2020年01月07日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2020.01.05〜

 東京ユヴェントス・フィルハーモニーの演奏会を聴く(2020.01.05。ミューザ川崎シンフォニーホール)。指揮は音楽監督の坂入健司郎。

 このコンサートの存在は、昨年9月にブルックナーの墓参りに行った際、墓所であるサンクト・フローリアン修道院の寄せ書き帳に「テ・デウムを歌うのでやって参りました。この書き込みを見た日本の方、15日はぜひ、川崎に来て下さいね!」と日本語で書かれていたのを見て知った。これを見た以上、行かないという選択肢はあり得ない。敬愛するブルックナーの墓所を参拝した者同士、舞台と客席を共有できたことを喜ばしく思う。また演奏者の中には、かつてフィロムジカで一緒にブルックナーを吹いた仲間もいた。これまた喜ばしい。

 1曲目がブルックナーの『テ・デウム』。冒頭、石丸由佳のオルガンが畏怖を覚えるほどの轟音で、ブルックナーの作曲の動機に、神への感謝と同時に怖れがあったことを想像させる。これに比べると弦の「テ・デウム音型」は柔らかな表現で、今日の演奏の基調にあった「慈しみ」が反映されていたと言って良い。声楽ソリストの重唱になってからは、声楽の旋律線をなぞる木管の存在感に意義深さを感じた。単に音程や音量の補助をしているのではなく、声楽が表現している天使たちの影が雲に映っているかのような、重要な独自の役割を演じているように思われた。そしてア・カペラになると、中庸に始まったテンポをぐっと遅くし、人間の声の美しさをじっくりと聞かせた。テ・デウムはア・カペラ部分で緊張感が萎えてしまう演奏が散見されるが、今日はむしろ逆で、「声のみの部分にこそ伝えたいことがある!」というマタイ受難曲ばりの思い入れを感じさせた。この箇所以降、じっくりと歌う遅めのテンポで固定された。合唱によるア・カペラも同様に、一層テンポを落としてじっくりと語った。

 驚かされたのは、終止線ごとに完全に棒を下ろして曲を止め、分断された5曲からなる組曲風に演奏されたことだ。テ・デウムを聴くのは恐らく今日で10公演目ぐらいになるが、このようなスタイルは初めてだ。今まで聴いたあらゆる演奏はアタッカで続けて演奏していた。確かにアタッカで演奏した方が、音楽の緊張感が持続して良い。ただし、慣習を無視してスコアを素直に読むなら、今日のようなスタイルになる筈だ。そして、遅めのテンポですべての音を慈しむように歌う今日の演奏スタイルだと、1曲ごとに丁寧に曲を止めるのもまた相応しく感じる。また教会で行われるミサは短い讃美歌と説教との繰り返しなので、今日のスタイルは本来の祈りの音楽に近いのかもしれない。

 そのきちんとした休止の後に始まったTe ergo。弦楽器古典配置のために中央に陣取ったヴィオラの刻みが、ブルックナーの表現で重要である自然体のディミヌエンドを見事に効かせる。また、テノール・ソロとヴァイオリン・ソロの天国的重奏部分は、この両者だけでなく、トゥッティのヴァイオリンによる音色の支えが美しい効果を発揮した。前述の木管もそうだが、「裏方」の見事な仕事によって全体の美しさに深みが増していた。Te ergoの再現部ともいうべきSalvum facでも、裏方である合唱の弱音が素晴らしい仕事をしていたのは同じだ。

 白眉ともいうべきフーガでは、ソプラノ合唱の安定感のある真っ直ぐな声が良い。「ブルックナーは高音こそ大切」というのが僕の持論なので、大いに感動した。またトランペットが、前面に出るわけではないが埋もれることもなく響きの核を担う、という9番アダージョを先取りしたような難しい役割を、見事に演じていた。

 そしてクライマックスである7番アダージョとの共通主題部分では、再びソプラノ合唱が見事な演奏。高音のロングトーンを、がなりたてるような声でも張り詰めた声でもない、軟らかく温かい滋味深い声で歌ったのだ。慈しみに満ちた今日の演奏にふさわしいクライマックスである。最後はソリストも合唱に加わり、平明なハ長調の和声がミューザ川崎の素晴らしい音響の中に溶け切った後も、幸福な静寂が続いた。

 

 休憩をはさんだ後半はベートーベンの交響曲第9番。ブルックナーとは対照的な推進力あふれる快速で、両者の個性を明瞭に描き分ける。中でも快速だった第1楽章では、展開部の直前とコーダの直前の2箇所のみ、とてつもなくテンポを緩めた。これによって、「提示部展開部およびそれと融合した再現部コーダ」という3部構成が明瞭になり、ブルックナーにつながる「展開部と融合した再現部」を形成した先進性が強調された。木管による提示部第2主題はベーレンライター社版に拠っていたが、提示部と再現部が全く異なるこの版を使用したことで、提示部と再現部が全く別のブロックであることを強調する意味が出たと言えよう。

 第2楽章は、弦楽器を古典配置にしたおかげで、カミテから順に弦楽器がフーガを重ねていくという視覚的面白さを味わえた。また、朝比奈隆逝去後聴く機会が少なくなったリピートをすべて遵守する演奏で、リピート愛好者の僕としては嬉しい限り。これによって回数が多くなったティンパニのソロは、ケトルを2台しか使わないシンプルなスタイルで、地に突き刺さるような見事な音色を披露してくれて感動。クライマックスは、慣習的なヴァイオリンの変更はせずに木管とヴァイオリンを交錯させるスコア通りの演奏で、これまた僕好みで嬉しかった。最後の一音はスコアの記載通りに音量を抜き、次へ続く余韻を作った。

 チューニングと、合唱団の入場に続いて、第3楽章。この曲で唯一となる遅い箇所であることを強調し、時間が静止したかのような静謐さを重視。ただし第2主題は動的で、楽章内で緩急がついている。テ・デウムで首席を吹いたホルン奏者がベートーベンでは4番ホルンを担当していたので、この楽章の鍵となるホルン・ソロが実に素晴らしく決まっていた。クライマックスの後は、第2ヴァイオリンが実に硬質な音色で金管のエコーを演じた。古典配置のおかげで音が客席と逆方向に飛ぶことになるため、エコーの効果がさらに高まっていた。

 フィナーレ冒頭は、木管を増強していたこともあって、木管の主旋律の中に隠し味的にトランペットが潜り込む理想的な音響が聞かれた。そして素晴らしかったのは低弦のレチタティーヴォ。細かな強弱がつけられ、本当に語り聞かせているように聞こえてきた。これに続く合唱主題がトランペットも加わって賑やかになったところで、ソリストが舞台に入場。楽章中に拍手が挟まるのを防ぐ手段として妥当な判断だろう。合唱主題も第1楽章同様に快速で、vor Gottのフェルマータもあっさり切り上げる。これに対してトロンボーンが響きの中核を成す部分は、ブルックナーと同様のじっくりと遅いテンポで演奏。世俗的な賑やかさと、宗教的厳粛さとを、しっかりと描き分けているようであった。この楽章のみ活躍するシンバルは、基本的に小型のものを使っていたが、オーケストラのみによるコーダでは大型のシンバルに持ち替えた。合唱と重なる部分は歌を掻き消さないように小型のものを使用したのだろう。細部にいたるまで考え抜かれた演奏だった。

posted by ちぇろぱんだ at 21:16| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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