2024年09月16日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024年9月6日)

 フィロムジカの歴史の中でも、28回定期でブルックナー交響曲第8番の初稿を演奏したことは特筆すべき偉業だと自負するが、( https://www.kyotophilo.com/pamphlet/pamphlet28.pdf )それから14年(も)経って、プロのオーケストラが初稿をたて続けに演奏する時代が(ようやく)来てくれた。

 96日は、最も研究熱心なブルックナー指揮者・高関健が、手兵の東京シティ・フィルの定期演奏会で、このブルックナー交響曲第8番の初稿を演奏した(オペラシティ・武満メモリアル)。期待通り、いや、期待を遥かに上回る、この曲の魅力を存分に伝える名演がなされた。


 全体の特徴としてまず指摘できるのは、保続音(トレモロも含む)と、その積み重ねである和声の響きが存在感を持っていたこと。初稿の特徴の一つは「空隙の多さ」である(曲が始まってすぐ、木管の「合の手」が無いのが典型)。そして今日の演奏では、空隙があることで、かえって全体を満たす「響きの空気」の魅力が味わえたのだ。

 また、特に第2楽章以降では、ティンパニのトレモロによる保続音の存在感があった。このようにティンパニの良い音を聞くと、第1楽章にほとんどティンパニが使われていなかったことの印象が、後から思い出されてくる。第1楽章は、堅牢に見えつつも、ティンパニがほとんど使われていないことによる軽快さをも持ち合わせているのだ。ヘルマン・レーヴィが初稿を批判した理由の一つに「7番と似すぎている」「楽器使用方法の問題」があったらしいが、それはティンパニの抑制的な使い方を指しているのかもしれない。

 そして、保続音重視の極めつけは、全曲の最後だ。第2稿ではチェロ・ベースも主旋律を弾いているのに対し、この初稿では、旋律を演奏するのは管楽器だけで、弦楽器は分散和音と保続音しか演奏していない。それが良い! この曲の骨格であり主役は、保続音であり和声であるのだ、ということが、徹頭徹尾、明瞭に示されたからだ。


 また、この曲は前打音のような鋭いリズムを伴う主題が冒頭から提示されるが、そのリズムによって全曲がまとめられていることをわかりやすく示していた。第2稿ではカットされた、第1楽章最後の大音量のコーダの終盤で、前打音付きのリズムが低音楽器によって打ち込まれるのを強調。そして第2楽章では、スケルツォ主部の(やはり第2稿ではカットされた)最後のひとフレーズで、やはり前打音付きのリズムを打ち込むトロンボーンを強調した。これらは、全曲の最後における、前打音付きのリズムの連続へと収斂していくのである。また第3楽章では、この前打音付きリズムで構成される第1楽章第1主題がホルンで再現される場面が印象的である。こうして、特徴的なリズムによって全曲が一貫性を持っていることが見事に示された。ちなみに第3楽章は、狭い幅でうねるように上下するフレーズが第2楽章と共通性を持っている。つまり、1楽章だけでなく第2楽章をも回想していると言える。仮に第8交響曲のフィナーレが完成されなかったとしても、「全楽章の集大成感があるアダージョで終わる交響曲」として普及するものと想像できる。僕はつまり、「9番のアダージョに集大成感があるからと言って、9番に第4楽章が不要だ、ということにはならない」と言いたいのだが。


 高関の良い意味で淡々とした指揮は、この大曲の「或る一瞬が見せ場となる」ような印象は残さない。ブルックナーの指示通りハープを3台用い、打楽器が炸裂するアダージョ楽章の頂点も、壮大な景色ではあるが飽くまでも散歩道の通過点、という印象を受けた。3発ずつ打たれるシンバルがミサの開始を思わせるところもあり、(信心深いブルックナーにとって)特別ではない日常風景の一部、と思わせる親しみやすさがあった。

 一方で、各楽章の個性がシンプルに表現し分けられていた。第1楽章は、保続音がメトリークごとに少しずつ上昇していく様子が強調されていたので、全体として「上に向かう」印象を与える。対して第2楽章は、冒頭からの下降音型が印象的な「下に向かう」音楽だ。第3楽章は天国的な上昇音型が印象的で「上に向かう」音楽が戻ってくる。終楽章はもちろん、上昇と下降が入り混じった複雑な様相を呈する。このように、大曲でありながらもわずか4つの楽章で構成される、その意味がしっかり分かる演奏であった。


 そのほか印象的だったこととしては、スケルツォ主部の遅めのテンポ設定が挙げられる。これは、トリオのテンポから逆算した結果ではないか、と邪推する。初稿のトリオは、第2稿とは異なり、スケルツォ主部と同じアレグロ・モデラートが指定されている。これを厳密に実現しようとすると、スケルツォ主部を遅めにする必要が出てくるのだ。遅いテンポの効用として、スケルツォ主部における、アウフタクトから始まるリズムと前打音付きリズムの衝突の面白さが、明瞭に聴かれた。ブルックナーはこの楽章で、オン・ザ・ビートの前打音とアウフタクトを明瞭に書き分けているが、あまりにもテンポが速いとそれらがほとんど同じになってしまうだろう。また、初稿に特徴的な、スケルツォ主部再現部のカノンが良く聞こえたのも、テンポの遅さのおかげであるが、同時に、高関がお得意の「ホルンと木管のベルアップ」によってポリフォニーを視覚的にも強化した成果でもある。ただし、欲を言えば、トリオの中央(つまり楽章の中央)のラングザムは、思い切り遅いテンポにしてほしかった。

 そして何と言っても、楽器の配置が良かった。弦楽器はヴィオラをシモテに配する変則的な古典配置。今日のように第2ヴァイオリンがカミテに来ると、音が客席とは逆方向に飛ぶことで、第1ヴァイオリンと明瞭な音色の違いが生じる。ブルックナーはその効果を狙って書いていると思う。今日は、第2ヴァイオリンの控えめな主旋律をきらびやかな第1ヴァイオリンの装飾が彩るアダージョ楽章のほか、初稿では天国的な長さを持っている第4楽章提示部第2主題での第2ヴァイオリンのトリルでも、奥ゆかしい音色を聴かせてくれた。

 そしてヴィオラが、音が良く届くシモテに来たのも良かった。天国的な第4楽章提示部第2主題での上昇音型のほか、アダージョ楽章第2主題部でチェロの主旋律に寄り添う福旋律などで、「この場所のヴィオラはこれほどまでに温かい効果を出していたのか!」と驚かされた。

 また、ヴァーグナー・テューバとコントラバステューバは、シモテとカミテに分かれて座っていた。演奏する側としてはアンサンブルが難しいと思うが、和声が見事に決まれば、舞台の端から端までを広々と響きで満たすような効果を出すことができる。今日も、東京都内に限れば屈指の音響を誇る武満メモリアルの空間を、温かいテューバ群の響きが幸福感をもって満たした。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック