2019年03月12日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.03.09

 山形交響楽団が音楽監督・飯森範親の指揮でブルックナーを演奏(2019.03.09。山形テルサ)

まずは開演前のロビーコンサートでクラリネット2重奏で三善晃の『彩夢』を演奏。クラリネットの特性を生かした無から立ち上がるような様相と、緩急の極端な対比の凄み、そして、速いパセージでも常に魅惑的な和声が聴かれる点が良い。

 

 本プログラム1曲目はモーツァルトのオペラ『愚か娘になりすまし』のための交響曲。モーツァルト12歳の作品とのこと。3楽章からなるが、どれもバロック音楽を感じさせるリズムのはっきりした曲。特に第2楽章は、チェロが完全に休みになり(僕にはそのように見えた)、コントラバス1本が通奏低音として弾いており、なおさらバロック的に感じる。2本のホルンは古楽器を使用。それだけに分散和音が美しい。

 

続いてラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ソロの金子三勇士が低音を豪快に打ち付けるパワフルな演奏。行進曲風の部分では、シモテに配されたコントラバスとカミテに置かれたティンパニがステレオ効果で伴奏を弾き、金子の豪快な演奏を盛り立てる。ホルン首席の根本めぐみが深くやわらかな音で、滑らかにつながったソロを吹いた。

 

 休憩後はブルックナーの魅力あふれる作品を続けて演奏。中でも、序曲と詩篇第112篇を続けて演奏するというプログラミングが秀逸。フィロムジカ42回定期の解説で僕が書いたとおり、この2曲は同時期の作品で、同じトランペットのファンファーレを含むという共通性がある。この見事なプログラミングを知ったとき、僕は本当に飛び上がって小躍りした。

ブルックナー三昧の1曲目は序曲ト短調。最初の発音こそ硬質な大音量で始めるが、ディミヌエンドを重視してすぐにカラーを柔らかく変化させ、荘重な中にも人間味のある柔軟さを持った音楽が展開されるであろうことを予感させる。そして、アダージョのテンポを重視した濃厚なチェロの歌でその予感を現実のものにする。ただし、楽譜通り最後に4分音符の一打ちで締めくくるティンパニによって構築的な印象も加えられており、その後の展開との整合性が取れている。

主部はアラ・ブレーヴェで振って大変な快速で飛ばす。アダージョが重厚だった分、そのスピード感が印象強い。そして、ピアニシモを重視した呟くような音量で、スタッカートを重視した乾いた音色。これがト短調という宿命を背負ったような悲劇性としっくりくる。この印象は、昨日ト短調のスケルツォを聴いた経験があることもプラスに作用している。この悲愴な弦楽器の弱音と比べると管楽器の打ち込みはかなり音量が大きく、弦楽器による「極限のピアニシモ」を敢えて打ち消しているようにさえ感じさせるが、これは全くブルックナーの指示通りに音量指定を守った結果だ。僕は、基本的にブルックナーの音楽に極限のピアニシモは似つかわしくないと思っているが、それはブルックナーの最初期の楽譜からもうかがい知ることができる、と自信を深めた。

大音量のトゥッティになると、特に上昇音型でピッコロの音色が効果を出すが、今日の演奏でピッコロが目立ったのはこの上昇音型だけ。かつて高関健/新日フィルで聴いた時ほどにはピッコロの音色を際立たせず、オーケストラ全体の中にブレンドさせていた。

 第2主題直前の弦楽器のうねりを程好くルバートして、テンポを落としてたっぷりと歌謡主題を歌い込む。第1主題の快速はこの第2主題の落ち着きを強調するためなのだと納得がいく。さらに素晴らしかったのは79小節目からの弦の伴奏。第1主題の乾いた音色のまま、重量感を以って一音一音弾き込み、濃厚な歌謡主題なのに重戦車のような堂々たる行軍をする、という破格の音楽になっていた。3番終楽章のポルカとコラールの同時並行のように、異質なものを並行させるのは最初期からのブルックナーの得意技だと分かる。アレグロに戻ってからは、とりわけ山響自慢のトロンボーンが深みのある音色で上昇音型を聴かせ、これだけで涙が出るほど感激した。

136小節目以降もやはり、弦の悲愴な「極限のピアニシモ」を管が打ち消す効果を発揮する。ここでは加えて、一音一音事細かに指定されたアクセントやクレッシェンドを忠実に再現することで滑稽味が出て、苛酷一辺倒では終わらせないブルックナーの懐の深さを感じさせる。

そして、クライマックスが雄大にフェードアウトしていき、「さあ、これから名手根本のホルン・ソロだ」と思った瞬間、とんでもないことが起こった。弦楽器が唐突にアレグロ主部の開始のようなスピーディーな音楽を弾き出したのだ。しかも、リズムは第1主題に似ているものの、旋律の動きはここまでで全く聴いたことの無いもので、苛酷だった第1主題とは対照的な明るく輝かしい音楽。やっと「初稿で演奏していたんだ!!」と気付いた。これは大変なことになった。この初めて聴いた初稿の印象は、最後の最後で意表をついて、躁的に明るく、そして構築的な堅牢さを持った音楽を以って第2のクライマックスを形成した、というものであった。ヴィオラから始まった長調の主題は、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリン、と重なっていって、数の増加による立派な盛り上がりを作る。最後はトランペットの印象的な3連譜と、それに続くフル・オーケストラの打ち込みで断ち切られる。そこから、聴きなれたホルン・ソロから始まる雄大なコーダとなる。確かにこの初稿だと、ホルン・ソロからの盛り上がりが唐突で、そして短すぎるように感じる。フェードアウトした静けさからそのままホルン・ソロが立ち上がる改訂稿の方が、(実際は同じ長さであっても)自然な流れの中で必要充分な長さのコーダになっている印象を受ける。確かにキツラー先生の指摘は的確なのだろう。

しかしながら逆に、「この初稿こそブルックナー本来の音楽だ!」と確信した。どんなに人間世界が苛酷でも、それとは関係なく神の王国は常に輝いているのだ、というのがブルックナーの変わらぬ作曲姿勢のはずだ。意表をついて突然長調になってからのかなり長いコーダは、ブルックナーが本来表現したかった結論である神の王国の輝きなのだろう。

さらに、「何かしてやろう」と最後の最後まで何がしか変化させようとするブルックナーの姿勢は、9番アダージョで最後の最後になっても5番からの引用を挿入するなど変化の手を緩めないブルックナーの姿勢とつながる。このブルックナーの姿勢は最初から最後まで一貫していたのだ、と思い知った。

初稿でこの曲を演奏した、ということはブルックナー演奏史に残る偉業だ。録音していたようだが、リリースされたら大変な価値がある筈だ。ひょっとすると初稿の日本初演、あるいは世界初演かもしれない。しかし、チラシにもパンフレットにもプレトークでも、初稿については何も触れられなかった。仮にこれまでに初稿で演奏されていたとしても、状況は似たようなものであろう。今日が本当に初演かどうかは、もはや検証のしようがない。

 

つづいて合唱団の山響アマデウス・コアが登壇し、僕が熱愛する詩篇第112篇。濃厚な印象を与えた序曲とは対照的に、速めのテンポでリズムの躍動感を重視した表現を一貫させる。冒頭の弦の上昇音型の最後の4分音符をスパッと切ったのが象徴的だ。飯森はモーツァルトを演奏するとき、「ドイツ語の発音が聞こえるような演奏を意識する」と言ったことがあるが(いずみシンフォニエッタでのプレトーク)、このドイツ語の歌詞を持つ曲でもドイツ語的なはっきりとした演奏を意識したのかもしれない。このような表現だと、田舎の素朴な信仰者たちが、村祭り的な感覚で、日頃から親しんでいる神さんを喜び勇んで賛美している、という雰囲気になる。また、3度繰り返される「アレルヤ」が、一回ごとに力を強めて3回目で結論となる、というドイツ音楽の鉄則(大植英次の公開指導より)に従って書かれていることも実感できた。

 一方で歌謡主題部分はテンポが速いままで力みが無く滑らかさを持った柔和な表現を実現。こうした表現がされたことによって、小気味良い木管の上昇音型が良いスパイスとして生きてくる。また同時に、力強い部分との対比も明瞭になり、テ・デウムを先取りしたような、弦と木管の刻みの上で決然と歌う部分もいっそう覇気のあるものに聴こえてくる。

また、ライヴで聴くとオーケストレイションの妙味も実に効果的だと分かる。序盤の、合唱への合の手が、木管のみから、弦と木管の合同へ、と発展する様は音楽の広がりを獲得する上で実に効果的。ここはブルックナーの推敲を重ねたことが自筆譜からうかがえるが、見事に成功している。

音楽が薄く厳しさをまとう部分では、山響自慢のトロンボーンが程好い存在感を出していた。また、ティンパニが、出番が限られているからこそ、少ない登場箇所で絶大な音響効果を出していた。

テンポが速いだけでなく、ブロックとブロックの間、例えば、オーボエの幸福感あふれるソロから始まる部分の始まりなどでも、全く間を開けずに突き進んだ。作曲家としての青年時代にあたるブルックナーの湧き上がりまくって押さえられない創作意欲のほとばしりを表現したのだろうか。さすがにフーガの前では一呼吸置いたが、やはりフーガも快速で、喜びが爆発したような表現になった。ブルックナーのフーガは、交響曲(5番、9)では荘重で厳粛で神秘的だが、多くの宗教曲では明るく幸福感に溢れ人間味豊かなのが興味深い。

 

続いて詩篇第114篇。この曲はオーケストラ(?)がトロンボーン3本のみなので、交響楽団の定期演奏会にプログラミングすること自体が難しい作品。これを敢えて取り上げたことに、いくら感謝してもし足りない。合唱が2群に分かれていた112篇では中央の男声の左右に女声を配していたが、この曲からは、男声の前に女声を配する並び順に変更。この方がよりブレンドされた声になる印象を受ける。トロンボーンは舞台中央にシモテからテナー、アルト(使用楽器はテナーだったが)、バスの順で並ぶ。

 112篇とは対照的に、遅いテンポで濃厚に、横の流れを重視した表現をとる。それでいながら合唱が音符の動きをクリアに歌っていて、冒頭から音楽が少しずつポリフォニックな厚みを増していく様相がしっかりと伝わってくる。

 山響自慢のトロンボーンは深みのある音色。ただし、常に感情を控えた冷静な演奏に徹し、合唱がクライマックスで感情豊かなフォルテを披露するのとは対照的。トロンボーンが合唱の音色的サポート役に徹したとも取れよう。が、それよりはむしろ、人間的感情に溢れた合唱と、気まぐれな人間感情の影響を受けない神の王国を3本だけで表現するトロンボーン、という対比がなされているように感じた。

 フーガでは、もともと遅かったテンポがさらに遅くなるが、これは奏者にとっても聴衆にとっても極めて妥当な判断だろう。オーケストラがあればヴァイオリンが弾くであろう速いパッセージをこの曲では合唱で表現しなければならない。それをクッキリと歌う(あるいは聴き取る)には相応の落ち着いたテンポが必要だと思う。そしてこのフーガでは、バスから順に交代交代で合唱に加わるトロンボーンが音色的にも視覚的にも実に効果的。終盤でバス・トロンボーンのみがオルゲンプンクトを吹く場面は、タイでつなげて演奏。今日の冷静なトロンボーンの演奏スタイルとしてはこれが正しいのだろうけど、一小節ごとにアクセント気味に吹き分けて盛り上げる解釈もあり得るのではないかな、とも思う。演奏機会が増えて様々な解釈を聴き分けられるようになったら嬉しい。

 

そして最後が、ブルックナー最晩年の傑作にして演奏機会稀少な詩篇第150篇。初期の作品も圧倒的だったが、この晩年の傑作を聴くとブルックナーがさらに凄い境地に達したことを思い知らされる。

 冒頭から、硬質の大音響を強調。特にテューバの存在が重要な働きをしており、まるでオルガンが加わっているかのようだった。

 濃厚な歌謡部分に入ると、複雑な綾を成す弦楽器の伴奏音型が効果を発揮。特に今日は古典配置だったため、線ではなく面として伴奏が聴こえてくる。特に、カミテに陣取った第2ヴァイオリンの8分音符の動きに、8分休符が入っていたのが印象的。昨日聴いた『夕べの音楽』と同様に、一瞬の休符にハッとさせられる魅力があるのもブルックナーの特徴だとの印象を強めた。フルートの天国的動きは、突出はしないが、美しいものが煌めくのがかすかに見えるような表現。また、ファゴットを中心とした中音域がそっと加わるのが実に温かい。

 75小節目以降は木管の3連譜が期待通りハッキリと聞き取れ、来るべきトランペットの3連譜の布石として説得力を持った。そしてそのトランペットは、3連譜だけでなく、その直前の4分音符の動きにも覇気がある。そしてその直後の頂点(97以降)では、ホルンのエコーが絶大な効果を発揮。しかも、2回目のエコーがより長い、という微妙な違いが、次への期待を高める効果を出していた。微細な違いで絶大な効果を出す、ブルックナー円熟の技だ。

 高橋和貴のヴァイオリン・ソロから高橋絵理のソプラノ・ソロへ、という流れは、堅牢で密度が高かった音楽が、いくつかの線が緩やかにまとまった音楽へと変化したことを音響的に「体感」させてくれる。両ソロに加えて、背景に徹した合唱や、細分化された音を吹く管楽器などの多くの要素が、緊密な結びつきではなく、同時並行的なざっくりとしたまとまりになったのだ。これでこの中間部分がエア・ポケット的な魅力を獲得した。僕はスコアを見たとき、「この一瞬のためにソプラノ・ソロを用意しなくても、合唱団員の首席がソロを歌えばよいのでは?」と思ったが、その考えは誤りだった。合唱団から離れた位置で、独立した存在感があるソリストが歌わないと、この音響は「体感」できない。

 フーガでは特にヴィオラなどオーケストラ楽器の中音域が温かい音色で合唱をサポートしているのが印象的。そして、やはり合唱もオーケストラも、人間的な豊かな感情に溢れていた。

クライマックスの巨大な半音階下降は、圧倒的なポリフォニーに対する圧倒的なユニゾンの妖艶さを実現していた。ファンファーレはトランペットよりもホルンを強調して英雄的な表現を取った。最後の音響は高音域を圧倒的に重視。扇情的な表現を取ったともいえるが、高音の延びが豊かな聖フローリアンの音響が再現されたように僕は思った。

posted by ちぇろぱんだ at 23:49| Comment(2) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.03.08

 ブルックナーの室内楽作品をすべて(と言っても一桁しかないが)集めてレクチャー付きで演奏する、という素晴らしいコンサートが開かれた(2019.03.08。かつしかシンフォニーヒルズのアイリス・ホール)。情報収集能力が無い僕は、日頃お世話になっているフィロムジカ友の会会員様からこの素晴らしいコンサートの存在を教えてもらった。人の縁は本当に有り難い。

 若いブルックナー研究者の石原勇太郎が、自筆譜・浄書譜の画像を使うなど、原資料に基づいているが故の説得力ある解説を展開。以下は興味深かった解説の断片。

 

…ブルックナーは第2主題を「歌謡主題」ととらえ、実際そのように楽譜に書き込んでいる。「歌謡主題は何調で書こうかな? 〇長調?、△短調?、よし、■長調に決めた」といったような構想の書き込みが自筆譜に見られる。

 

…キツラー先生の回想では、ブルックナーはゼヒター先生から学んだことと正反対のことを指導されるたびに喜んでいたという。(僕はこの話を、新たな世界が開かれることを喜ぶ探究者ブルックナーの姿が垣間見られる話だ、と感じた)

 

…キツラー先生の指導は、弦楽四重奏を素材にした作曲技法の段階的習得→ベートーベンのソナタの編曲を通じた、管楽器を中心とするオーケストレイションの習得→序曲や交響曲の作曲、という段階的なものだった。(ブルックナーが編曲したベートーベンを聴いたみたい!)

 

…ブルックナーは、写譜屋が「Quintetto」とイタリア語風に書いたタイトルを、わざわざ最後の「o」を消すなどのドイツ語へのこだわりがあったらしい。(以前ヴィーンで見た展覧会で、マーラーが自筆譜の楽器名をすべてドイツ語に書き直したものを見た。ヴィーンの作曲界ではドイツ語表記へのこだわりでもあったのだろうか?)

 

 以下から各演奏曲を聴いた感想。演奏は、ヴァイオリンが桜田悟(神奈川フィル)と広川優香、ヴィオラが世川すみれと堀那苗、チェロが森義丸。

まずはキツラー先生の指導の一環で作曲したブルックナー初期の作品群。

●スケルツォF-dur

 僕はこの曲を全く知らなかった。

内声で細かな伴奏音型をキャッチボールしている様相が既にブルックナー的。トリオはかなり動きのある音楽。今日はスケルツォ主部よりも遅く演奏していたが、おそらく譜面にはテンポ指示は何もないと思われる。9番のように、スケルツォ主部よりもトリオを速いテンポにして動きの激しさを強調したら、また別の面白さがあるかもしれない。

 

●スケルツォg-moll

 やはり僕が知らなかった曲。

ト短調ならではの、宿命を背負ったかのような悲劇性が印象的。ブルックナーはやはり短調の表現が素晴らしいと再認識。ポリフォニックな動きの中で、ときおり嵌入する4人のユニゾンが存在感を発揮する、ブルックナーならではの語法が確立している。

 

●弦楽四重奏曲

 敢えて事前に音源を聴かず、スコアでの予習のみで聴いてみた。強弱や表情の指示がほとんど書かれていないので、演奏者が自ら判断して補う必要がある。実際に聴いてみると、期待通りの魅力や、「そういう解釈もあるか」と良い意味で予想を裏切られる演奏解釈などもあって楽しかった。しかし何といっても強く印象に残ったのは、ブルックナーの旋律が魅力的であったこと。これは生音でないと実感できない。

 第1楽章。細かな音符のキャッチボールがよりはっきりした形をとっていて魅力的。これに代表されるように、ポリフォニックな深みが素晴らしい。一方で、簡潔な刻みの上で旋律を歌わせるブルックナーらしさもすでに魅力的なほか、チェロの半音階下降も印象的。また、随所に十字架音型が聴かれるのも信仰者ブルックナーを思わせる。演奏はスビート・フォルテを多用した大胆な強弱を補っており、ブルックナーらしい豪放な魅力を実現していた。ブルックナーらしい、全く別の音楽を嵌入したような変化を経るが、最後はブルックナーとしては異例な短調のままの終結。

 第2楽章。しばらくチェロ無しの軽めの響きが続くので、チェロが入ったときに、音響の充実感と音色の包容力の深さを一層強く感じる。中間部は中庸の音量でリズムもそれほど鋭く強調しない演奏。このスタイルだと、田舎風のほのぼのとした印象になって、これはこれで面白い。ただし僕としては、4番初稿第2楽章のクライマックスのように、鋭いリズムと音響の畳み掛けが圧倒的印象を与えるものと予想していたので、意外な解釈だった。全体に動きの激しいアンダンテなので、コーダの長い音符にはホッとさせられる。

 第3楽章。スコアを見たときはブルックナーにしては物足りない楽章に感じたが、実際聞いてみると朴訥とした底力があって魅力的。特に、単純な4分音符の連続なのに「ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロ」と一拍ずつズレて入ることの音色的効果が予想以上に面白い。細分化されたカノンを聴いているかのよう。トリオがチェロのカデンツできっちりと終わっていることも予想以上に落ち着いた好印象を与える。やはりブルックナーは天才だ。

 第4楽章。「第1→第2→ヴィオラ→チェロ」と順に重なっていくオーケストレイションが、冗談音楽のような面白さとともに、重厚さを増していく音楽として素直に美しく感じる。3連符をちりばめたポリフォニーも効果的。ライヴならではの驚きが得られたのはB主題で、A主題を倍に拡大しただけなのに「歌謡主題」としての穏やかさを充分に獲得していた。雄渾な8番フィナーレの第1主題が展開部で花園的愛らしさをもってフルートで歌われる例からも分かるように、ブルックナーはひとつの主題に異なるキャラクターを与える天才だ。最後は1楽章同様に短調のまま終わるという、交響曲では有り得ない終わり方。ただ、短調の表現がうまいブルックナーとしてはこの終わり方も違和感がない。長調なのに暗さを感じさせる4番フィナーレ第3稿の終わり方と聴了感は似ている。

 

●ロンド(弦楽四重奏曲の終楽章とすべき楽章を新たに作曲し直したもの)

 このロンドはスコアによる予習すら敢えてせず、全く無知な状態で聴いてみた。

驚かされたのは、弦楽四重奏曲とほとんど同時期の作品なのに、深みがグッと増していること。冒頭は、この直後に書かれた交響曲ヘ短調にそっくりなのが興味深い。第1楽章で魅力を放っていたチェロの半音階下降がここでも印象的に使われ、第1楽章との連続性が考慮されていることが分かる。特に印象深いのはC部分で、細かな動機が実に密度高く綿密に絡み合っている。まるでフーガのようだ。

 

●『夕べの音楽』

 成立事情がよくわからないピアノとヴァイオリンのデュオ曲。演奏は仲田みずほのピアノと桜田のヴァイオリン。

 主題が始まってすぐにパウゼになるのに驚かされる。ブルックナーの「休止」はオルガン的語法とよく言われるが、ブルックナーは根本的に休止の入った主題が好きなのではなかろうか。主題を歌い終えた後、それを細分化してピアノの両手に配分し、ポリフォニックな伴奏にしているところがブルックナーらしい。

 

 休憩後は、ブルックナー円熟期の傑作。

 

●インテルメッツォ

 円熟期の作品なのに、弦楽五重奏のスケルツォの代用として書かれたものであるため、演奏機会がない不遇の作品。僕も生演奏で聴くのは初めて。

 まず冒頭の悪魔的な音色に驚かされる。ブルックナーとしても異色の響きで、これと似た印象の響きとしては、推敲によってお蔵入りになった9番トリオ第1主題の初期段階が挙げられるだろうか(内藤彰指揮東京ニューシティ管で聴いたことがある)。静かな音楽に嵌入されたような2小節間のスビート・フォルテが圧倒的な存在感を与えると予想していたが、意外と印象は薄い。やはりスビート・フォルテの効果はフル・オーケストラでないと難しいか。ブルックナーの破格の楽想は弦楽五重奏の範疇を超えていたようだ。主部終盤でヴィオラがトランペットのように3連符のファンファーレを刻む様は極めて効果的で覇気がある。

ちなみに、演奏者の実感としては、確かに第1ヴァイオリンは簡単になってヘルメスベルガーの要望に応えたことが分かるが、その分ヴィオラが難しくなっているとのこと。

 

●弦楽五重奏曲

 この曲だけは聴くのが3回目だが、何度聴いても新たな感興がある。何よりも、前半で聴いた初期の習作群には無かったブルックナーの特徴である「身を任せられるおおらかな流れ」が出来上がっているのだ。下野竜也のブルックナーで特に感じられる、包容力のあるゆったりとした流れ(響きだけではなく)、がブルックナーに不可欠の要素であることを改めて実感。

第1楽章。ユニゾンのフォルテに圧倒的効果があり、スビート・フォルテの効果も大きい。インテルメッツォでこれを感じられなかったのは、長さが足りなかったためのようだ。ゆったりとした第1楽章では、長い助走のように少しずつ盛り上げてスビート・フォルテを導く効果的な書法が可能だ。また、特に印象的だったのは展開部。アド・リビティムに歌われるソロの呼び交わしは7番の第1楽章展開部を髣髴とさせる。そして特に終盤では、複雑なポリフォニーが豊かな響きの厚みにつながっていた。また、チェロの伸ばしがオルゲンプンクトのように安定した効果を出していたのも印象的。オーケストラで言えばティンパニのロールのような効果を出していた。

 第2楽章。スケルツォ。溌溂とした動きは確かに素晴らしいが、インテルメッツォの悪魔的な響きも素晴らしく、甲乙つけがたい。個人的にはインテルメッツォのあの悪魔的響きをまた聴きたい。インテルメッツォを採用しての全楽章演奏がなされてもいいんじゃないか? 今日の演奏はクワジ・アンダンテやラングザマーを相当に遅く充実して演奏していたことが特徴的。ここがまるでトリオであるかのような印象を与える。本物のトリオはその後で、よりほのぼのとした音楽があるのだが。この巨大さがヘルメスベルガーを困惑させたのかもしれない。

 第3楽章。この楽章はスクロバチェフスキの弦楽オーケストラ版があるので何度か聞いている。そして何度聴いても魅力的。特に第2主題ではボタボタ涙が流れた。改めて聴いてみて印象的だったのは、クライマックスが実に細かな動きによって扇情的になっていること。おおらかなクライマックスを作る交響曲のアダージョとは異なっており、室内楽ならではの音楽を作ったことが分かる。最後は信仰告白の数字である「3」が聴かれるのが、作風確立後のブルックナーらしい。

 第4楽章。4番初稿風の冒頭は実に前衛的。この一見難しそうな楽章には文句を言わず、スケルツォに注文を付けてインテルメッツォを生み出させたヘルメスベルガーは、慧眼の持ち主なのではないだろうか。チェロの登場箇所が要所に制限されることで、かえってチェロの独自な存在感が際立つ。ヴァイオリンとヴィオラによる4重奏を、要所でチェロが加わって支える、という印象を与え、それがスケールの大きさにつながる。ユニゾンのフォルテで圧倒的クライマックスを築いたかと思うと、何食わぬ顔で第1楽章風の穏やかな音楽を連続させてしまう、という大胆な振幅。この破格の音楽は3番初稿のフィナーレを髣髴とさせる。コーダは改訂稿に合わせて、スビート・フォルテになってそのまま突っ走るスタイルで演奏。この唐突さはいかにもブルックナーらしい面白さで、ブルックナーが本来やりたい音楽、という印象を受ける。

 アンコールは五重奏フィナーレのコーダを初稿で演奏。ピアノからクレッシェンドしてクライマックスを導く。このスタイルだと、第1ヴァイオリンの上昇音型がよりはっきり浮かび上がって、天に坐します神を仰ぎ見る信仰者ブルックナーの姿がくっきりと浮かんでくる。信仰告白的な初稿、音響の塊としての存在感が圧倒的な改訂稿、それぞれ異なる魅力があり、どちらもブルックナーらしい。

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2019年03月01日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.02.22

 ローター・ツァグロゼク指揮の読売日本響を聴く(2019.02.22。サントリーホール)

 初めにリームの「ins offene」。舞台上にはヴィオラ以下の弦楽器や木管、低音の金管、そして銅鑼や大太鼓を、カミテとシモテに離して配置。そして、ヴィンヤード式に環状を描く2階席の通路にヴァイオリンやトランペットや打楽器がぐるっと輪になって並ぶ面白い編成。図らずも日下紗矢子(ヴァイオリン)や田中敏雄(トランペット)といった名手が僕の席の向かい側にいたのは実に幸運。メロディーが全く無い作品で、持続音と、ホール全体を飛び交う音の連続で構成される。唯一旋律的と言えるのが、頻出する2度の上昇音型で、これだけでどこかバッハのマタイ受難曲を連想させる。そして、持続音は極めて和声的で悲しみを湛えている。2階ポディウム席の脇というイレギュラーな位置で弾いているのにもかかわらず、日下の音がしっかりと艶やかに聞こえるのはさすがだ。メロディーは無いがリズムは変化に富んでいて、時に静謐に進行し、時に扇情的になる。特に大太鼓の存在感が印象的。そして曲が始まって間もなくの、ツァグロゼクが指揮棒を止めたままの長大なゲネラル・パウゼの緊張感が凄かった。そして何と言っても、2階席で演奏される金属打楽器、とりわけ弓で持続音を出すサンバル・アンティークの高音の印象に圧倒される。京都で活動する僕にとっては、こうした高音の金属打楽器の音は祇園祭の囃子を連想させる、すなわち死者の魂を連想させる。マタイ受難曲の連想とも合わせて、死との繋がりを感じさせる深い内容の作品だった。

 後半はブルックナーの交響曲第7番。リームの後で演奏したことが奏功して、ブルックナーの前衛性に方々で気付かされた。例えば第1楽章の展開部、虚空の中でフルート・ソロを中心に淡々と延々と語り交わしが続けられるこの場面、よく考えたら、管弦楽曲とは思われないような前衛性がある。あるいはフルート・ソロが第2楽章コーダの葬送音楽では2本で重ねられる場面。一本のソロの虚空を切り裂くような力強さとは異なり、2本ユニゾンでは野辺送りのような茫洋とした寂しさとなる。この使い分けも実に凄い。また、第2楽章の最後の弦のピッツィカートは、リームにおける大太鼓のように、静謐の中にリズムのみで生命力を刻印するようで、これまた凄みがあった。また、僕は第2楽章に打楽器を入れるのは反対なのだが、今日の第2楽章の打楽器の炸裂は、明るい音楽なのに悲劇の頂点が刻印されるような逆説性を感じさせて、なかなかに説得力があった。

1楽章のオーケストレイションからノーヴァク版を使用していることがわかったが、ツァグロゼクがノーヴァク版のテンポ設定を自分のものとして完全に消化し、自然な形で音楽表現に生かしていたのが印象的だった。特に加減が難しい第1楽章の最後の加速を、無理やりな印象を与えない自然な高揚感をもって成功させていた。これは、要所要所で動的な印象を与える表現を取っていたことが成功の背景にあろう。基本テンポ設定は中庸なのだが、第1楽章第3主題や第2楽章第2主題を、まるで無邪気に遊ぶ子供のような躍動感をもって演奏したために、ゆったりとした流れを持った中に、動的な印象をも併呑させることに成功していたのだ。そしてこの動的な印象は、前半楽章と後半楽章の一体感を出すという、7番ならではの課題を克服することにもつながった。7番の演奏の中には、前半楽章と後半楽章を全く別の音楽と割り切ってしまったかのようなスタイルも散見されるが、今日のツァグロゼクの解釈は見事な統一感があった。この背景には、前述のような前半楽章における動機な印象ばかりでなく、スケルツォの演奏スタイルも成功要因として挙げられる。トランペットで提示されるスケルツォ主題は、たいていの演奏では、最初の2小節を高らかに吹くものの3小節目のリズムが曖昧にされる傾向があり、4小節フレーズの前半に重心が来て前のめりな軽い印象を与えてしまう。しかし今日は3小節目のリズムをきっちりとごまかしなく演奏していた。こうなると、4小節フレーズの後半に重心が来て、腰の据わった印象を与えることになる。今日のスケルツォは快速テンポだったが、主題の歌い方の印象としては重みを感じさせ、これが重厚な前半楽章との連続性をもたらすことにもなったのだ。

 また、第1楽章第1主題や第2楽章のコーダといった重厚なフレーズにも、広いスパンでのメッサ・ディ・ヴォーチェをかけることで、動的な印象を与えていた。これも自然な印象で、ディミヌエンドは「音を小さくする」というよりも「緊張感を少しずつ解き放つ」といった印象を与えるものだった。特に印象的だったのは第2楽章のコーダ。テューバ5重奏による葬送音楽にかぶさるホルンの慟哭を、ブルックナーは「2本のユニゾンで、可能であれば4本のユニゾンで」と指示しているが、ほぼすべての演奏が4本ユニゾンである。しかし今日は2本で吹き始めたのだ。「え、なんで4本で吹かないの?」と思っていたら、すぐその謎が解けた。4分音符で頂点を刻印する所からホルン2人を加勢させて4本に増やしたのだ。当然、ホルンが倍になることで巨大なクレッシェンドが実現する。無理やりヴォリュームを上げるのではない、自然体の見事なクレッシェンドを人数の工夫で実現したのだ。

 このようにフレーズの一つ一つを広がりのある抑揚によって生命力を出したのと同時に、各フレーズの接続部分では、これまた自然体のルバートで一呼吸を置き、次のフレーズを落ち着いて歌い始める、理想的なブルックナーの演奏スタイルを取っていた。例えば第1楽章のTの直前では、第1ヴァイオリンの装飾音型をコンサートマスター日下の見事なリードでテンポを緩め、高揚の極致にあった恍惚感を落ち着かせて、T以降の素朴で楽しげなリズムへと気分を切り替えた。この箇所に限らず、読響の弦はやはり見事。例えばスケルツォ主部の201小節目では、瀧村依里率いる第2ヴァイオリンが強烈な存在感を放って彫琢を深くした。またフィナーレの第3主題は、ありがちな連続ダウン・ボウではなく、返し弓で締めくくったところに好感が持てた。連続ダウン・ボウは格好は良いけれど、この箇所でそれをやると音楽の流れと躍動感が阻害される。そもそも徹底的に連続ダウン・ボウにこだわって楽譜に明記しているブルックナーが、この箇所にはボウイングを記入していない。これはすなわち「連続ダウン・ボウにするな」という意味に違いない。以前、下野竜也から聞いた話では、このボウイングは読響の伝統だとのこと。よき伝統をこれからも引き継いでもらいたい。そして全曲の終わりでは、弦のトレモロが完全に響きの主役となり、その彼方からトランペットがかすかに響いてくる、という理想的なブルックナー・サウンドで締めくくられた。

 短めに音を切った後の静寂には、良いブルックナーを聴けた後にだけ体感できる、空気の中に霊気が充満しているかのような心地よい痺れを感じられた。楽員がハケても拍手は鳴りやまず、ツァグロゼクを誰もいなくなった舞台に引き戻した。むべなるかな。

posted by ちぇろぱんだ at 22:41| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする