2022年02月14日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.02.10・11)

 音楽監督・尾高忠明による大阪フィルのブルックナー、今回はフィロムジカも過去に演奏した中期の巨峰・5番。雄大な後期の交響曲を濃厚に歌わせることに長けた尾高のこと、構築的な印象がある5番をも雄弁に歌わせてくれるだろうと期待したが、期待を上回る意外性をも伴って、この大曲を存分に歌わせた(2022.02.10・11。フェスティヴァル・ホール)。もちろん我らが岩井先生もご出演。

 第1楽章の序奏はやや速めのテンポ設定だが、それによって要素が複雑に絡み合った冒頭が推進力を持った一つの歌として纏まっていた。同時に、低音から高音へと順次重なっていく音たちに新鮮な印象が伴っていたのは、音それ自体が美しい大阪フィルならでは。尾高は左手の動きでアクセントを明確に強調し、流れの中にも構築的なメリハリをつける。この弦楽のみの冒頭部分を静かに納めて一つのブロックとして纏めるが、続くフル・オーケストラのフォルテをしっとりと立ち上げ、休符もイン・テンポで端正にカウントするので、序奏部全体の流れの一体感が損なわれることは無い。篠崎孝と坂本敦(客演。名古屋フィル)の1・2番トランペットも柔らかなアタックで雄大な流れの中にうまく収まっていた。
 第1主題のヴィオラ・チェロは、ブルックナーがはっきりと記入しているメッサ・ディ・ヴォーチェをしっかりと活かした演奏。いままで聴きたくても聴く機会が無かった表現が、ようやく聴けた!やはりブルックナーの基調は歌だということを再認識。第1主題をフル・オーケストラで確保する部分は軽くテンポを落として、どっしりとした安定感を出す。第2主題はさらにテンポを落とし、まるで時間が静止したかのような印象さえ受ける。そして、大フィルのピッツィカートの重厚な美しさが際立つ。しかし第3主題は一転して奔流のような流れを持つ。このようにテンポを大胆に変化させていたが、提示部と再現部の整合性が取れているので、全体として落ち着いた安定感が実現していた。展開部もブロックごとにテンポを切り替えていたが、ポリフォニックな練習番号M前後でテンポを大きく落としていたのが印象的。遅めのテンポのおかげで、複雑な綾を成す各々の糸が識別でき、音の織物をきちんとした図像として見ることができた思いがした。コーダも遅めのテンポ設定だが、これは提示部で遅めに演奏したからこその理にかなった安定感だ。さらにこのテンポによって、冒頭の伴奏が再現されていることが良く分かり、「帰ってきた!」ということを体感できた。
 また、練習番号I前後の3・1番ホルン・ソロ(藤原雄一、高橋将純)とフルート・ソロ(田中玲奈)の掛け合いは見事な弱音で演奏されたが、決して「極限のピアニシモ!」といった緊迫感は与えず、むしろおおらかさがあり、はるか遠くに美しいものが見えている、といった印象であった。(緊張感ではなく)幸福感のあるピアニシモ、は大植時代を経ての大阪フィルの見事な個性だと思う。

 第2楽章は、第1主題を3拍子系で振るのか2拍子系で振るのかも注目点だが、尾高は意外にもほとんど体を動かさず、カウント明示しない振り方だった。これによって大阪フィルらしい自発性が発揮され、さらに大森悠(オーボエ)と小林佑太朗(ファゴット)の肉厚な音色と相まって生命力を持った音楽が生まれていた。尾高と大阪フィルの双方の信頼が生み出した名場面だ。
 第2主題は期待通りの歌心が発露されていたが、中でも感銘を受けたのはホルンの刻みが加わって以降。フーガ風に次々と加わる各弦楽器がそれぞれに魅力的で、これも音それ自体が美しい大フィルならでは。さらに練習番号C以降では、宮田英恵率いる第2ヴァイオリンが分散和音を全弓で弾いて立派な音の大地を造り上げ、管楽器の主旋律を支えていた。
 この楽章は全体的にテンポが速めだったが、これによって第1主題部の再現で音たちが十字架を描いていく様相が見事に浮かび上がった。一方、第2主題の再現は、提示部とは異なる寂寥感を伴った印象で、楽章にロマン派的な深みを加えていた。
 またこの楽章では、福田えりみ率いるトロンボーン3本の和声の静謐さが印象的だった。というのも、第1楽章ではトロンボーンにテューバが加わった4本のロー・ブラスの立派な音響が印象的だったのに、第2楽章はこれとは全く異なる美感を求めていたからだ。テューバが使われていない第2楽章の、トロンボーンのみの音色美を追求した結果だと確信する。
 さらに細かな所で、ブルックナーのオーケストレイションの見事さが光った。51小節目では田中のフルートとチェ・ムンス率いる第1ヴァイオリンが、154小節目では小林のファゴットと井野辺大輔率いるヴィオラがユニゾンで演奏するが、いずれもすぐに管楽器が吹くのをやめて弦だけになる。ブルックナーの魂である弦楽器が、管楽器の鎧を脱ぎ捨てて心の中を生々しく晒したかのような印象を受けた。
 楽章の終わりは下降音型で終わる自筆譜通りの楽譜を選択。ブロックを一つ一つ丁寧に歌い収める今日の演奏スタイルにも相応しい。

 第3楽章もブロックごとのテンポをしっかりと切り替えており、簡潔さを極めた後期作品のスケルツォとは異なる、5番の複雑な魅力を堪能できた。とりわけレントラー風の舞曲のテンポ感が良い。トリオが終わってダ・カーポするときは、「この巨大なスケルツォをまたそっくりそのままもう一度聴けるんだ!」と嬉しくなった。スケルツォ再現部は、弦楽器は自筆譜通りに弾かれ(260小節目付近)、高見信行の3番トランペットにも程好い存在感があって、いずれも提示部とは違う面白さが良く出ていた。
 また、先行楽章では基本的に音の収めを長めにしてフェスティヴァル・ホールを響きで満たしていたのに対し、スケルツォの最後を軽く短めに切っていたのが印象的だった。これによって、トリオの軽快さへとうまく繋がっていた。そうして導かれたトリオは角の立った朴訥とした表現で、田舎人のパワフルなダンスという面白さが良く出ていた。

 第4楽章は、金井信之のクラリネット・ソロが鋭い演奏で、たっぷり目に歌う各楽章の回想と対照的。この意味は、クラリネット旋律(第1主題)を弦がフーガで演奏するときに明らかになった。弦のボウイングが、締めくくりの3連続ダウン・ボウだけでなく、冒頭と途中の2連続四分音符までも連続ダウン・ボウで演奏していたのだ。金井のクラリネットはこのダウン・ボウの鋭さを予告していたのである。このダウン・ボウだらけの鋭い第1主題の表現は、楽章中盤の二重フーガになってその効果が発揮された。金管のコラールが広々としたおおらかさをもって提示された後、このコラールと第1主題とで2重フーガになるが、コラールのおおらかさと第1主題の鋭さが極めて効果的に対峙され、立体的なポリフォニーになっていたのだ。
 第4楽章もテンポ設定にしっかりとした意図が感じられた。特に第2・第3主題のスピード感が印象的だったが、これによって、金管のコラールの広々としたおおらかさや、コーダのコラールの安定感を強調することになった。特に終盤は段階的に徐々にテンポを落としていき、楽章を通して音楽を巨大化していく様相が印象付けられた。
 また、第1楽章第1主題が再現する部分では、その予告をする木管の存在感が素晴らしく、この時点から「帰ってきた!」と感じさせた。
 最後は、僕たちが池田先生の指揮で演奏した時と同様、トロンボーンとホルンからトランペットへと受け継がれる太い歌の流れが強調され、今日の歌に満ちた演奏を最後まで貫徹した。フルートの上昇音型には何も小細工をしなかったが、僕には田中と増本竜士(客演。元・関西フィル首席)の音が鳩になって飛翔したのが見えたような気がした。ポリフォニックに絡み合っていた数多の音たちが最後に一体の下降音型となる様は、極大に遅くされたテンポと相まって圧倒的だった。まるで巨大な雲の威容のようだ。空隙を埋める堀内吉昌のティンパニの深々としたトレモロは、天の空気にみなぎる宇宙のエネルギーのようだった。

 初日・2日目ともに演奏後の静寂が保たれ、フェスティヴァル・ホールの巨大な空間に満たされたエネルギーに身を浸す幸福を存分に味わうことができた。
posted by かぶと at 19:24| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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