2017年11月14日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2017.10.19〜

藤岡幸男が関西フィルとシベリウスの5番を演奏。
 シベリウスに限らず、藤岡の魅力はスコアの読みの深さと、それに加えて、四方八方から次々と噴出するような音楽の生命力である。今日のシベリウス5番は、作品と藤岡のそうした個性が見事に一体となった稀有な名演だった。
 第1楽章前半ではシベリウス独特の妖艶な暗い音楽が深々と描かれるが、そうした中でも、管楽器群の中での生命力の交錯、客演コンサートマスター近藤薫が轟然と率いる弦の刻みの慄然とさせられるような恐ろしいほどの生命力など、常に荒れ狂う生命のエネルギーが前面に出ている。第1楽章後半では、白水大介のトランペット・ソロが先陣を切って、この生命力の荒々しさが一層過激な嵐となる。そうした中にあって、梅本貴子のクラリネットなど、何でも無さそうな単調な動きの中に大自然から発せられた警句のような凄みを感じさせる。また、室内楽的な経過句はまるで前衛音楽のような抽象的不思議さを強調していたが、それが見事な流れにはまっているのだ。最後はトランペットの主旋律以上にホルンの律動的な打ち込みが強調され、危険なほどの高揚を持った生命力が炸裂した。
 第2楽章はたっぷりと楽章の間を取って演奏。第1楽章が終わった後のホールの空間に残る生命の余韻を、時間をかけて楽しみ、次なる生命が新たに湧き上がってくるのを待ってから再開したかのように思われた。多様に変化する曲の各ブロックを、大胆なテンポ変化や強弱の対比によって、それらの違いをよりいっそう強調する。しかし驚くべきことに、そうした異なる音楽のブロックが、ツギハギ的印象を全く与えず、あるべき音楽の流れとして実に自然に感じられたことだ。佛田亜希子のオーボエは最後のスタッカートをゆったりと余韻を残すように柔らかく切る。僕は、ビックリさせるように突然短く切り、そのままフィナーレに突入するスタイルも好きだが、今日の演奏はこのスタイルで良い。藤岡はここでも楽章間をたっぷり休んでいたからだ。その間も藤岡は、フィナーレのテンポを示すように浮き浮きと体を動かしていた。いや、テンポを示していたというよりも、湧き上がってくるフィナーレの生命力の感触を、始まる前から楽しんでいるかのようだった。
 果たしてフィナーレは、中島悦子率いるヴィオラが刻みの中にはっきりとした旋律の動きを野太く示し、分厚い生命力の層を冒頭から全開した。弦のスビート・フォルテが圧倒的で、そこでさらに生命力のパワーが上がる。驚くことに、そうした極端な変化を随所でしているのにもかかわらず、音楽の流れには一貫したものがあり、散漫な印象を全く与えない。ホルン動機と、木管によるベートーベン風の歌、そして弦の美しいロングトーンが重なる部分は、それぞれから生命力が噴出する藤岡の特性が最も良く作用した。終盤はフィンランドの分厚い雲が垂れ込めたような鉛色の重厚な響きとなる。底抜けに明るい響きを予想していた僕としては嬉しい驚き。そして圧巻は終結。どんなに優れた演奏でも、ゲネラル・パウゼで音楽の流れが切れてしまうのは避けられない。しかし今日は音楽が流れていたのだ! 雲から湖に至るまで、空気全体に充満していた生命のエネルギーが、ゲネラル・パウゼの間も力を放ち続けているようで、それが休符の中の音楽の推進力になっていた。
 偉大なシベリウス演奏家は世界に大勢いるが、皆、異なる個性を誇る。交響曲全曲を聴いた指揮者だけを思い出してみても、圧倒的な推進力を誇るネーメ・ヤルヴィ、静謐さと独創的な解釈が印象的なヴァンスカ、北欧のイメージ通りの清澄な透明感と細い線が魅力のインキネン、内面に不穏なざわめきを抱えたリントゥなど、それぞれ全く異なる解釈であり、それぞれが素晴らしい。「生命力が輝く藤岡のシベリウス」もそうした偉大で個性的なシベリウス演奏家の列に加わったと感じた。
posted by ゆかもん at 21:16| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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