1曲目はヴェーベルンの『管弦楽のための6つの小品』。4管編成を超える巨大編成のオーケストラでありながら、それが大音響で鳴り響くことはほとんどなく、ごくわずかな楽器が演奏する短い動機を紡いだ短い音楽の集合による、静謐な組曲である。冒頭の篠崎孝による弱音器付トランペットを始め、あらゆる要素が疑問なくそこに存在すべき音、という印象を受けた。現代音楽を個人練習していると、はじめのうちはハチャメチャで訳が分からないと感じていても、ある程度回数を繰り返すうちに、あらゆる要素が繋がって疑問が雲散霧消するような爽快感を感じることがある。今日の演奏はまさにそのような、現代音楽を聴く醍醐味であった。
2曲目はストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』で、新古典主義の作風による合唱付きの作品。管楽器はやはり巨大編成で、2台のピアノやハープまで加わるが、弦楽器はチェロとコントラバスのみ、という特異な編成。人間の声を、チェロ・ベースでどっしりと支えた上で、ピアノやオーケストラの高音がどぎつく輝くという、幻惑させられるような音響になっていた。この曲もヴェーベルンと同様に静謐さを基調にした音楽。名匠・福島章恭の薫陶を受けた大阪フィルハーモニー合唱団は正確な和声によって、岩の聖堂の中にいるかのような冷涼で厳粛な色彩感を実現。そうした中にあって、時折入る「アレルヤ」の歌詞のみが柔らかな温かみを持っていた。透徹した美しい音楽の緊張感ある流れと、「アレルヤ」による時折のホッとする弛緩、という、硬軟のバランスが良い名演であった。合唱の見事さに感激したタバシュニクは、合唱団の前を駆け回って讃えるという茶目っ気を見せた。
後半はチャイコフスキーの交響曲第4番。冒頭の運命動機の最後を締めくくる下降音型の音程の正確さを聞いた辺りから、詰めるべきポイントを厳格に整理した演奏になるのではないかと予感させる。実際、フレーズの中のスタッカートなどの表現法の徹底など、オーケストラ全体でスタイルが見事に統一されていた。また、音量バランスも精緻で、それが説得力に繋がっていた。たとえば第1楽章のクライマックスでトロンボーンの大音響を早めにディミヌエンドさせると、そこから弦楽器による主題の再現が浮かび上がって来て、前後がつながりを持った練り上げられた構成感が見えてきた。このように押さえるべきところは厳格に押さえていたが、全体の印象は、むしろ自由奔放。即興的におこなっていると思われるルバートやフェルマータが頻出し、大フィルの楽員たちは「ほう、こう来たか!」というような笑顔を頻繁に見せていた。圧巻は第2楽章の再現部。弦楽器による第1主題を、田中玲奈(フルート)と船隈慶(クラリネット)の副旋律が彩るが、主旋律の大きなルバートと呼吸を合わせて木管の副旋律もルバートしていたのだ。このように大フィルらしい豪放な自発性を持った演奏が可能になったのも、細部を徹底して正確に詰めていたからこそだろう。また、各ブロックが明確な個性と存在感を持ちつつも、全体として大きな音楽の流れがあったのも流石だ。僕は木に竹を接いだようなフィナーレの祝祭感に疑問を持っているが、今日の演奏だと、このフィナーレも「個性を持った各ブロックの一つ」として疑問なく受け入れることができる。打楽器群の引き締まった音色もそうした演奏に寄与していて、特に堀内聖子(客演)のトライアングルの硬質な音色がオーケストラの音響の核として最後まで働いていた。