2018年01月27日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2018.1.19〜

 飯森範親がついに大阪でもブルックナーを指揮。オーケストラはもちろんセンチュリー響で、曲は第4交響曲(シンフォニーホール)。

 弦の編成はいつものセンチュリーのままで、第1ヴァイオリン10、コントラバス4の小ぶりな弦楽器編成。近藤陽一が小ぶりなF管テューバで吹いたこともあり、弦楽器が少人数でも管楽器とのバランスが良い(管・打楽器は補強一切なし)。そして弦楽器の配置が面白く、古典配置にしたうえに、コントラバスを舞台奥(金管の後ろ)に一列横隊に並べる。そのため、ティンパニはシモテ雛壇下に陣取る。ホルンもシモテで、音域が近いチェロと至近で合理的(しかし、逆に敢えてチェロと逆のカミテに配してステレオ効果を狙っても面白かったかもしれない)。この配置が見事に生きて、少人数の弦楽器にもかかわらず、管の音色を弦の艶やかな響きでくるみ込む芳醇なブルックナー・サウンドを、小規模オーケストラならではの透明感も備えながら実現した。至近に陣取ったコントラバスとトロンボーン・テューバの一体化した響きやアンサンブルも良い。対向配置のヴァイオリンは、とりわけフィナーレでオーケストレイションの面白さを際立たせる。

 飯森の解釈は、ロマン派的に大きくうねる動的なテンポ変化を程好くつけながらも、バロック的に角の立った硬質な音で要所を締める。そればかりでなく、つぶやきのような極限のピアニシモをも織り交ぜ、前衛音楽のように慄然とさせるイメージまでも表現した。このようにして、「この音楽はどこから来たのか?いつの時代の物なのか?」という平野昭の言葉を髣髴とさせる、時代を超越したブルックナーの異能ぶりを存分に感じさせる演奏となった。また、各フレーズの終わりをテヌート気味にしっかりと粘り強く鳴らしていたのも印象的で、都会的ではない土に根差した力強さを感じさせた。楽員の話では、飯森がオルガン的音響をイメージして求めたことだそうだ。

 版は「ハース版とノーヴァク版の良い所を混ぜる」という、意味不明の予告がなされていたが、何のことはない、聴いてみたら単なるノーヴァク版だった。それよりもむしろ、飯森独自の改変の方が印象的だ。第1楽章のKの冒頭で、トランペットが楽譜には無い高音を吹いて「あれっ?」と感じた。終演後に首席トランペットの小曲俊之に確認したところ、飯森の指示だとのこと。飯森の目的は恐らく、ブロックの締めくくりの終結感を弱めようとしたのだろう。原典通りだと、音楽のブロックが下降音型によって締めくくられるので、まるで曲が終わったかのような落ち着きを感じさせる。終わっても終わっても音楽が再生する、というのがブルックナーの特徴ではあるが、ブルックナー自身も、あまりに終結感が強くならないよう改変することがあった。例えば8番アダージョの最後のホルンは、初稿では下降音型で落ち着いて収束するが、第2稿では次の楽章への展開を期待させる上昇音型で終わっている。ブルックナー自身が試みた試行錯誤を、飯森が追体験していると言えよう。実際この部分では、次なる天国的コラールに向けて音楽のボールを放り投げているように感じられた。ちなみにコラールは、フレーズを締めくくるホルンの豪放な鳴りっぷりと、丸山奏がパワフルに牽引するヴィオラが相まって、動的で生命力のある表現だった。

 第2楽章もヴィオラのパート・ソロが秀逸。長いフレーズをそのまま弾くのではなく、一つのフレーズの中に見える陰と陽をしっかりと弾き分けていた。これは、前述したような、異なるスタイルを併呑した今日の飯森のスタイルを体現したものと言える。また、ホルンをはじめとする前衛的な和音の色彩感がこの楽章で特に生かされていた。

 スケルツォは、終結近くのトランペットのポリリズムなど、前衛音楽的側面が強調され、まるで未来から来た音楽のように感じられた。また、この楽章では嬉しいボウイングが見られた。トランペットとホルン・トロンボーンの掛け合い部分での、トランペットを支えるヴァイオリンのトレモロ。このトレモロの最後をアップ・ボウで締めくくったのだ。児玉宏/大阪響がこのボウイングを取って以来、気にするようになったのだが、今日、久々にこのボウイングで聴く(見る)と、音楽のボールを勢いよく次に向かって投げているように感じられた。つまり、第1楽章におけるトランペットの独自改変と同じ、一貫した飯森のスタイルがこのボウイングに表れているのだ。実際これは飯森の肝煎りのようで、サインをもらう時にこのボウイングが良かった旨を伝えると、飯森は相好を崩して喜んでいた。

フィナーレでもボウイングの面白さに魅了された。ほとんどの楽団が守ってくれない、ブルックナー指定の連続ダウン・ボウを、飯森は期待通り順守。それに加えて、ダウン・ボウの指示の無い音符は逆に徹底した返し弓で演奏し、音の粘り強い連続性を強調。ロマン派的な濃厚な流れを持ったフレーズが、バロック音楽的な鋭い音の打ち込みによって締めくくられる、という、時代を超越した破格の表現になった。
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2018年01月14日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2018.1.12

 寺岡清高と大阪交響楽団が魅力に満ちたプログラムで演奏(シンフォニー・ホール)。

 前半は日本初演を含むロット作品3曲。ロットはフィロムジカが2作品を関西初演したゆかり深い作曲家だが、こうして我々が蒔いた種がしっかりと芽吹いているのは嬉しい限り。

 

 1曲目は序曲『ハムレット』。冒頭、トロンボーンにテューバも加えた4声のローブラスが静かに演奏するが、古典やバロックすら通り越して、まるでルネサンス音楽を聴いているかのような荘重で純潔な雰囲気を醸し出す。弦を中心とする主部は、簡潔なリズムで淡々と進みながらも、強烈な色彩を放つ和声がときおり牙を剥くロットならではの音楽。これがローブラスの音楽と何度も対置されて循環し、小品ながらも巨大な奥行きを感じさせる。

 

 2曲目は日本初演となるB-dur組曲。この曲だけスコアが購入できたので予習しておいたが、当然、譜面だけでの印象とは異なる。これが面白い。

1楽章目のスケルツォは冒頭2音のインパクトと、4分音符を主体としながらも冒頭2音の短縮形をまぶした簡潔な主題が印象的で、それは予想通り。しかし予想外だったのは2分音符も用いた木管の主題の印象の強さ。これによって、音楽が肉厚な層をなしていた。

 さらに予想外の喜びを与えてくれたのは2楽章目だ。無窮動のようなフガートと、最後になってようやく登場するトロンボーンの長大なフレーズの圧倒的対比は予想通り。しかし、スピーディーな8分音符の集合体が、にもかかわらず、全体としては実に穏やかでゆったりとした流れを持っているように感じられたのだ。これはホールの響きに身を委ねないとわからないことだ。

 寺岡は徹底したイン・テンポで演奏し、一定した流れの中から音楽の面白さが塑造されていくこの曲の個性を明確に描き出した。ただし、楽譜で予習しておくと、別のスタイルの演奏もあり得る、ということを同時に感じる。例えば冒頭では、今日は控えめだった2番トランペットのロングトーンを思い切り目立たせていいかもしれない。あるいは、トリオでは思い切りテンポを落としても良いかもしれないし、同じくトリオでエア・ポケット的に挿入された4拍子(ここ以外はすべて3拍子)を強調しても良いかもしれない。また、一瞬だけ現れるワルツ風の伴奏を、その一瞬だけ極端に演奏しても良いかもしれない。それだけロットの音楽には多様で未開拓な可能性が秘められているということだ。もっと数多く演奏されて、多様な魅力を提供してほしい。

 

 3曲目はE-dur組曲。開演前の寺岡のプレトークで的確に説明されていたが、この曲は、のちにマーラーが『巨人』の最後のコラールに引用したと考えられる主題、その主題ただ1つの繰り返しのみで2つの楽章を書き上げている。

 チェロでのびやかに主題が提示された冒頭は、マーラーよりはヴァーグナー(特に『タンホイザー』)を髣髴とさせる。しかしそれが、フル・オーケストラがマルカートで演奏するようになると、なるほど、『巨人』の最後を先取りした音楽に聞こえてくる。マーラーが、行進曲にしか聞こえない『巨人』最後の主題を、「コラール」と呼んだ謎もこれで解決する。元ネタのロットの旋律は明らかにコラールなのだ。乱暴に言ってしまえば、同様の主題を用いても、教会で起居したロットが扱うとコラールに、軍楽隊を聴いて育ったマーラーが扱うと行進曲に聞こえる、ということかもしれない。終盤で、徳田知希のトランペットと細田昌宏のホルンがこの主題をユニゾンで堂々と演奏する場面は、簡潔かつ壮大だ。また、交響曲の第2楽章を思わせる、金管の天国的かつカロリーたっぷりの響きはまさにロットを聴く幸福。ごくわずかな素材の繰り返しからやがて壮大な音楽を築き上げる力技はブルックナー8番初稿を思わせるが、当然ロットのこの曲の方が遥かに先にできた作品。その時代離れした天才性には瞠目せざるを得ない。

 

 それにしても、ロットの音楽は穢れがない。「音楽をピュアーにピュアーに聴いていった先にブルックナーの音楽がある」とは故・若杉弘の言だが、この言葉はそのままロットにもあてはまるだろう。不幸を濃縮したかのような短い人生であったのにもかかわらず、いや、だからこそ、と言うべきか、ロットの音楽には純粋な至福しか感じるものがない。

 

 こうしたロットの音楽の後でマーラーを聴くと、マーラーは遥かに人間の泥臭さを感じさせる。演奏されたのは『巨人』の5楽章版。僕は4楽章形式の『交響曲第1番』は大嫌いで、この曲は5楽章で演奏すべきだと確信する。密度の高い第1楽章の後に、稚拙なまでに単純な「花の章」があり、その後に豪放なスケルツォが来ることで、曲全体の空間的な落ち着きがしっくりくるのだ。これはホールの響きに身を委ねないとわからないことだ。寺岡/大響は、冒頭にしてこの曲の肝である冒頭のAの伸ばしを、重層的に豊かな厚みを持って響かせる。この曲は、主題が時系列的に展開する「時間芸術」ではなく、音楽の様々な構成要素がホールの空気の中を満たす「空間芸術」としてとらえるべきだと思うが、冒頭の音響によってそれを早くも成功させた。終楽章のティンパニの3連符は、ロットからの系譜を確実に感じさせる。

 唯一残念だったのは、国際マーラー協会版を使用したこと。この版は「ハンブルク稿」だと謳ってはいるが、フィロムジカが20回定期で演奏した、マーラーの自筆譜に基づいた嘘偽りないハンブルク稿とは大きく異なる。はっきり言って協会版は「‟花の章“を挿入した交響曲第1番」でしかなく、ハンブルク稿の自筆譜に見られる魅力にあふれた「毒」がきれいさっぱり消されている。特にスケルツォ冒頭のティンパニやフィナーレの長調のフルートが変えられているのは看過し難い。この版が市民権を得てしまうことを強く危惧する。

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2017年11月18日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2017.11.08〜

 ハンヌ・リントゥが都響でシベリウスの『クッレルヴォ』を演奏(東京文化会館)。これは大事件だ。クッレルヴォは、フィロムジカが関西初演した作品で、フィロムジカ史上最も輝かしい業績の一つである。そしてリントゥは、今最も注目すべきシベリウス指揮者だ。会場は開演前から異様な熱気に包まれ、フィンランドから来たポリテク男声合唱団が入場を始めた時点から拍手が起きた。
 リントゥは登壇するなりほとんど間を置かず、まるで熱愛する作品を早く始めたくてたまらないかのように指揮し始めた。
 冒頭は1小節ごとに1拍目を強く打ち込んではすぐに抜く動的な表現。それが低弦、セカンド、と、どんどん重なっていき、動的なエネルギーが瞬く間に厚く深くなっていく。もうこの音を聴いただけで涙が溢れ出た。かなり押せ押せのテンポで、こう速いとオーボエの刻みが不安になるものだが、鷹栖美恵子と南方総子のオーボエは流石、完璧なのは当然で、そこに物寂しさや侘しさまでも醸し出されていた。山本知重率いるヴァイオリンはこの曲に非常に多い装飾音符を艶やかに色彩豊かにしっかりと聴かせる。この装飾音符が『カレワラ』のそこかしこに登場する乙女たちのように生気が溢れており、暗鬱としたこの楽章の中で光を放っていた。それにしても都響の弦の響きは瑞々しい。ついぞ聴けなかった渡辺暁雄の音はきっとこのような音だったのだろうと想像する。また、管打も、この曲の響きを作るうえで重要となる三界秀実のクラリネット、西條貴人のホルン、安藤芳広のティンパニが、いずれも骨太で肉厚の音色で、しっかりとした音の骨格をなしていた。また、木管や弦のトリルがしっかりした存在感を発揮して、自然の中に内在する恐ろしさのような雰囲気を出していた。
 第2楽章も勿論、陰鬱な音楽の中を吹き荒れる、リントゥらしい心象の中の嵐がすごい。しかしそれ以上に印象的だったのは中間部などに聴かれる一瞬で消えてしまう健康的な明るさ。悪いことしかなかった青春とは言え、クッレルヴォにも青年ならではの輝かしさがあったのだ、と感じさせ、それが一層悲しみを増幅させる。
 第3楽章は、清水先生とは逆に冒頭3小節の1拍目を強拍としてはっきり強調し、第1楽章から続く動的な印象をここでも刻印した。西川圭子のトライアングルは木目細かく節度ある煌めきを放っており、巻き上がる雪質の細かさまでも見えるようだった。そして店村眞積率いるヴィオラの激しい動きに圧倒される。厚く密度の高い雪煙が巻き上がっているようだ。驚かされたのは柳原祐介のフルートと小池郁江のピッコロの2重奏。珍しいことに、楽譜通りに演奏していた。ピッコロの音が低く記譜されているのでほとんどの演奏がピッコロをオクターヴ上げて吹くものだが、今日、小池は楽譜通りの低い音域で吹いた。そうするとピッコロがフルートの音色に埋もれる部分が所々に出て来るが、それがかえって良かったのだ! フルートとピッコロがブレンドされた音色が実に瑞々しく、そして、その中から時折頭を突き出すピッコロ独自の音色の物寂しさがかえって強調された。やはりシベリウスのオリジナルは凄かった! あらゆるクッレルヴォの演奏は、オリジナル通りに演奏されるべきだ。なお、使用譜は恐らく新版で(リントゥは3分冊のスコアを入れ替えながら指揮)、旧版にしかないクラリネット音型は無かった。僕は怪鳥が悲劇を予言しているようなこのクラリネットが好きだけど、新版による今日の演奏はこの箇所に静かな空隙が生じ、その空隙が不穏さを引き立てていた。なるほど、新版の良さも理解できた。ポリテク合唱団は静かで滑らかな歌が特に見事。この先に起こる悲劇の予兆を妖艶に歌い上げる(ちなみに、アンコールで演奏した『フィンランディア』でも静かで妖艶な表現が光っていた)。一方、フィロムジカが演奏した時に「清水スペシャル!」として特別強く合唱に絶唱させた部分は、今日のリントゥも激烈に強調(大柄なリントゥが豪快に全身で指揮するから、視覚効果も凄い!)。やはり偉大な解釈者は、細部では解釈が異なっても核心部分の表現は一致するようだ。独唱の乙女・妹役はメゾ・ソプラノのニイナ・ケイテルを起用。ソプラノが歌うのとは全く異なる落ち着きがある。しかも全体的に絶唱せずに淡々とした語り口で歌うので、かえって静かな凄みに繋がる。そんなケイテルが唯一ヴィヴラートをかけて高らかに歌ったのは、妹を冷たくつき放つ神の言葉を口真似するシーン。神の不在に対する怒りか。一方、クッレルヴォ役はバリトンのトゥオマス・プルシオ。粋がった歌い方によって、思慮の浅い青年の雰囲気を見事に描き出している。そして、両ソリストとも、演劇的なリアリティーの追及よりも音楽性を優先する均整の取れた歌いぶり。そうした中、クッレルヴォが3人目の乙女(=妹)を口説く場面は、先の2人の乙女との明らかな違いを、シベリウスの不穏な音楽を生かすことによって見事に描き出していた。そしてこの楽章終盤に、今日最大の圧巻のひとつが聴かれた。それは「総休止」だ! 妹の自殺という衝撃を、シベリウスは無音(総休止)によって描いた。その総休止をリントゥは、完全に体の動きを止めて、聴衆である僕たちが冷や汗をかきそうになるほどの永遠に続くような長い無音として描いた。こんな大胆な演奏を実現した演奏者も、その間、無音を維持した我々聴衆も、どちらも凄い! 会場が一体になって作り出した奇跡の無音だった。最後のティンパニの一打ちは、こうした過激な演奏に似つかわしく、即座にドライに消音した。
 第4楽章は終盤に行くにしたがって表現を煽り立てるが、それによって派手な音楽の奥にある虚しさが引き立ってくる。クッレルヴォの空虚な心象を見事に表現していた。
 そしてフィナーレ、例によってリントゥは冒頭小節の1拍目を強調して動きを付けるが、この楽章冒頭は前楽章にも増して自由な生命力を獲得していた。そして、この楽章の基層に第1楽章の主要要素があることを、オーケストレイションのバランスによってしっかりと示し、この大曲が首尾一貫した巨大なループを描き出していることを強調した。そして、第3楽章と同様、クッレルヴォの自殺を表現する「無音」の表現の大胆さと凄みはもはや言うまでもない。
 終演後、アンコールの『フィンランディア』が終わっても拍手が鳴りやまず、ポリテク合唱団の最後の一人が退場するまで拍手が続くという、東京では珍しい光景が見られたのも、今日の演奏の凄さを示していた。
 この記念碑的名演を聴いて、改めて確信した。『クッレルヴォ』は紛れもなく傑作だ。それも、シベリウスの最高傑作群の一つに必ず加えるべき大傑作だ。この大傑作をシベリウスはなぜ自ら封印したのか。それも分かったような気がした。少なくとも『カレワラ』の「物語」を描いた音楽のジャンルにおいて、シベリウスは『クッレルヴォ』を超えるものは書けなかった。シベリウスにとって、青年時代の異様な興奮に突き上げられて書いたこの奇跡の作品は、自らに枷をかけるような「越えられない壁」になってしまったのではないか。『クッレルヴォ』を自ら封印することで、それを超える作品を書こうと自己を鼓舞し続けたのではなかろうか。これは、30年間の格闘の末、ついに完成に至らなかった第8交響曲作曲と同様の、シベリウスの畏怖すべき自己への厳しさがもたらしたものなのだろう。シベリウスは、交響曲という抽象的な音楽の世界で類を見ない独自性をぐいぐいと伸ばしつつも、『伝説』など『カレワラ』の「物語」にちなんだ作品を書き続けた。しかしいずれも『クッレルヴォ』の興奮には及ばない。結局シベリウスは、『カレワラ』の中の普遍的神ともいうべきタピオに焦点を当てることによって、ようやくこの枷を外すことに至ったのだ。僕にはそう思われた。
posted by ちぇろぱんだ at 21:09| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする