2018年04月22日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2018.04.07

 尾高忠明の大阪フィル音楽監督就任披露公演。大フィルでシェフを勤めるための通過儀礼とも言うべき、ブルックナーの8番を指揮。もっとも、朝比奈隆逝去後、定期演奏会で最初にブルックナー(9)を演奏し、「大フィルのブルックナー健在!」を印象付けたのは他ならぬ尾高だ。むしろ待望の尾高/大フィルのブルックナー8番と言うべきだろう。

 第1楽章。響きの面からもポリフォニーの面からも、ブレンドされた深みを重視した演奏。例えば冒頭の金井信之(クラリネット)のソロは、無から静かに立ち上がるような吹奏。あるいは楽章最後の井野辺大輔率いるヴィオラの下降音型は、マルカート感を廃した模糊とした音色によって静寂へと溶け込んでいった。一方で、際立たせるべきものはクッキリと描き出してメリハリを付ける。筆頭が藤原雄一のテノール・テューバ。技術が安定しているのは当然のこととして、特筆すべきは朗々たる歌謡性と頭一つ突き出した存在感。ブルックナーの原典版に求められる、自発性に溢れた生命力を見事に体現していた。リズムもクリアに鳴らされており、例えばカタストロフィを形成する金管の「死のリズム」で細かい音符がきっちりと分割されて鳴らされていた。また、高橋将純(ホルン)のソロは全く不安がないので、広大な丘陵のようなイメージに浸ることができる。その高橋から大森悠(オーボエ)へとソロが受け渡される瞬間、ヴァイオリンのトレモロがスビート・ピアノされ、目に浮かぶ風景が遠景に変わる。ブルックナーの生命線である弦のトレモロの美しさは、大フィル最大の遺産として受け継がれている。圧巻はカタストロフィへの道程。一音一音、踏みしめるようにしっかりと鳴らしていくのだが、トレモロの弦楽器がその各一音の冒頭を長い弓幅を使ってしっかりと鳴らすのである。これも大フィルのブルックナーが誇るトレモロだ。

 スケルツォは先々への見通しが効いた演奏。5小節目のスビート・フォルテをしっかりと生かすが、これは、再現時にティンパニが加わることを見通していることの証左である。ただし、ボウイングは作曲者の指定を無視した返し弓。少しがっかりしたが、これも先々を見通しての改変だと判明。川浪浩一のコントラバステューバとともに同じ主題を大音響で反復する場面になって、ブルックナーの指示通りの連続ダウン・ボウで弾き始めるのだ。「野人」の雰囲気を、小出しにしながら盛り上げていく、遠大な視座を持った演奏だったわけだ。また、この楽章では特にクラリネットの鳴りが良く、響きの色合いを深めていた。そして、ブリッジ部分に対して、クライマックスに勝るとも劣らない魅力を感じさせるのは名演の常だが、今日もそう。ヴィオラから始まる苛烈な断片の応酬で傷ついた後に、癒すような木管の柔らかい音に包み込まれる、その展開が見事だった。ピッツィカートを受け継ぐフルートは、弦との落差を感じさせない稀有な演奏。もちろん音量は弦に及ばないが、田中玲奈ら奏者たちの鋭い勢いによって、弦に遜色ない緊張感を出していた。この熱演あって、提示とはまた異なる炎のような色彩が再現部に加わった。

 トリオは、ハープが演奏し終えてから始まる中間部分を、一層テンポを落として静謐に演奏。ここが第2楽章の核であることを強く印象付けた。フレーズを収める篠崎孝(トランペット)のスビート・ピアノが見事!

 第3楽章。決して設定テンポは速くないのだが、前半2楽章をかなり遅めのテンポで演奏したために、実際以上に速い印象を受ける。アダージョの重量感を持ちつつ、生命力ある推進力をも兼ね備えた演奏を、大曲全体を見通したテンポ設定によって実現したのだ。第1主題部の、平野花子ら2台のハープと弦楽器の天国的合奏は、1音ごとに歌い直すスタイルの演奏ではなく、4小節間を一つの流れを持った歌として滔々と流すスタイルをとり、ここでも推進力を感じさせる。フレーズの収めはたっぷりと引き伸ばし、これによっても音楽の流れを作り出す。第2主題部は今日の演奏の白眉。近藤浩志率いるチェロの温かい歌が、「君の人生は間違っていない」と言うかのような肯定的な承認を与えてくれる。ブルックナーを聴く意義はここにあると言っても過言ではない。第1主題からこの第2主題へと至る部分の説得力ある流れは圧巻。蒲生絢子(2番ホルン)のソロ、田野倉雅秋・力武千幸・鈴木玲子によるヴァイオリン・ソロはいずれも、無からいつの間にか始まって音楽の生命を大きく醸成する。これを受けた金井のクラリネット・ソロが、クレッシェンド気味に存在感を増しながら降臨してくると、リテヌート気味に丁寧に藤原のテノール・テユーバへと受け渡す。ここでも藤原は父性(父を早くに喪ったブルックナーにとっては、おそらく神性と同義)を体現したかのような包容力と存在感を実現していた。また、ハースが初稿から引用したフレーズは、躍動感を持って演奏され、クライマックスでの躍動的な表現をさりげなく予告していた。ハース版を使う意義をしっかりと感じさせる演奏だ。そのクライマックスでは、大音響なのに他の楽器をかき消さないという大フィルのティンパニの伝統を堀内吉昌がしっかりと継承していた。そして最後のヴァーグナー・テューバ合奏は、第1楽章再後のヴィオラと同様、全体にブレンドされるようにして溶けていった。

 フィナーレは特に展開部が圧巻で、とりわけ印象的だったのは練習番号Lの下降音型。9番第3楽章の、奇しくも練習番号Lのような滋味深さを感じさせる。弦・木管の音色はもちろん、福田えりみ率いるトロンボーン・セクションの音色が神々しい。神の降臨を思わせるこの場面では、やはりヴァーグナー・テューバではなくトロンボーンを使わなければならないのだ、ということを認識させられた。そして、第1主題の再現では、管楽器の主旋律以上にヴァイオリンの激しい下降音型を際立たせる。滋味深い下降音型が、力強く変貌した姿だということだろう。また、第3主題が再現される直前では、ハース版にしかないフレーズが不穏な雰囲気を醸し出し、コーダの悲劇性を予告した。ここでもハース版を使う意義を感じさせた。尾高が以前、NHK響でハース版を演奏した際には、この箇所でフルートが大崩壊していた。尾高は大阪フィルという理想的なオーケストラを得て、ようやく自らが目指す演奏を実現したと言えるだろう。コーダでは、ホルンによるスケルツォ主題の回想を、アシスタントの安土真弓(名古屋フィル首席)も加わった5人のベル・アップで強調。最後を飾るトランペットのスケルツォ主題へと見事に繋げた。最後はしっかりとリテヌートで引き伸ばされ、遠大な視座によって長大な流れを実現した今日の演奏にふさわしい締めくくりとなった。

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2018年03月31日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2018.3.31

飯守泰次郎と関西フィルのブルックナー・ツィクルスもついに8番まで来た。

今日の演奏の第一印象は、各セクション・各奏者それぞれの発する音に生命力があったこと。作品が巨大な一つの生命体になるのではなく、各音がそれぞれ生命体となっており、そうした多様な生命の集まりによって活力あふれる社会のような作品が出来上がっていたという印象だ。最近(特にシャルク改訂版の5番を聴いて以降)、僕がとみに思うのは、オーケストレイションが簡潔なブルックナーの管弦楽曲は、各奏者に求められる自発的表現の比重が大きく、奏者一人一人が生き生きとした表現を前面に出す必要があるということだ。シャルクら弟子による改訂版では各楽器が複雑に絡み合ったオーケストレイションがなされているため、奏者は巨大なオーケストラの構成部品の一つに徹することが求められており、自発的表現をする余地は少ない。今日の演奏では、ブルックナーの原典版(今日はノーヴァクの第2稿による)にこそ求められる生命力が、見事に前面に出ていた。故・宇野功芳がしばしば使った「切れば血の出るような」という誉め言葉はこのような演奏に使うのだろう。そうした自発性の行き過ぎと、決してテクニカルではない飯守の棒のため、テンポが変化する箇所では各セクションが弩派手にズレることがしばしばあった。しかしそうしたズレは、「小さな傷でしかなかった」どころか、むしろ、今日の演奏に好印象をもたらす魅力の一つでさえあるように思われた。このズレは、多彩で個性豊か生命たちが、形式の枠からはみ出さんばかりに動きつつ巨大な作品に結実するという、ブルックナーの豪放な個性の発露と感じられたからだ。「オーケストラのオーヴァー・クオリティーはブルックナーにはマイナス」という金子建志先生の言葉が実によくあてはまる。

また、飯守のブルックナーは、動的なテンポ変化と、フレーズの切りの鋭さも個性の一つである。

ブルックナーの場合、テンポ変化の大きい演奏をすると前後の脈絡のつながりが無くなったり、主題がねじ曲がって不格好になったりする危険性が伴うが、ヴァーグナーの第一人者である飯守は説得力のあるテンポ変化はお手の物。象徴的だったのが、フィナーレの第2主題から第3主題への受け渡し。第2主題を締めくくる中山直音のティンパニが、突然、快速テンポになって走り出す。「えっ?」と思ったのも束の間、中山が示したそのスピード感で第3主題が走りだした。飯守は譜面台を置かずに完全に暗譜で指揮。音楽の動きが完全に血肉になっていたのだろう。

あるいはフレーズの切りの鋭さ。これによって、対置されたブロックの個性の違いが一層鮮明になる。例えば第3楽章でTに入る部分の天国的幸福感はその直前を鋭く切っていたからこそだ。あるいは終楽章第2主題提示部での鳥のさえずり。歌い出す河本朋美(フルート)も、それに答える梅本貴子(クラリネット)も、鋭く歌い切ることで、かえって冷徹な自然描写になっていた。てっきり飯守の指示で鋭く切っていたのかと思っていたが、演奏後に梅本に確認したところ、この箇所に飯守からの指示はなく、2人とも自発的にこのような表現をしたとのことであった。飯守の求める音楽が関フィルに根付いていることの表れだろう。すばらしい。

そして何と言っても、飯守ならではの響きの音質が素晴らしい。木綿のような音質と言ったらよいのだろうか?どこかザラつきを感じさせる枯れた響きであるが、それがむしろ心地好く、温かみを感じさせる。飯守はブルックナーに限らず、ヴァーグナーでもスメタナでも同じように木綿の質感を持った音を出すが、ブルックナーの場合は、この音質が、音楽の温かさや親近感につながっていくのだ。宇宙が鳴動するような場面も、神が怒りの雷を落とす場面もあるが、最後に心に残るのは、明るい農村で生まれ育った純朴なアントンおじさんの温かい音楽、という印象なのだ。たとえばフィナーレ。細分化された主題の要素が飛び交う展開部Zは、通常はその前衛性に瞠目する箇所なのに、今日は温かさに涙した。あるいは第3楽章Mの後半、簡潔な弦のアンサンブルに、2本のクラリネットが単純なロングトーンで加わる、ただそれだけの音色が、とてつもなく温かく優しく、「これこそブルックナーの音だ」と感じた(なお、この箇所は梅本も気に入っているとのことだった)。

第1楽章は形式の堅牢さを生命力のほとばしりが覆い隠すかのような感情の自由な発露が魅力的であったが、音楽の律動をしっかりと踏まえた地に足の着いた表現もぬかりがない。例えば冒頭、第1主題のトロンボーンによる反復が、1小節ごとに力を増していくように聴こえ、小節線は単なるキロポストではなく、音楽に力を与える重要な要素だ、ということを再認識させられた。あるいは第1主題の圧倒的な再現部、ホルンのリズムが支配的になる242小節目で、第1ヴァイオリンの半音階上昇をもしっかりと鳴らし、音楽に色彩感を与えていた。そして圧巻は、カタストロフィでの中山のティンパニ。地中まで突き刺さるような重い轟音で、神の鉄槌を思わせた。最後は中島悦子率いるヴィオラが明確な音色で下降音型を縁取った。

第2楽章は弦のトレモロが動的。音程が変わった瞬間に強めに弾いて色彩を明確にするのはブルックナー演奏の鉄則だが、今日の飯守は強めに弾いた瞬間にスビート・ピアノしてしまう。これによって、ブルックナーの野人性の中に、シベリウスのような夢幻性までも加わることになった。また、主部のクライマックス以上にブリッジ部分も魅力的。特に89・90小節では、増永花恵を隊長に切り込んでくる第2ヴァイオリンの上昇音型が圧倒的印象を残し、上昇音型が頻出する次の楽章への伏線となっていた。また、こうした箇所における中山のティンパニには歌を感じた。トリオでは、ハープが指定通り3台使用しているだけあって、ふくよかな立体感を出していた。

第3楽章は響きのブレンドと肉厚な立体感が良い。岩谷祐之ら3人のソロ・ヴァイオリンは野太い音色でトゥッティとよく馴染み、響きの中から立ち上がって響きの中へと帰っていくようだった。また、松田信洋率いるヴァーグナーテューバ5重奏も非常によくブレンドされていたが、ここではむしろ、それを支えるヴァイオリンのトレモロの動的な生命力の印象が強かった。そして、ハープの上昇音型を支える弦の伸ばしもまた動的。よくあるタイプの減衰型ではなく、盛り上がってから減衰するようなヴォリューム豊かな演奏だった。

フィナーレの第1主題は、第1楽章のそれと同様に、1小節ごとに力感を増していく様相が圧倒的。また、前述のように第3主題の快速ぶりが印象的だが、これは同時に、同じリズム音型による展開部のマーチも快速になることを意味する。中山の凄みのあるティンパニが快速でリードするマーチは圧倒的で、このような重厚でありながら快速でもあるマーチが演奏できるのはインバルと飯守だけではあるまいか。そして驚かされたのは最後の最後。朝比奈隆を始め多くの指揮者が倍以上のリテヌートによって下降する16分音符をたっぷり引き伸ばすのに対し、飯守はなんとマタチッチのようにイン・テンポですっ飛ばして終わったのだ。僕は朝比奈タイプの演奏の方が好みだが、今日の飯守の演奏では、「このテンポ以外に考えられない」と感じ、大いに満足した。なぜなら、このあっさりした終わり方の方が、「陽気で純朴なアントンおじさん」にふさわしいと思われたからだ。
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2018年01月27日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2018.1.19〜

 飯森範親がついに大阪でもブルックナーを指揮。オーケストラはもちろんセンチュリー響で、曲は第4交響曲(シンフォニーホール)。

 弦の編成はいつものセンチュリーのままで、第1ヴァイオリン10、コントラバス4の小ぶりな弦楽器編成。近藤陽一が小ぶりなF管テューバで吹いたこともあり、弦楽器が少人数でも管楽器とのバランスが良い(管・打楽器は補強一切なし)。そして弦楽器の配置が面白く、古典配置にしたうえに、コントラバスを舞台奥(金管の後ろ)に一列横隊に並べる。そのため、ティンパニはシモテ雛壇下に陣取る。ホルンもシモテで、音域が近いチェロと至近で合理的(しかし、逆に敢えてチェロと逆のカミテに配してステレオ効果を狙っても面白かったかもしれない)。この配置が見事に生きて、少人数の弦楽器にもかかわらず、管の音色を弦の艶やかな響きでくるみ込む芳醇なブルックナー・サウンドを、小規模オーケストラならではの透明感も備えながら実現した。至近に陣取ったコントラバスとトロンボーン・テューバの一体化した響きやアンサンブルも良い。対向配置のヴァイオリンは、とりわけフィナーレでオーケストレイションの面白さを際立たせる。

 飯森の解釈は、ロマン派的に大きくうねる動的なテンポ変化を程好くつけながらも、バロック的に角の立った硬質な音で要所を締める。そればかりでなく、つぶやきのような極限のピアニシモをも織り交ぜ、前衛音楽のように慄然とさせるイメージまでも表現した。このようにして、「この音楽はどこから来たのか?いつの時代の物なのか?」という平野昭の言葉を髣髴とさせる、時代を超越したブルックナーの異能ぶりを存分に感じさせる演奏となった。また、各フレーズの終わりをテヌート気味にしっかりと粘り強く鳴らしていたのも印象的で、都会的ではない土に根差した力強さを感じさせた。楽員の話では、飯森がオルガン的音響をイメージして求めたことだそうだ。

 版は「ハース版とノーヴァク版の良い所を混ぜる」という、意味不明の予告がなされていたが、何のことはない、聴いてみたら単なるノーヴァク版だった。それよりもむしろ、飯森独自の改変の方が印象的だ。第1楽章のKの冒頭で、トランペットが楽譜には無い高音を吹いて「あれっ?」と感じた。終演後に首席トランペットの小曲俊之に確認したところ、飯森の指示だとのこと。飯森の目的は恐らく、ブロックの締めくくりの終結感を弱めようとしたのだろう。原典通りだと、音楽のブロックが下降音型によって締めくくられるので、まるで曲が終わったかのような落ち着きを感じさせる。終わっても終わっても音楽が再生する、というのがブルックナーの特徴ではあるが、ブルックナー自身も、あまりに終結感が強くならないよう改変することがあった。例えば8番アダージョの最後のホルンは、初稿では下降音型で落ち着いて収束するが、第2稿では次の楽章への展開を期待させる上昇音型で終わっている。ブルックナー自身が試みた試行錯誤を、飯森が追体験していると言えよう。実際この部分では、次なる天国的コラールに向けて音楽のボールを放り投げているように感じられた。ちなみにコラールは、フレーズを締めくくるホルンの豪放な鳴りっぷりと、丸山奏がパワフルに牽引するヴィオラが相まって、動的で生命力のある表現だった。

 第2楽章もヴィオラのパート・ソロが秀逸。長いフレーズをそのまま弾くのではなく、一つのフレーズの中に見える陰と陽をしっかりと弾き分けていた。これは、前述したような、異なるスタイルを併呑した今日の飯森のスタイルを体現したものと言える。また、ホルンをはじめとする前衛的な和音の色彩感がこの楽章で特に生かされていた。

 スケルツォは、終結近くのトランペットのポリリズムなど、前衛音楽的側面が強調され、まるで未来から来た音楽のように感じられた。また、この楽章では嬉しいボウイングが見られた。トランペットとホルン・トロンボーンの掛け合い部分での、トランペットを支えるヴァイオリンのトレモロ。このトレモロの最後をアップ・ボウで締めくくったのだ。児玉宏/大阪響がこのボウイングを取って以来、気にするようになったのだが、今日、久々にこのボウイングで聴く(見る)と、音楽のボールを勢いよく次に向かって投げているように感じられた。つまり、第1楽章におけるトランペットの独自改変と同じ、一貫した飯森のスタイルがこのボウイングに表れているのだ。実際これは飯森の肝煎りのようで、サインをもらう時にこのボウイングが良かった旨を伝えると、飯森は相好を崩して喜んでいた。

フィナーレでもボウイングの面白さに魅了された。ほとんどの楽団が守ってくれない、ブルックナー指定の連続ダウン・ボウを、飯森は期待通り順守。それに加えて、ダウン・ボウの指示の無い音符は逆に徹底した返し弓で演奏し、音の粘り強い連続性を強調。ロマン派的な濃厚な流れを持ったフレーズが、バロック音楽的な鋭い音の打ち込みによって締めくくられる、という、時代を超越した破格の表現になった。
posted by ちぇろぱんだ at 14:33| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする