2018年01月14日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪〜2018.1.12

 寺岡清高と大阪交響楽団が魅力に満ちたプログラムで演奏(シンフォニー・ホール)。

 前半は日本初演を含むロット作品3曲。ロットはフィロムジカが2作品を関西初演したゆかり深い作曲家だが、こうして我々が蒔いた種がしっかりと芽吹いているのは嬉しい限り。

 

 1曲目は序曲『ハムレット』。冒頭、トロンボーンにテューバも加えた4声のローブラスが静かに演奏するが、古典やバロックすら通り越して、まるでルネサンス音楽を聴いているかのような荘重で純潔な雰囲気を醸し出す。弦を中心とする主部は、簡潔なリズムで淡々と進みながらも、強烈な色彩を放つ和声がときおり牙を剥くロットならではの音楽。これがローブラスの音楽と何度も対置されて循環し、小品ながらも巨大な奥行きを感じさせる。

 

 2曲目は日本初演となるB-dur組曲。この曲だけスコアが購入できたので予習しておいたが、当然、譜面だけでの印象とは異なる。これが面白い。

1楽章目のスケルツォは冒頭2音のインパクトと、4分音符を主体としながらも冒頭2音の短縮形をまぶした簡潔な主題が印象的で、それは予想通り。しかし予想外だったのは2分音符も用いた木管の主題の印象の強さ。これによって、音楽が肉厚な層をなしていた。

 さらに予想外の喜びを与えてくれたのは2楽章目だ。無窮動のようなフガートと、最後になってようやく登場するトロンボーンの長大なフレーズの圧倒的対比は予想通り。しかし、スピーディーな8分音符の集合体が、にもかかわらず、全体としては実に穏やかでゆったりとした流れを持っているように感じられたのだ。これはホールの響きに身を委ねないとわからないことだ。

 寺岡は徹底したイン・テンポで演奏し、一定した流れの中から音楽の面白さが塑造されていくこの曲の個性を明確に描き出した。ただし、楽譜で予習しておくと、別のスタイルの演奏もあり得る、ということを同時に感じる。例えば冒頭では、今日は控えめだった2番トランペットのロングトーンを思い切り目立たせていいかもしれない。あるいは、トリオでは思い切りテンポを落としても良いかもしれないし、同じくトリオでエア・ポケット的に挿入された4拍子(ここ以外はすべて3拍子)を強調しても良いかもしれない。また、一瞬だけ現れるワルツ風の伴奏を、その一瞬だけ極端に演奏しても良いかもしれない。それだけロットの音楽には多様で未開拓な可能性が秘められているということだ。もっと数多く演奏されて、多様な魅力を提供してほしい。

 

 3曲目はE-dur組曲。開演前の寺岡のプレトークで的確に説明されていたが、この曲は、のちにマーラーが『巨人』の最後のコラールに引用したと考えられる主題、その主題ただ1つの繰り返しのみで2つの楽章を書き上げている。

 チェロでのびやかに主題が提示された冒頭は、マーラーよりはヴァーグナー(特に『タンホイザー』)を髣髴とさせる。しかしそれが、フル・オーケストラがマルカートで演奏するようになると、なるほど、『巨人』の最後を先取りした音楽に聞こえてくる。マーラーが、行進曲にしか聞こえない『巨人』最後の主題を、「コラール」と呼んだ謎もこれで解決する。元ネタのロットの旋律は明らかにコラールなのだ。乱暴に言ってしまえば、同様の主題を用いても、教会で起居したロットが扱うとコラールに、軍楽隊を聴いて育ったマーラーが扱うと行進曲に聞こえる、ということかもしれない。終盤で、徳田知希のトランペットと細田昌宏のホルンがこの主題をユニゾンで堂々と演奏する場面は、簡潔かつ壮大だ。また、交響曲の第2楽章を思わせる、金管の天国的かつカロリーたっぷりの響きはまさにロットを聴く幸福。ごくわずかな素材の繰り返しからやがて壮大な音楽を築き上げる力技はブルックナー8番初稿を思わせるが、当然ロットのこの曲の方が遥かに先にできた作品。その時代離れした天才性には瞠目せざるを得ない。

 

 それにしても、ロットの音楽は穢れがない。「音楽をピュアーにピュアーに聴いていった先にブルックナーの音楽がある」とは故・若杉弘の言だが、この言葉はそのままロットにもあてはまるだろう。不幸を濃縮したかのような短い人生であったのにもかかわらず、いや、だからこそ、と言うべきか、ロットの音楽には純粋な至福しか感じるものがない。

 

 こうしたロットの音楽の後でマーラーを聴くと、マーラーは遥かに人間の泥臭さを感じさせる。演奏されたのは『巨人』の5楽章版。僕は4楽章形式の『交響曲第1番』は大嫌いで、この曲は5楽章で演奏すべきだと確信する。密度の高い第1楽章の後に、稚拙なまでに単純な「花の章」があり、その後に豪放なスケルツォが来ることで、曲全体の空間的な落ち着きがしっくりくるのだ。これはホールの響きに身を委ねないとわからないことだ。寺岡/大響は、冒頭にしてこの曲の肝である冒頭のAの伸ばしを、重層的に豊かな厚みを持って響かせる。この曲は、主題が時系列的に展開する「時間芸術」ではなく、音楽の様々な構成要素がホールの空気の中を満たす「空間芸術」としてとらえるべきだと思うが、冒頭の音響によってそれを早くも成功させた。終楽章のティンパニの3連符は、ロットからの系譜を確実に感じさせる。

 唯一残念だったのは、国際マーラー協会版を使用したこと。この版は「ハンブルク稿」だと謳ってはいるが、フィロムジカが20回定期で演奏した、マーラーの自筆譜に基づいた嘘偽りないハンブルク稿とは大きく異なる。はっきり言って協会版は「‟花の章“を挿入した交響曲第1番」でしかなく、ハンブルク稿の自筆譜に見られる魅力にあふれた「毒」がきれいさっぱり消されている。特にスケルツォ冒頭のティンパニやフィナーレの長調のフルートが変えられているのは看過し難い。この版が市民権を得てしまうことを強く危惧する。

posted by ちぇろぱんだ at 22:43| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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