2021年03月17日

遠藤啓輔のコンサート日記(2021.03.15)

大阪フィル音楽監督の尾高忠明が東京都交響楽団を指揮(2021.03.15。サントリーホール)。

前半は武満徹の最高傑作、『系図 Family Tree』。

冒頭から音の塊が次々と湧き上がるようなカオス的な音響が強調され、創世神話的な詩の内容を音楽で見事に表現している。全体を通して分厚く包容力があり、同時に不安めいた音もある。武満サウンドを、温かくも毒があるスケール豊かなものとして描き出していた。武満の演奏スタイルには透明感を重視したものもあるが、僕は今日のようなエネルギーがみなぎるような演奏が好きだ。また、ガムラン音楽風の打楽器や、オーボエ・ダ・カッチャ風にブレンドされた管楽器など、異世界や死を連想させる音色を鮮明に引き立たせていたのも良い。一方、大田智美のアコーディオン・ソロは、足踏みオルガンのような懐かしい音色による、鼻歌のような自然体の弾き方で、母胎回帰のような優しい感情に浸ることができた。そして、尾高の音楽運びにはゆったりとした波がある。この波が、詩の最後に現れる「海」へと繋がっていった。

田幡妃菜(2005年生まれの俳優)のナレーションは過度の感情を排した淡々とした語り口。それが見事な効果を生み出す。例えば「おばあちゃんは死んだ」という深刻な詩は、無表情に語られることでかえってその悲痛さが重くのしかかる。そして、全体が淡々としているぶん、重要な場面での感情表現がかえって引き立っていた。僕がとりわけ感銘を受けたのは「お母さん」の段だ。キッチンドランカーの母親が「はい、また飲んでます」と鸚鵡返しする場面は、諦めと悲しみが混じった沈んだ言い回し。今の自分がいけないと自覚しているがどうしても改善できない、という苦しみが現れており、弱い人間への共感があった。そして「帰って来てほしい、今すぐ。泣いててもいいから、怒っててもいいから」というこの段の語り収めは、優しさに満ちていた。少女が、問題のある母親を赦す寛大な人間へと成長した姿が、この語り口に現れていた。

 「どこからか海のにおいがしてくる。でも私はきっと、海よりももっと遠くへ行ける」というクライマックスは、オーケストラ伴奏がどんどん巨大に盛り上がってほとんどナレーションを掻き消すほどだった。これは、少女が冒頭の創世神話的カオスの中へと帰っていく姿であるように感じられた。こうして彼女は、再び「生まれたり死んだり」するのだ。生命の始まりを感じさせる終わり方だった。

僕がこの曲をライヴで聴くのは8回目になるが、聴くたびに異なる感動が得られる。そして「もっと聴きたい」という思いになる。

 

 後半はフィロムジカでも演奏したエルガーの交響曲第1番。

様々に変化しながらも、全体を貫く音楽の流れがあることを感じさせる演奏。冒頭の2音を長めに引き伸ばしたところからこの流れがすでに始まり、序奏部全体が雄大な一つの丘のようなつながりを持っていた。この主題が全曲を貫くイデー・フィックスになるので、この序奏部の演奏によって全曲の一貫性が決定づけられたと言える。トランペットの岡崎耕二を始め、個性派が揃った都響は、エルガーの音楽に盛り込まれた膨大な要素を解析して客席に届けるのにうってつけだ。

 また、第2楽章の終盤に挿入された第3楽章の要素が光り輝くようで、この要素が徐々に第3楽章のアダージョへと姿を変えていくさまが実に見事だった。楽章を連結した交響曲の傑作と言えよう。そして第3楽章の終盤は、無の世界のような静謐さだが、「緊張感のある極限のピアニシモ」ではなく、「幸福感に満ちた心地よい静寂」であった。この曲最大の見せ場であるトロンボーンのシグナルも、一音一音長めに歌っており、この幸福感に良く馴染んでいた。

 フィナーレはヴァイオリンの末席ソロが実に効果的で、イデー・フィックスが幻聴のように見えないところから聞こえてくる効果を発揮した。この曲はやはりライヴで堪能すべきだ、その思いを一層強くする演奏だった。

posted by ちぇろぱんだ at 20:39| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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