2017年11月18日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2017.11.08〜

 ハンヌ・リントゥが都響でシベリウスの『クッレルヴォ』を演奏(東京文化会館)。これは大事件だ。クッレルヴォは、フィロムジカが関西初演した作品で、フィロムジカ史上最も輝かしい業績の一つである。そしてリントゥは、今最も注目すべきシベリウス指揮者だ。会場は開演前から異様な熱気に包まれ、フィンランドから来たポリテク男声合唱団が入場を始めた時点から拍手が起きた。
 リントゥは登壇するなりほとんど間を置かず、まるで熱愛する作品を早く始めたくてたまらないかのように指揮し始めた。
 冒頭は1小節ごとに1拍目を強く打ち込んではすぐに抜く動的な表現。それが低弦、セカンド、と、どんどん重なっていき、動的なエネルギーが瞬く間に厚く深くなっていく。もうこの音を聴いただけで涙が溢れ出た。かなり押せ押せのテンポで、こう速いとオーボエの刻みが不安になるものだが、鷹栖美恵子と南方総子のオーボエは流石、完璧なのは当然で、そこに物寂しさや侘しさまでも醸し出されていた。山本知重率いるヴァイオリンはこの曲に非常に多い装飾音符を艶やかに色彩豊かにしっかりと聴かせる。この装飾音符が『カレワラ』のそこかしこに登場する乙女たちのように生気が溢れており、暗鬱としたこの楽章の中で光を放っていた。それにしても都響の弦の響きは瑞々しい。ついぞ聴けなかった渡辺暁雄の音はきっとこのような音だったのだろうと想像する。また、管打も、この曲の響きを作るうえで重要となる三界秀実のクラリネット、西條貴人のホルン、安藤芳広のティンパニが、いずれも骨太で肉厚の音色で、しっかりとした音の骨格をなしていた。また、木管や弦のトリルがしっかりした存在感を発揮して、自然の中に内在する恐ろしさのような雰囲気を出していた。
 第2楽章も勿論、陰鬱な音楽の中を吹き荒れる、リントゥらしい心象の中の嵐がすごい。しかしそれ以上に印象的だったのは中間部などに聴かれる一瞬で消えてしまう健康的な明るさ。悪いことしかなかった青春とは言え、クッレルヴォにも青年ならではの輝かしさがあったのだ、と感じさせ、それが一層悲しみを増幅させる。
 第3楽章は、清水先生とは逆に冒頭3小節の1拍目を強拍としてはっきり強調し、第1楽章から続く動的な印象をここでも刻印した。西川圭子のトライアングルは木目細かく節度ある煌めきを放っており、巻き上がる雪質の細かさまでも見えるようだった。そして店村眞積率いるヴィオラの激しい動きに圧倒される。厚く密度の高い雪煙が巻き上がっているようだ。驚かされたのは柳原祐介のフルートと小池郁江のピッコロの2重奏。珍しいことに、楽譜通りに演奏していた。ピッコロの音が低く記譜されているのでほとんどの演奏がピッコロをオクターヴ上げて吹くものだが、今日、小池は楽譜通りの低い音域で吹いた。そうするとピッコロがフルートの音色に埋もれる部分が所々に出て来るが、それがかえって良かったのだ! フルートとピッコロがブレンドされた音色が実に瑞々しく、そして、その中から時折頭を突き出すピッコロ独自の音色の物寂しさがかえって強調された。やはりシベリウスのオリジナルは凄かった! あらゆるクッレルヴォの演奏は、オリジナル通りに演奏されるべきだ。なお、使用譜は恐らく新版で(リントゥは3分冊のスコアを入れ替えながら指揮)、旧版にしかないクラリネット音型は無かった。僕は怪鳥が悲劇を予言しているようなこのクラリネットが好きだけど、新版による今日の演奏はこの箇所に静かな空隙が生じ、その空隙が不穏さを引き立てていた。なるほど、新版の良さも理解できた。ポリテク合唱団は静かで滑らかな歌が特に見事。この先に起こる悲劇の予兆を妖艶に歌い上げる(ちなみに、アンコールで演奏した『フィンランディア』でも静かで妖艶な表現が光っていた)。一方、フィロムジカが演奏した時に「清水スペシャル!」として特別強く合唱に絶唱させた部分は、今日のリントゥも激烈に強調(大柄なリントゥが豪快に全身で指揮するから、視覚効果も凄い!)。やはり偉大な解釈者は、細部では解釈が異なっても核心部分の表現は一致するようだ。独唱の乙女・妹役はメゾ・ソプラノのニイナ・ケイテルを起用。ソプラノが歌うのとは全く異なる落ち着きがある。しかも全体的に絶唱せずに淡々とした語り口で歌うので、かえって静かな凄みに繋がる。そんなケイテルが唯一ヴィヴラートをかけて高らかに歌ったのは、妹を冷たくつき放つ神の言葉を口真似するシーン。神の不在に対する怒りか。一方、クッレルヴォ役はバリトンのトゥオマス・プルシオ。粋がった歌い方によって、思慮の浅い青年の雰囲気を見事に描き出している。そして、両ソリストとも、演劇的なリアリティーの追及よりも音楽性を優先する均整の取れた歌いぶり。そうした中、クッレルヴォが3人目の乙女(=妹)を口説く場面は、先の2人の乙女との明らかな違いを、シベリウスの不穏な音楽を生かすことによって見事に描き出していた。そしてこの楽章終盤に、今日最大の圧巻のひとつが聴かれた。それは「総休止」だ! 妹の自殺という衝撃を、シベリウスは無音(総休止)によって描いた。その総休止をリントゥは、完全に体の動きを止めて、聴衆である僕たちが冷や汗をかきそうになるほどの永遠に続くような長い無音として描いた。こんな大胆な演奏を実現した演奏者も、その間、無音を維持した我々聴衆も、どちらも凄い! 会場が一体になって作り出した奇跡の無音だった。最後のティンパニの一打ちは、こうした過激な演奏に似つかわしく、即座にドライに消音した。
 第4楽章は終盤に行くにしたがって表現を煽り立てるが、それによって派手な音楽の奥にある虚しさが引き立ってくる。クッレルヴォの空虚な心象を見事に表現していた。
 そしてフィナーレ、例によってリントゥは冒頭小節の1拍目を強調して動きを付けるが、この楽章冒頭は前楽章にも増して自由な生命力を獲得していた。そして、この楽章の基層に第1楽章の主要要素があることを、オーケストレイションのバランスによってしっかりと示し、この大曲が首尾一貫した巨大なループを描き出していることを強調した。そして、第3楽章と同様、クッレルヴォの自殺を表現する「無音」の表現の大胆さと凄みはもはや言うまでもない。
 終演後、アンコールの『フィンランディア』が終わっても拍手が鳴りやまず、ポリテク合唱団の最後の一人が退場するまで拍手が続くという、東京では珍しい光景が見られたのも、今日の演奏の凄さを示していた。
 この記念碑的名演を聴いて、改めて確信した。『クッレルヴォ』は紛れもなく傑作だ。それも、シベリウスの最高傑作群の一つに必ず加えるべき大傑作だ。この大傑作をシベリウスはなぜ自ら封印したのか。それも分かったような気がした。少なくとも『カレワラ』の「物語」を描いた音楽のジャンルにおいて、シベリウスは『クッレルヴォ』を超えるものは書けなかった。シベリウスにとって、青年時代の異様な興奮に突き上げられて書いたこの奇跡の作品は、自らに枷をかけるような「越えられない壁」になってしまったのではないか。『クッレルヴォ』を自ら封印することで、それを超える作品を書こうと自己を鼓舞し続けたのではなかろうか。これは、30年間の格闘の末、ついに完成に至らなかった第8交響曲作曲と同様の、シベリウスの畏怖すべき自己への厳しさがもたらしたものなのだろう。シベリウスは、交響曲という抽象的な音楽の世界で類を見ない独自性をぐいぐいと伸ばしつつも、『伝説』など『カレワラ』の「物語」にちなんだ作品を書き続けた。しかしいずれも『クッレルヴォ』の興奮には及ばない。結局シベリウスは、『カレワラ』の中の普遍的神ともいうべきタピオに焦点を当てることによって、ようやくこの枷を外すことに至ったのだ。僕にはそう思われた。
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2017年11月14日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2017.10.19〜

藤岡幸男が関西フィルとシベリウスの5番を演奏。
 シベリウスに限らず、藤岡の魅力はスコアの読みの深さと、それに加えて、四方八方から次々と噴出するような音楽の生命力である。今日のシベリウス5番は、作品と藤岡のそうした個性が見事に一体となった稀有な名演だった。
 第1楽章前半ではシベリウス独特の妖艶な暗い音楽が深々と描かれるが、そうした中でも、管楽器群の中での生命力の交錯、客演コンサートマスター近藤薫が轟然と率いる弦の刻みの慄然とさせられるような恐ろしいほどの生命力など、常に荒れ狂う生命のエネルギーが前面に出ている。第1楽章後半では、白水大介のトランペット・ソロが先陣を切って、この生命力の荒々しさが一層過激な嵐となる。そうした中にあって、梅本貴子のクラリネットなど、何でも無さそうな単調な動きの中に大自然から発せられた警句のような凄みを感じさせる。また、室内楽的な経過句はまるで前衛音楽のような抽象的不思議さを強調していたが、それが見事な流れにはまっているのだ。最後はトランペットの主旋律以上にホルンの律動的な打ち込みが強調され、危険なほどの高揚を持った生命力が炸裂した。
 第2楽章はたっぷりと楽章の間を取って演奏。第1楽章が終わった後のホールの空間に残る生命の余韻を、時間をかけて楽しみ、次なる生命が新たに湧き上がってくるのを待ってから再開したかのように思われた。多様に変化する曲の各ブロックを、大胆なテンポ変化や強弱の対比によって、それらの違いをよりいっそう強調する。しかし驚くべきことに、そうした異なる音楽のブロックが、ツギハギ的印象を全く与えず、あるべき音楽の流れとして実に自然に感じられたことだ。佛田亜希子のオーボエは最後のスタッカートをゆったりと余韻を残すように柔らかく切る。僕は、ビックリさせるように突然短く切り、そのままフィナーレに突入するスタイルも好きだが、今日の演奏はこのスタイルで良い。藤岡はここでも楽章間をたっぷり休んでいたからだ。その間も藤岡は、フィナーレのテンポを示すように浮き浮きと体を動かしていた。いや、テンポを示していたというよりも、湧き上がってくるフィナーレの生命力の感触を、始まる前から楽しんでいるかのようだった。
 果たしてフィナーレは、中島悦子率いるヴィオラが刻みの中にはっきりとした旋律の動きを野太く示し、分厚い生命力の層を冒頭から全開した。弦のスビート・フォルテが圧倒的で、そこでさらに生命力のパワーが上がる。驚くことに、そうした極端な変化を随所でしているのにもかかわらず、音楽の流れには一貫したものがあり、散漫な印象を全く与えない。ホルン動機と、木管によるベートーベン風の歌、そして弦の美しいロングトーンが重なる部分は、それぞれから生命力が噴出する藤岡の特性が最も良く作用した。終盤はフィンランドの分厚い雲が垂れ込めたような鉛色の重厚な響きとなる。底抜けに明るい響きを予想していた僕としては嬉しい驚き。そして圧巻は終結。どんなに優れた演奏でも、ゲネラル・パウゼで音楽の流れが切れてしまうのは避けられない。しかし今日は音楽が流れていたのだ! 雲から湖に至るまで、空気全体に充満していた生命のエネルギーが、ゲネラル・パウゼの間も力を放ち続けているようで、それが休符の中の音楽の推進力になっていた。
 偉大なシベリウス演奏家は世界に大勢いるが、皆、異なる個性を誇る。交響曲全曲を聴いた指揮者だけを思い出してみても、圧倒的な推進力を誇るネーメ・ヤルヴィ、静謐さと独創的な解釈が印象的なヴァンスカ、北欧のイメージ通りの清澄な透明感と細い線が魅力のインキネン、内面に不穏なざわめきを抱えたリントゥなど、それぞれ全く異なる解釈であり、それぞれが素晴らしい。「生命力が輝く藤岡のシベリウス」もそうした偉大で個性的なシベリウス演奏家の列に加わったと感じた。
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2017年10月28日

遠藤啓輔のコンサート日記 〜2017.09.25

 ブルックナーの墓所であるサンクト・フローリアンでミュンヘン・フィルがブルックナーを演奏。指揮は先日に続いてゲルギエフ。開演前に、聖堂入り口にあるブルックナーの墓標に手を当て、年明けに序曲を演奏する旨を報告し、演奏の成功を願った。
 1曲目は交響曲第1番。聴いているうちにリンツ稿を使用していると判明。冒頭の刻みから重々しく、トゥッティになると天井画に描かれた劇的な世界が音になったような威厳が吹き荒れる。こうして聖堂内で聴いてみると、1番は最も宗教的厳粛さに満ちた作品であるような気がしてきた。第2楽章や、トリオ、第4楽章の展開部の一部など、広大な農村風景がちらつくが、基本的に聖堂内の厳めしさで曲が成り立っているように思われた。また、特にヴァイオリンによるリズム音型が音楽の背骨としてがっちりと作品を締めているのも印象的だった。合わせにくい聖堂内で、コンサートマスターが体で巨大オケを引っ張っていた、ということもあろうが、やはりリズムと弦楽器がブルックナーの骨格であることは再認識すべきだろう。前述の田園風景的部分でさえ、ヴァイオリンを中心とする弦の刻みが厳格な骨格をなしており、単なる柔和な表現とは一線を画した独特な音楽となっていた。
音響的にはフルートの響きが良く立ち、無垢な神聖さが引き立ったのが印象的だ。第2楽章のフルート3重奏の透明で穢れの無い美しさはもちろん、トゥッティの大音響の中でもフルートが高いところで舞っているのが見える。天井画の中で、嵐のような雲に隠れて、その上に天使がいるかのようだ。
 テンポ設定で驚かされたのはスケルツォ主部。先日の4番とは打って変わって、今日は猛スピードで押しまくる。残響が長く、横に狭いためにステージ上の配置も難しい(第1ヴァイオリンは4プルトで折り曲げていた)聖堂は、アンサンブルがしづらいが、その困難を敢えて押し通して凄まじい音世界を作ろうとしているようだ。結果、農民の踊りに例えられるこの楽章が、第1楽章などと同様の壁画的厳粛な世界に聴こえてきた。主旋律を担当する第2ヴァイオリンが、古典配置のため、第1ヴァイオリンとは異なる暗めの音色で聴こえるのも良い。
 また、先日の4番でもそうだったが、同じ音楽要素が再現されるたびに、基本テンポを微妙に上げ下げして、高揚感を(節度を持って)あおり立てたり、堂々たる重量感を演出したりしたのも印象的だった。

 2曲目は交響曲第3番。最終稿を使用していたと判断できた。序奏部分はトランペットも含めて、聖堂内の様々な天使たちが方々から発する楽器の音が模糊として集まりながら形を徐々に作り上げていくように感じられた。この非凡な音響を、楽譜を見ただけでイメージしたヴァーグナーはやはり偉大だ。
 3番は1番に比べてずっと田園的風景を思わせる要素が増えている。しかし、基層はやはり聖堂的厳格さにあるので、聖堂の壁が透けて柱越しに周囲の田園風景が見えるような、稀有な音楽体験ができた。
 第1楽章などに聴かれる、最終稿独特の(どうも好きになれない)トランペットの旋律も、こうして聖堂内で聴くと、上空の天使のトランペットが吹いているように聴こえて趣深い。壮大な壁画や天井画に囲まれた聖堂内で聴くには、旋律線が豊かになってストーリーを仮託しやすくなった改訂稿の方がより合うのかもしれない。ただし、初稿主義者の僕としては、前衛的音響が爆発する初稿こそブルックナーの異能が現れていると信じる。この壮麗な聖堂の素晴らしさを、さらに超えた異次元のところにブルックナーの凄さがあるということか。
 とりわけ感銘を受けたのは、やはり第2楽章。合わせにくい聖堂内では怒涛のシンコペーションが凄い状態になったが、この厳密には合わせ難い音響のカオスが、木漏れ日が明滅するような自然の風景に思われた。同時に、これをさらに微細にしたのがチェリビダッケ・トレモロなのではないか、と合点がいった。なお、ホルンの美音を吹いていたのは、まさかとは思ったが4番のソロを吹いたのと同一人物だった(前半の1番も当然のように首席を吹いていた)。ミュンヘン・フィルのホルン首席には怪物が就任する伝統があるようだ。
 逆に、同じシンコペーションでも、フィナーレ第3主題は全く逆の印象。聖堂内の反響のようだ、と形容されるこのシンコペーションが、本当に聖堂内で聴いたらどうなるのか、と戦々恐々だったが、意外にもゲルギエフは、ここでは正確さ最優先で演奏。いつもは痙攣しているように右手をゆすっていてカウントが見えないゲルギエフが、まるで別人のように両腕を器用に動かして打点を的確に示した。この箇所はコンサートホールで聴くのと同じように聴こえ、今日の演奏会の中でも最も引き締まって聴こえた箇所となった。
 フィナーレ第2主題のポルカは、陽気なミュンヘンのオーケストラは相当に暴発してくれるものだろうと予想したが、意外にも聖堂に似つかわしい生真面目な表現。ただしゲルギエフは、コラールは完全に管楽器の自発性に任せ、自らはヴァイオリンに対してのみ体を使って指示を出していたので、ポルカの表現にこそこだわっていたことは明らか。
 最後は聖堂内の天使たちが吹く無数のラッパが一斉に鳴り出したようなファンファーレとなり、トランペットの主旋律を導いた。まるで今回の旅の終わりにブルックナーがくれたプレゼントのようにトランペットが鳴り響いた。

 写真はサンクト・フローリアン
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posted by ゆかもん at 23:20| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする