ブルックナー交響曲第8番の初稿演奏、こんどはNHK交響楽団が、シェフのファビオ・ルイジの指揮で敢行した(2024年9月14日。NHKホール)。
ルイジはテンポ変化がほとんど書かれていない初稿の楽譜を、「テンポは演奏者に委ねられている」と解釈したのだろう。(楽譜には書かれていない)大胆なテンポ変化によって、大きな抑揚を持った音楽に仕上げていた。ブルックナーの音楽は、テンポ変化が上手くいかないと大失敗する危険がある。失敗パターンの典型は、「テンポを少しずつ煽った結果、音楽が軽薄になる」「雄大にテンポを落とそうとしたものの、ぎこちない動きになった」「テンポの前後関係の辻褄が合わない」といったことがある。しかしながらルイジは偉大で、ブルックナーの特徴に合ったテンポ変化を、確信をもって実施していた。
典型がスケルツォ主部。ブルックナーのスケルツォは、スケルツォ主部の中にも中間部的なブロックがあるが、そのブロックを別世界的に遅いテンポで演奏。冒頭の音型が回帰すると、最初の速いテンポにすぐに切り替えたのだ。ブルックナーのスケルツォ(特に初稿)は4小節単位のメトリークでできており、これを無視して少しづつテンポ変化すると、音楽がぎこちなくなる。今日のルイジのように、メトリークの変換点でスパッとテンポを切り替えた方が、ブルックナーの音楽が生きる。なお、スケルツォ楽章では、休んでいる筈のヴァーグナーテューバ奏者がホルンに持ち替えて、アシスタントとして演奏に加わっていた。しかも、1~4番ホルンとかなり細かく演奏箇所を分担するこだわり。ルイジがこの楽章に特別な思いを持っていることをうかがわせた。
また複雑な構造を持った第4楽章でもテンポによる整理が光った。第3主題部をかなり速いテンポで突き進み、同じ伴奏音型を持つ展開部の行進曲風部分も、同様の速いテンポを取った。これは初稿演奏の開拓者・インバルと同じ解釈で、「同じ要素を持つ部分を同じテンポで演奏する」という説得力がある。
初稿だからこその美しさは、特に第1楽章において光っていた。ルイジは、その身振りからも、この楽章が「歌に満ちた美しい楽章」であることを前面に出していたと思われる。ティンパニを限定的にしか使わない初稿独特のオーケストレイションが、これを裏打ちする。硬質なティンパニによって隈取られた逞しい音楽、というイメージは、第2稿がもたらしたものなのだ。なお、やはり初稿独特の静かで長大な展開部も印象的だった。第2主題由来の弦楽器の背後で静かに蠢く木管の動きが、まるで雅楽のような神秘性を持っており、ブルックナーの前衛性に慄然とさせられた。
ルイジの個性的解釈が全体的に印象的だった中、第3楽章は極端なテンポを取ることはなく、端正に表現した。特に、各フレーズがしっとりと収められていたのが良い。ただ、ハープが中途半端に2台しか用いられなかったのは残念だ。広島交響楽団といい、先週の東京シティ・フィルといい、ブルックナーの指示通りハープを3台使用し「三位一体」を視覚的にも実現する演奏が、最近のプロ・オーケストラでは一般化したと思っていたのだが。N響ほどのオーケストラがこのような人数縮減をするのは、文字通り見劣りがする。
楽器配置は両ヴァイオリンを並べ、ヴィオラをカミテ外側に出すN響の通常配置で、新鮮味はない。対照的に興味深かったのは金管の配置。ホルン・ヴァーグナーテューバをシモテに配し、直管は一列に並べて、カミテにトランペットを置く。これは、コントラバステューバを、トロンボーンとヴァーグナーテューバの間に置き、双方のベースラインとなりやすいように、との配慮だろう。結果として、トロンボーンが舞台の奥中央に陣取ることになり、神聖な楽器としての存在感が際立った。とりわけ、トリオの要所で神聖な響きを造る初稿独特のオーケストレイションが生きた。また、テューバ5人が一箇所に集まったことで、舞台左奥の高所からテューバの和声が降り注いでくるような効果があった。
今日の演奏の最大の見せ場は、全曲の最後。トランペットのファンファーレが1本ずつ数を増やすのと比例して増していく幸福感は、長く充実した散歩の末に故郷に帰り着いたかのような晴れがましさがあった。これは、長い散歩のような全曲の演奏が充実していたことの証左に他ならない。