2019年03月12日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2019.03.08

 ブルックナーの室内楽作品をすべて(と言っても一桁しかないが)集めてレクチャー付きで演奏する、という素晴らしいコンサートが開かれた(2019.03.08。かつしかシンフォニーヒルズのアイリス・ホール)。情報収集能力が無い僕は、日頃お世話になっているフィロムジカ友の会会員様からこの素晴らしいコンサートの存在を教えてもらった。人の縁は本当に有り難い。

 若いブルックナー研究者の石原勇太郎が、自筆譜・浄書譜の画像を使うなど、原資料に基づいているが故の説得力ある解説を展開。以下は興味深かった解説の断片。

 

…ブルックナーは第2主題を「歌謡主題」ととらえ、実際そのように楽譜に書き込んでいる。「歌謡主題は何調で書こうかな? 〇長調?、△短調?、よし、■長調に決めた」といったような構想の書き込みが自筆譜に見られる。

 

…キツラー先生の回想では、ブルックナーはゼヒター先生から学んだことと正反対のことを指導されるたびに喜んでいたという。(僕はこの話を、新たな世界が開かれることを喜ぶ探究者ブルックナーの姿が垣間見られる話だ、と感じた)

 

…キツラー先生の指導は、弦楽四重奏を素材にした作曲技法の段階的習得→ベートーベンのソナタの編曲を通じた、管楽器を中心とするオーケストレイションの習得→序曲や交響曲の作曲、という段階的なものだった。(ブルックナーが編曲したベートーベンを聴いたみたい!)

 

…ブルックナーは、写譜屋が「Quintetto」とイタリア語風に書いたタイトルを、わざわざ最後の「o」を消すなどのドイツ語へのこだわりがあったらしい。(以前ヴィーンで見た展覧会で、マーラーが自筆譜の楽器名をすべてドイツ語に書き直したものを見た。ヴィーンの作曲界ではドイツ語表記へのこだわりでもあったのだろうか?)

 

 以下から各演奏曲を聴いた感想。演奏は、ヴァイオリンが桜田悟(神奈川フィル)と広川優香、ヴィオラが世川すみれと堀那苗、チェロが森義丸。

まずはキツラー先生の指導の一環で作曲したブルックナー初期の作品群。

●スケルツォF-dur

 僕はこの曲を全く知らなかった。

内声で細かな伴奏音型をキャッチボールしている様相が既にブルックナー的。トリオはかなり動きのある音楽。今日はスケルツォ主部よりも遅く演奏していたが、おそらく譜面にはテンポ指示は何もないと思われる。9番のように、スケルツォ主部よりもトリオを速いテンポにして動きの激しさを強調したら、また別の面白さがあるかもしれない。

 

●スケルツォg-moll

 やはり僕が知らなかった曲。

ト短調ならではの、宿命を背負ったかのような悲劇性が印象的。ブルックナーはやはり短調の表現が素晴らしいと再認識。ポリフォニックな動きの中で、ときおり嵌入する4人のユニゾンが存在感を発揮する、ブルックナーならではの語法が確立している。

 

●弦楽四重奏曲

 敢えて事前に音源を聴かず、スコアでの予習のみで聴いてみた。強弱や表情の指示がほとんど書かれていないので、演奏者が自ら判断して補う必要がある。実際に聴いてみると、期待通りの魅力や、「そういう解釈もあるか」と良い意味で予想を裏切られる演奏解釈などもあって楽しかった。しかし何といっても強く印象に残ったのは、ブルックナーの旋律が魅力的であったこと。これは生音でないと実感できない。

 第1楽章。細かな音符のキャッチボールがよりはっきりした形をとっていて魅力的。これに代表されるように、ポリフォニックな深みが素晴らしい。一方で、簡潔な刻みの上で旋律を歌わせるブルックナーらしさもすでに魅力的なほか、チェロの半音階下降も印象的。また、随所に十字架音型が聴かれるのも信仰者ブルックナーを思わせる。演奏はスビート・フォルテを多用した大胆な強弱を補っており、ブルックナーらしい豪放な魅力を実現していた。ブルックナーらしい、全く別の音楽を嵌入したような変化を経るが、最後はブルックナーとしては異例な短調のままの終結。

 第2楽章。しばらくチェロ無しの軽めの響きが続くので、チェロが入ったときに、音響の充実感と音色の包容力の深さを一層強く感じる。中間部は中庸の音量でリズムもそれほど鋭く強調しない演奏。このスタイルだと、田舎風のほのぼのとした印象になって、これはこれで面白い。ただし僕としては、4番初稿第2楽章のクライマックスのように、鋭いリズムと音響の畳み掛けが圧倒的印象を与えるものと予想していたので、意外な解釈だった。全体に動きの激しいアンダンテなので、コーダの長い音符にはホッとさせられる。

 第3楽章。スコアを見たときはブルックナーにしては物足りない楽章に感じたが、実際聞いてみると朴訥とした底力があって魅力的。特に、単純な4分音符の連続なのに「ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロ」と一拍ずつズレて入ることの音色的効果が予想以上に面白い。細分化されたカノンを聴いているかのよう。トリオがチェロのカデンツできっちりと終わっていることも予想以上に落ち着いた好印象を与える。やはりブルックナーは天才だ。

 第4楽章。「第1→第2→ヴィオラ→チェロ」と順に重なっていくオーケストレイションが、冗談音楽のような面白さとともに、重厚さを増していく音楽として素直に美しく感じる。3連符をちりばめたポリフォニーも効果的。ライヴならではの驚きが得られたのはB主題で、A主題を倍に拡大しただけなのに「歌謡主題」としての穏やかさを充分に獲得していた。雄渾な8番フィナーレの第1主題が展開部で花園的愛らしさをもってフルートで歌われる例からも分かるように、ブルックナーはひとつの主題に異なるキャラクターを与える天才だ。最後は1楽章同様に短調のまま終わるという、交響曲では有り得ない終わり方。ただ、短調の表現がうまいブルックナーとしてはこの終わり方も違和感がない。長調なのに暗さを感じさせる4番フィナーレ第3稿の終わり方と聴了感は似ている。

 

●ロンド(弦楽四重奏曲の終楽章とすべき楽章を新たに作曲し直したもの)

 このロンドはスコアによる予習すら敢えてせず、全く無知な状態で聴いてみた。

驚かされたのは、弦楽四重奏曲とほとんど同時期の作品なのに、深みがグッと増していること。冒頭は、この直後に書かれた交響曲ヘ短調にそっくりなのが興味深い。第1楽章で魅力を放っていたチェロの半音階下降がここでも印象的に使われ、第1楽章との連続性が考慮されていることが分かる。特に印象深いのはC部分で、細かな動機が実に密度高く綿密に絡み合っている。まるでフーガのようだ。

 

●『夕べの音楽』

 成立事情がよくわからないピアノとヴァイオリンのデュオ曲。演奏は仲田みずほのピアノと桜田のヴァイオリン。

 主題が始まってすぐにパウゼになるのに驚かされる。ブルックナーの「休止」はオルガン的語法とよく言われるが、ブルックナーは根本的に休止の入った主題が好きなのではなかろうか。主題を歌い終えた後、それを細分化してピアノの両手に配分し、ポリフォニックな伴奏にしているところがブルックナーらしい。

 

 休憩後は、ブルックナー円熟期の傑作。

 

●インテルメッツォ

 円熟期の作品なのに、弦楽五重奏のスケルツォの代用として書かれたものであるため、演奏機会がない不遇の作品。僕も生演奏で聴くのは初めて。

 まず冒頭の悪魔的な音色に驚かされる。ブルックナーとしても異色の響きで、これと似た印象の響きとしては、推敲によってお蔵入りになった9番トリオ第1主題の初期段階が挙げられるだろうか(内藤彰指揮東京ニューシティ管で聴いたことがある)。静かな音楽に嵌入されたような2小節間のスビート・フォルテが圧倒的な存在感を与えると予想していたが、意外と印象は薄い。やはりスビート・フォルテの効果はフル・オーケストラでないと難しいか。ブルックナーの破格の楽想は弦楽五重奏の範疇を超えていたようだ。主部終盤でヴィオラがトランペットのように3連符のファンファーレを刻む様は極めて効果的で覇気がある。

ちなみに、演奏者の実感としては、確かに第1ヴァイオリンは簡単になってヘルメスベルガーの要望に応えたことが分かるが、その分ヴィオラが難しくなっているとのこと。

 

●弦楽五重奏曲

 この曲だけは聴くのが3回目だが、何度聴いても新たな感興がある。何よりも、前半で聴いた初期の習作群には無かったブルックナーの特徴である「身を任せられるおおらかな流れ」が出来上がっているのだ。下野竜也のブルックナーで特に感じられる、包容力のあるゆったりとした流れ(響きだけではなく)、がブルックナーに不可欠の要素であることを改めて実感。

第1楽章。ユニゾンのフォルテに圧倒的効果があり、スビート・フォルテの効果も大きい。インテルメッツォでこれを感じられなかったのは、長さが足りなかったためのようだ。ゆったりとした第1楽章では、長い助走のように少しずつ盛り上げてスビート・フォルテを導く効果的な書法が可能だ。また、特に印象的だったのは展開部。アド・リビティムに歌われるソロの呼び交わしは7番の第1楽章展開部を髣髴とさせる。そして特に終盤では、複雑なポリフォニーが豊かな響きの厚みにつながっていた。また、チェロの伸ばしがオルゲンプンクトのように安定した効果を出していたのも印象的。オーケストラで言えばティンパニのロールのような効果を出していた。

 第2楽章。スケルツォ。溌溂とした動きは確かに素晴らしいが、インテルメッツォの悪魔的な響きも素晴らしく、甲乙つけがたい。個人的にはインテルメッツォのあの悪魔的響きをまた聴きたい。インテルメッツォを採用しての全楽章演奏がなされてもいいんじゃないか? 今日の演奏はクワジ・アンダンテやラングザマーを相当に遅く充実して演奏していたことが特徴的。ここがまるでトリオであるかのような印象を与える。本物のトリオはその後で、よりほのぼのとした音楽があるのだが。この巨大さがヘルメスベルガーを困惑させたのかもしれない。

 第3楽章。この楽章はスクロバチェフスキの弦楽オーケストラ版があるので何度か聞いている。そして何度聴いても魅力的。特に第2主題ではボタボタ涙が流れた。改めて聴いてみて印象的だったのは、クライマックスが実に細かな動きによって扇情的になっていること。おおらかなクライマックスを作る交響曲のアダージョとは異なっており、室内楽ならではの音楽を作ったことが分かる。最後は信仰告白の数字である「3」が聴かれるのが、作風確立後のブルックナーらしい。

 第4楽章。4番初稿風の冒頭は実に前衛的。この一見難しそうな楽章には文句を言わず、スケルツォに注文を付けてインテルメッツォを生み出させたヘルメスベルガーは、慧眼の持ち主なのではないだろうか。チェロの登場箇所が要所に制限されることで、かえってチェロの独自な存在感が際立つ。ヴァイオリンとヴィオラによる4重奏を、要所でチェロが加わって支える、という印象を与え、それがスケールの大きさにつながる。ユニゾンのフォルテで圧倒的クライマックスを築いたかと思うと、何食わぬ顔で第1楽章風の穏やかな音楽を連続させてしまう、という大胆な振幅。この破格の音楽は3番初稿のフィナーレを髣髴とさせる。コーダは改訂稿に合わせて、スビート・フォルテになってそのまま突っ走るスタイルで演奏。この唐突さはいかにもブルックナーらしい面白さで、ブルックナーが本来やりたい音楽、という印象を受ける。

 アンコールは五重奏フィナーレのコーダを初稿で演奏。ピアノからクレッシェンドしてクライマックスを導く。このスタイルだと、第1ヴァイオリンの上昇音型がよりはっきり浮かび上がって、天に坐します神を仰ぎ見る信仰者ブルックナーの姿がくっきりと浮かんでくる。信仰告白的な初稿、音響の塊としての存在感が圧倒的な改訂稿、それぞれ異なる魅力があり、どちらもブルックナーらしい。

posted by ちぇろぱんだ at 23:38| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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