事!

 第3楽章。決して設定テンポは速くないのだが、前半2楽章をかなり遅めのテンポで演奏したために、実際以上に速い印象を受ける。アダージョの重量感を持ちつつ、生命力ある推進力をも兼ね備えた演奏を、大曲全体を見通したテンポ設定によって実現したのだ。第1主題部の、平野花子ら2台のハープと弦楽器の天国的合奏は、1音ごとに歌い直すスタイルの演奏ではなく、4小節間を一つの流れを持った歌として滔々と流すスタイルをとり、ここでも推進力を感じさせる。フレーズの収めはたっぷりと引き伸ばし、これによっても音楽の流れを作り出す。第2主題部は今日の演奏の白眉。近藤浩志率いるチェロの温かい歌が、「君の人生は間違っていない」と言うかのような肯定的な承認を与えてくれる。ブルックナーを聴く意義はここにあると言っても過言ではない。第1主題からこの第2主題へと至る部分の説得力ある流れは圧巻。蒲生絢子(2番ホルン)のソロ、田野倉雅秋・力武千幸・鈴木玲子によるヴァイオリン・ソロはいずれも、無からいつの間にか始まって音楽の生命を大きく醸成する。これを受けた金井のクラリネット・ソロが、クレッシェンド気味に存在感を増しながら降臨してくると、リテヌート気味に丁寧に藤原のテノール・テユーバへと受け渡す。ここでも藤原は父性(父を早くに喪ったブルックナーにとっては、おそらく神性と同義)を体現したかのような包容力と存在感を実現していた。また、ハースが初稿から引用したフレーズは、躍動感を持って演奏され、クライマックスでの躍動的な表現をさりげなく予告していた。ハース版を使う意義をしっかりと感じさせる演奏だ。そのクライマックスでは、大音響なのに他の楽器をかき消さないという大フィルのティンパニの伝統を堀内吉昌がしっかりと継承していた。そして最後のヴァーグナー・テューバ合奏は、第1楽章再後のヴィオラと同様、全体にブレンドされるようにして溶けていった。

 フィナーレは特に展開部が圧巻で、とりわけ印象的だったのは練習番号Lの下降音型。9番第3楽章の、奇しくも練習番号Lのような滋味深さを感じさせる。弦・木管の音色はもちろん、福田えりみ率いるトロンボーン・セクションの音色が神々しい。神の降臨を思わせるこの場面では、やはりヴァーグナー・テューバではなくトロンボーンを使わなければならないのだ、ということを認識させられた。そして、第1主題の再現では、管楽器の主旋律以上にヴァイオリンの激しい下降音型を際立たせる。滋味深い下降音型が、力強く変貌した姿だということだろう。また、第3主題が再現される直前では、ハース版にしかないフレーズが不穏な雰囲気を醸し出し、コーダの悲劇性を予告した。ここでもハース版を使う意義を感じさせた。尾高が以前、NHK響でハース版を演奏した際には、この箇所でフルートが大崩壊していた。尾高は大阪フィルという理想的なオーケストラを得て、ようやく自らが目指す演奏を実現したと言えるだろう。コーダでは、ホルンによるスケルツォ主題の回想を、アシスタントの安土真弓(名古屋フィル首席)も加わった5人のベル・アップで強調。最後を飾るトランペットのスケルツォ主題へと見事に繋げた。最後はしっかりとリテヌートで引き伸ばされ、遠大な視座によって長大な流れを実現した今日の演奏にふさわしい締めくくりとなった。

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2018年03月31日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ ~2018.3.31

飯守泰次郎と関西フィルのブルックナー・ツィクルスもついに8番まで来た。

今日の演奏の第一印象は、各セクション・各奏者それぞれの発する音に生命力があったこと。作品が巨大な一つの生命体になるのではなく、各音がそれぞれ生命体となっており、そうした多様な生命の集まりによって活力あふれる社会のような作品が出来上がっていたという印象だ。最近(特にシャルク改訂版の5番を聴いて以降)、僕がとみに思うのは、オーケストレイションが簡潔なブルックナーの管弦楽曲は、各奏者に求められる自発的表現の比重が大きく、奏者一人一人が生き生きとした表現を前面に出す必要があるということだ。シャルクら弟子による改訂版では各楽器が複雑に絡み合ったオーケストレイションがなされているため、奏者は巨大なオーケストラの構成部品の一つに徹することが求められており、自発的表現をする余地は少ない。今日の演奏では、ブルックナーの原典版(今日はノーヴァクの第2稿による)にこそ求められる生命力が、見事に前面に出ていた。故・宇野功芳がしばしば使った「切れば血の出るような」という誉め言葉はこのような演奏に使うのだろう。そうした自発性の行き過ぎと、決してテクニカルではない飯守の棒のため、テンポが変化する箇所では各セクションが弩派手にズレることがしばしばあった。しかしそうしたズレは、「小さな傷でしかなかった」どころか、むしろ、今日の演奏に好印象をもたらす魅力の一つでさえあるように思われた。このズレは、多彩で個性豊か生命たちが、形式の枠からはみ出さんばかりに動きつつ巨大な作品に結実するという、ブルックナーの豪放な個性の発露と感じられたからだ。「オーケストラのオーヴァー・クオリティーはブルックナーにはマイナス」という金子建志先生の言葉が実によくあてはまる。

また、飯守のブルックナーは、動的なテンポ変化と、フレーズの切りの鋭さも個性の一つである。

ブルックナーの場合、テンポ変化の大きい演奏をすると前後の脈絡のつながりが無くなったり、主題がねじ曲がって不格好になったりする危険性が伴うが、ヴァーグナーの第一人者である飯守は説得力のあるテンポ変化はお手の物。象徴的だったのが、フィナーレの第2主題から第3主題への受け渡し。第2主題を締めくくる中山直音のティンパニが、突然、快速テンポになって走り出す。「えっ?」と思ったのも束の間、中山が示したそのスピード感で第3主題が走りだした。飯守は譜面台を置かずに完全に暗譜で指揮。音楽の動きが完全に血肉になっていたのだろう。

あるいはフレーズの切りの鋭さ。これによって、対置されたブロックの個性の違いが一層鮮明になる。例えば第3楽章でTに入る部分の天国的幸福感はその直前を鋭く切っていたからこそだ。あるいは終楽章第2主題提示部での鳥のさえずり。歌い出す河本朋美(フルート)も、それに答える梅本貴子(クラリネット)も、鋭く歌い切ることで、かえって冷徹な自然描写になっていた。てっきり飯守の指示で鋭く切っていたのかと思っていたが、演奏後に梅本に確認したところ、この箇所に飯守からの指示はなく、2人とも自発的にこのような表現をしたとのことであった。飯守の求める音楽が関フィルに根付いていることの表れだろう。すばらしい。

そして何と言っても、飯守ならではの響きの音質が素晴らしい。木綿のような音質と言ったらよいのだろうか?どこかザラつきを感じさせる枯れた響きであるが、それがむしろ心地好く、温かみを感じさせる。飯守はブルックナーに限らず、ヴァーグナーでもスメタナでも同じように木綿の質感を持った音を出すが、ブルックナーの場合は、この音質が、音楽の温かさや親近感につながっていくのだ。宇宙が鳴動するような場面も、神が怒りの雷を落とす場面もあるが、最後に心に残るのは、明るい農村で生まれ育った純朴なアントンおじさんの温かい音楽、という印象なのだ。たとえばフィナーレ。細分化された主題の要素が飛び交う展開部Zは、通常はその前衛性に瞠目する箇所なのに、今日は温かさに涙した。あるいは第3楽章Mの後半、簡潔な弦のアンサンブルに、2本のクラリネットが単純なロングトーンで加わる、ただそれだけの音色が、とてつもなく温かく優しく、「これこそブルックナーの音だ」と感じた(なお、この箇所は梅本も気に入っているとのことだった)。

第1楽章は形式の堅牢さを生命力のほとばしりが覆い隠すかのような感情の自由な発露が魅力的であったが、音楽の律動をしっかりと踏まえた地に足の着いた表現もぬかりがない。例えば冒頭、第1主題のトロンボーンによる反復が、1小節ごとに力を増していくように聴こえ、小節線は単なるキロポストではなく、音楽に力を与える重要な要素だ、ということを再認識させられた。あるいは第1主題の圧倒的な再現部、ホルンのリズムが支配的になる242小節目で、第1ヴァイオリンの半音階上昇をもしっかりと鳴らし、音楽に色彩感を与えていた。そして圧巻は、カタストロフィでの中山のティンパニ。地中まで突き刺さるような重い轟音で、神の鉄槌を思わせた。最後は中島悦子率いるヴィオラが明確な音色で下降音型を縁取った。

第2楽章は弦のトレモロが動的。音程が変わった瞬間に強めに弾いて色彩を明確にするのはブルックナー演奏の鉄則だが、今日の飯守は強めに弾いた瞬間にスビート・ピアノしてしまう。これによって、ブルックナーの野人性の中に、シベリウスのような夢幻性までも加わることになった。また、主部のクライマックス以上にブリッジ部分も魅力的。特に89・90小節では、増永花恵を隊長に切り込んでくる第2ヴァイオリンの上昇音型が圧倒的印象を残し、上昇音型が頻出する次の楽章への伏線となっていた。また、こうした箇所における中山のティンパニには歌を感じた。トリオでは、ハープが指定通り3台使用しているだけあって、ふくよかな立体感を出していた。

第3楽章は響きのブレンドと肉厚な立体感が良い。岩谷祐之ら3人のソロ・ヴァイオリンは野太い音色でトゥッティとよく馴染み、響きの中から立ち上がって響きの中へと帰っていくようだった。また、松田信洋率いるヴァーグナーテューバ5重奏も非常によくブレンドされていたが、ここではむしろ、それを支えるヴァイオリンのトレモロの動的な生命力の印象が強かった。そして、ハープの上昇音型を支える弦の伸ばしもまた動的。よくあるタイプの減衰型ではなく、盛り上がってから減衰するようなヴォリューム豊かな演奏だった。

フィナーレの第1主題は、第1楽章のそれと同様に、1小節ごとに力感を増していく様相が圧倒的。また、前述のように第3主題の快速ぶりが印象的だが、これは同時に、同じリズム音型による展開部のマーチも快速になることを意味する。中山の凄みのあるティンパニが快速でリードするマーチは圧倒的で、このような重厚でありながら快速でもあるマーチが演奏できるのはインバルと飯守だけではあるまいか。そして驚かされたのは最後の最後。朝比奈隆を始め多くの指揮者が倍以上のリテヌートによって下降する16分音符をたっぷり引き伸ばすのに対し、飯守はなんとマタチッチのようにイン・テンポですっ飛ばして終わったのだ。僕は朝比奈タイプの演奏の方が好みだが、今日の飯守の演奏では、「このテンポ以外に考えられない」と感じ、大いに満足した。なぜなら、このあっさりした終わり方の方が、「陽気で純朴なアントンおじさん」にふさわしいと思われたからだ。
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