2024年01月17日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024.01.12)

 首席指揮者の飯森範親が日本センチュリー交響楽団を指揮して、傑作2曲をカプリングした垂涎の演奏会を敢行(2024.01.12、シンフォニーホール)。
 前半はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。三浦文彰の独奏はとりわけ、遅く重々しい第3楽章での表現で凄みを発揮。低音の鳴りが素晴らしく、声を出さずに悲痛な訴えを伝えようとしているような寡黙な表現。快速のフィナーレでもその悲痛さは継続、行き先が地獄だと分かっているのに爆走するバスに乗せられてしまったかのような印象を受けた。オーケストラも説得力のある表現。たとえば、第3楽章冒頭を驚くほど堂々としたフォルテで演奏していたが、この主題がフィナーレで木琴によってけたたましく叩かれた時、綿密なループが作られていることに唸らされた。
 後半はブルックナー交響曲第3番の、僕が最も愛する初稿! 初稿で聴くのは今日で7回目だが、今まで聴いた初稿演奏は快速テンポによるものが多い。初稿の前衛性をより強調しようという意図なのだろう。しかし今日の範親による初稿は、有りそうで少なかった、ゆったりとしたテンポによる穏やかな演奏スタイルだった。そして、機能的で精緻なイメージが強いセンチュリーとしては珍しく、緩やかに纏まったおおらかな演奏。センチュリーの新たな魅力を引き出した演奏としても特筆されよう。
 冒頭、ヴァイオリンの分散和音、低弦のメトロノーム、木管の保続音、そしてトランペットの旋律、という要素たちを、完璧に揃えるのではなく、それぞれ生命を持った各要素がおおらかに集まってふくよかな層を成しているような表現。このスタイルはとりわけ第1楽章の第2主題で効果を発揮し、優しく温かな印象を与えた。初稿を使用したことの効果は、宗教的雰囲気の醸成へと繋がっていた。範親が以前、1番の初稿(リンツ稿)を指揮した時、「まるで歌詞の無いミサ曲のようだ」と感じて好感を持ったが、今回も同様の好感を持った。讃美歌の詠唱、聖職者による語り、オルガンの響き、といったミサの情景、そして、聖堂の外に広がる農村風景、それらがブルックナー休止という静寂によって「繋がれている」ように感じたのだ。トロンボーンの和声にトランペット1本、ホルンの和声にトランペット1本、という取り合わせでオルガンのように保続音を伸ばす場面では、小曲俊之の明るい音色が宗教的恍惚を演出しており、今日の演奏スタイルにふさわしかった。
 名手揃いのセンチュリーだが、今日は各人の妙技の凄さよりも、それらがまとまった総合力が印象に残った。たとえば須田祥子率いるヴィオラは、複雑な副旋律をクリアに弾いていたが、それが突出して聴こえるのではなく、ポリフォニーを豊かに厚くする要素として裏方の役割を果たしていた。2楽章や4楽章に頻出するシンコペーションも、ズレが響きの厚みと音楽のおおらかさに繋がっているように感じられた。
 弦楽器が古典配置されたことでブルックナーの工夫されたオーケストレイションがしっかりと生きた。たとえば、客席と逆方向に音が飛ぶ第2ヴァイオリンが曇った音で主旋律を弾いて、第1ヴァイオリンが装飾的な音を輝かしく添える場面で、とりわけ効果が発揮された。また、コントラバスがシモテに配されたことで、第2楽章でのトリルがよりはっきりと見えて、まるで地熱が静かに沸騰しているような面白さが出ていた。
 スケルツォにおける初稿独特のトランペットの動きを荒々しく表現、これによってブルックナーの野人的な一面を引き立てていた。また、テューバを使っていないオーケストレイションの効果は、第2楽章の(初稿に特徴的な)トロンボーンによるクライマックスで発揮された。テューバを使うと、それを橋頭保としてトロンボーンの音が低弦と馴染む。逆にテューバを使わないこの曲では、宗教的な役割を背負った3本のトロンボーンの特殊性が引き立ち、第2楽章のクライマックスが宗教的荘厳さを帯びていた。
 ブルックナー指揮者数多しと言えども、宗教音楽にもしっかりと取り組む人は意外と少ない。その稀有なブルックナー指揮者の一人である飯森範親らしい3番初稿を堪能できた。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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