皆様、お久しぶりです。まるです。
大変長らくおまたせしてました(私が更新溜めまくってました涙)演奏会日記、久しぶりの更新です!
遠藤さんが「すごい演奏会を聴いてきた」という一文を添えて送って下さった日記です。
とくとご覧あれ!
遠藤啓輔のコンサート日記(2014年7月21日)
インバルが手兵の都響とマーラーの奥の院である10番を演奏(サントリーホー
ル)。
補筆は前回(いったい何年前だったか忘れてしまったが)同様クック版で、僕が聴
く限り足し引きもしていない模様。
冒頭、先ず鈴木学率いるヴィオラのパート・ソロで今日の演奏が名演になることが
決定づけられた。雄弁な歌でありながら、どこかつかみどころの無いフワリとした印
象を受けるのはヴィオラならでは。ヴィオラのパート・ソロという意表を突いた冒頭
にした理由が、初めて納得が行った思いだ。フル・オーケストラによる第1主題が始
まると、ヴィオラが内声でありながらも濃厚に存在感を発揮。冒頭で強烈な印象を与
えたからこその雄弁なポリフォニーだ。全曲を通して、ポリフォニーが、単に音の絡
み合いの面白さという以上に、それぞれに魂がこもった音たちの命の饗宴といった印
象を受けた。クライマックス直前の嵐の前の静けさの部分では、リズムを徹底的に正
確に演奏。後半楽章で増殖して重要音型になる萌芽としての重要性を感じさせる。そ
してクライマックスの前段は、山崎のハープが芳醇に鳴り響き、アーベント・ロート
ともいうべき雄大な美しさを見せる。悲痛な音楽だけに、その美しさはむしろ残酷に
難じる。マーラーが人生に苦悶し病魔との闘争で疲弊していたとき、彼の周囲には美
しい夕映えの風景が広がっていたのではないだろうか、そんな想像をさせられた。岡
崎耕二のトランペットは基本的にはC管ロータリー使用だが、両端楽章のAの伸ばしだ
けEs管ピストンに持ち替え。柔らかいロータリーの音とはまた異なった野太い音が圧
倒的迫力で、特にひと1楽章では清涼なコーダを聴く間もAの迫力のボディーブローが
利いているようだった。
第2楽章は遅く重々しい演奏。前日は早めのテンポだったとの噂があるが、事実で
あれば、これこそライヴの醍醐味だ。遅いながらも、決して弛緩することはなく、む
しろ音楽の密度は極めて稠密。昨年のブルックナー9番のスケルツォの名演を思わせ
る。巨大な塊としての凄みが恐ろしいほどだ。対して中間部は熟れた果実が崩れ落ち
ているような爛熟した演奏。
恒例になったインバルの途中退出・チューニングののち、後半再開。後半はほぼ一
続きに演奏。
プルガトリオは伴奏のメトロノームがよく聞こえ、果てしのない煉獄の車輪が無限
に回っている印象を受ける。ヴァイオリンはスビート・ピアノはせず、歌としての流
れを維持。フルートはサロメ音型の強奏のみa.3になるオーケストレイションが実に
効果的に聞こえる。他の楽章が圧倒的充実感を誇っていただけに、この楽章は短いこ
とがむしろ強烈な印象を受け、かえってサロメ音型の重要さが引き立つ。
第4楽章は短いスパンで音楽がコロコロと変転する様が錯乱しているように聞こえ
る。同じスケルツォ風楽章とは言っても第2楽章の塊状の巨大さとは全く対照的だ。
冒頭のドラムが軍楽隊のように聞こえたり、四方恭子のヴァイオリン・ソロがときお
り子守唄のように聞こえたり、まるで濃縮されたマーラーの全人生がフラッシュバッ
クスているかのようだ。トランペットの下降音型はクックの補作通り演奏。「下降音
型」という簡潔かつ意味深い音型が引き立った。クックの意図は大地の歌の引用との
ことだが、むしろフィナーレのチューバの上昇音型を鏡像の形で先取りしているよう
にも取れる。
そして圧巻は4楽章から5楽章へのブリッジ。点描による抽象絵画のように細分化し
た音の断片が飛散するような、もはや「音楽」という卑俗な言葉で表現することが許
されないような別世界的な音世界になる。大太鼓は乾いた音色で、音量よりも、この
音世界にふさわしい。このような、地獄ですらない、人間味を一切排除した無味乾燥
の世界を潜り抜けたからこそ、人間味あふれるフルートの歌に救いが感じられる。寺
本義明の控えめであるがゆえにかえって涙を誘う演奏も勿論素晴らしいが、圧巻は
ヴィオラを主体とした弦の伴奏だ! 濃厚で熱い伴奏がフルートの歌に生気を送り込
むが、これは全曲冒頭のヴィオラの名演奏があってこそのものであることは言うまで
もない。全曲を見事に連関づける、インバルの見事な坊の冴えだ! 続く弦の歌も勿
論涙もの。この歌を悲痛に締めくくる佐藤潔のチューバの上昇音型の再現は、楽章冒
頭での茫洋とした表現とは打って変わって、怒りを突き上げるような凄まじい吠え
声。バッカス的な中間部は第4楽章の余韻を弾いているように感じる。マーラー得意
のシンメトリカルな5楽章形式が、後半に行くにしたがって溶融したかのようだ。第2
楽章が熟れた果実のようだったのと同様、曲全体も熟れた果実のように今まさに変容
せんとしている作品が10番であるように思われた。クライマックスはクックの補作通
り、岡崎のソロに西條貴人率いるホルンのパート・ソロが重なるのみ。しばしばなさ
れるようにヴィオラを重ねたりはしない。英雄の象徴であるホルンと人間の象徴であ
るトランペット、この二者のみにスポットライトが当たり、両者がともに力尽きて倒
れるような収束であった。それだからこそ、慰めの歌のようなコーダが比類のない安
息となるのだ。このクライマックスからコーダへの転換の瞬間は、ブリテン『戦争レ
クイエム』の「もう眠ろうよ」を彷彿とさせる音楽史に誇る名場面だと感じた。前回
聴いたときに圧倒的に感銘を受けたのは、すでに死に絶えたようになっていた音楽か
らグリッサンドによって轟然と立ち上がった「アルムシ!」主題だった。今回もその
再燃を期待していたが、今回はあの感銘を上回る凄まじい「アルムシ!」主題となっ
ていた。フリー・ボウイングが徹底され、次々と突き上げられる弓たちが蠢きまわる
触手のような、あるいは今まさに地獄に沈んで行かんとする無数の人々が最後の力で
手を突き上げているような、「美しい」では到底済まされない底力のあるエネルギー
が放たれていた。改めてスコアを見てみるとフリー・ボウイングはクックの指示であ
り、思い返せば前回の演奏でも弓がバラバラに動いていたかもしれない。しかし、少
なくともこの場面で今日ほどフリー・ボウイングのパワーを思い知らされたことはな
い。先のマーラー9番のクライマックスでフリー・ボウイングを徹底して大成功した
ことが下敷きにあるのかもしれない。若いころのインバルの録音は才気走るスマート
な演奏だったが、近年都響で聴くインバルは、持ち前の鋭敏さに加えて、豊潤さと、
そしてグロテスクさと泥臭さをも加味した、底知れないスケールを獲得したように思
う。そうした怪物インバルにふさわしい怪物的名演だ。最後は、ブルックナー9番の
最後と同様、ホルンの包容力ある和音を慈しむように、曲が終わるのを惜しむよう
に、閉じられた。
熱狂した聴衆は、楽員が去った舞台にインバルを2度呼び戻した。しかしその聴衆
たちは、廊下に出るとまるで葬列のように静かに無言で歩いていた。何も言葉にでき
ない、それほどまでに凄い音楽を聴いたからである。
2014年09月23日
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