2014年03月08日

帰ってきた!コンサート日記

まいど!まるです
ゆかもん先輩、2週連続更新ありがとうございました

さてさて…

皆様だいぶお待たせいたしました…

あの大人気企画「遠藤啓輔のコンサート日記」、再開です!!!
本日は、神戸アンサンブルソロイスツ様の演奏会日記です
ブルックナーを愛する遠藤さんが、
「音楽愛好者人生で最高に泣けた」とおっしゃる、名演奏の記録です。
どうぞご覧ください。

遠藤啓輔のコンサート日記(2014.2月某日)

神戸アンサンブル・ソロイスツの20周年記念定期(アルカイック・ホール)。
指揮者・高橋義人のブルックナーに対する愛が溢れた至福の演奏会だった。


プログラムは、ブルックナー9番の、SMPC2012年版補筆完成フィナーレによる全4楽章形式での演奏。
交響曲に先立って、まず、トロンボーン3人と指揮者のみが登場してブルックナーのエクヴァーレを演奏。
その後、高橋がマイクを持って作品を説明し、9番の演奏終了後もエクヴァーレを演奏する旨を伝える。
なるほど、補筆フィナーレを演奏するに当たり、演奏の前後にブルックナーに挨拶をするということなのだろう。


 交響曲は全体に大変遅い演奏で、全4楽章の合計演奏時間は実に105分。
まさに人類史上最大の古典的形式による交響曲が姿を現した。
アマチュア・オーケストラゆえ、ヴィルトーゾ的技術は期待できないが、ブルックナーが響く空間に身をゆだね、その空気を呼吸する幸福を味わう、というブルックナー鑑賞最大の至福を味わえたのは、ブルックナーへの愛がある故だろう。
「ブルックナーへの愛」は具体的には、「ここぞというべきところ」をきちんと把握し、そこだけは何としても成功させようとする作品の理解、踏みしめるような重厚なアクセントを全力を投じて表現することによって重量感とバロック的拍節感を両立する、など、最低限すべきこと、できることに全力を投じる点に現れており、それが感動につながっていた。
また、神戸アンサンブル・ソロイスツはオーケストラとしての総合的な魅力に溢れていた。筆頭がブルックナーの生命線である弦合奏で、全体の弦の響きの中でヴァイオリンの音が燻し銀のような鈍い光が浮かび上がる響きの音色が、まさにブルックナーにピッタリであった。
また、木管はロングトーンで和声を作るところは完璧に決めてきており、9番ならではの前衛的な響きの色彩を作り出していた。


 第1楽章はテンポが遅いだけでなく、デュナーミクの変化への徹底したこだわりによって祭壇画的な巨大な世界を描き出す。
この遅いテンポだと、ゲシュトップ・ホルンが鳴り響く地獄絵的箇所が細密画のように各楽器が不気味に浮かび上がって凄みが倍増する。
最新のコールス改竄版ではなくオーレル版を使用したおかげで、持続的に振動するゲシュトップ・ホルンが継続的な恐怖を演出する。
また、単に全体が遅いのではなく、第3主題は結構速めで、この主題の躍動感を生かしていた。

コーダでは涙が出た。
決してヴィルトーゾではないアマチュア・オーケストラが、技術の未熟さを超克せんとして巨大な演奏に挑む姿と音が、病身に鞭打って宇宙が炸裂するような破格の作品を書いた老ブルックナーの姿を彷彿とさせたからだ。

2楽章も極めて遅いテンポ。
この遅さだと、ひたひたと迫ってくるような迫力と、再現部直前のアッチェレラントの緊張感が凄い。
また、この遅さのおかげで、「主部内中間部」ともいうべき部分でヴィオラやチェロが断片的な上昇音型をちりばめていることがよく浮かび上がってきて、上昇音型が全楽章を有機的に結びつけるこの曲の特徴が明瞭になった。
トリオもやはり遅い演奏。
しかし木管は鋭めのテンポで吹いており、音楽の流れから外れた鳥の声としてより描写的に聞こえる。
全曲中で唯一描写的に自然が描かれたこのトリオの存在感が明瞭になった。


 第3楽章はアマチュアとしての技術の限界を超克した理想的な名演。
トランペットはこの楽章から柔らかめのアタックに変わり、インパクトではなく響きの美しさが前面に出た。
当然、最初のクライマックスでのリズム音型は涙ものだ。
ブリッジ部分は、旋律的に動くヴァイオリンのみが記譜通りに刻んでいるが他の弦楽器はトレモロのまま。
トレモロの海の上にヴァイオリンの刻みの光が浮かび上がる格好になった。
その後の「生からの別れ」はホルン軍団の旋律の開始をかなり強めに吹かせて印象付ける。
フィナーレの至福のコラールを予告する旋律だという重要性をしっかりと認識した演奏だろう。
2主題はこの遅いテンポだからこその雄渾さ。
再現部直前のフルートとヴァーグナー・チューバも、「ここが決め所」との気迫が伝わってくる完璧さだ。
悲愴な再現部第2主題はオーボエの刻みの怪鳥のような凄みといい、カタストロフでのポリリズムといい、この楽章の恐ろしさを存分に表現している。
破局の頂点では、記譜通りに、クラスター和音の打ち付けよりもその後の総休止の方に充分な時間がとられた。
ただし、もとのテンポが遅いのでクラスター和音が鳴っている時間が短い!という不満は全くなく、アルカイック・ホールの程好い残響に溶けていく前衛的な音塊を楽しむことができた。
コーダもこの遅いテンポを堅持。
驚くべきことに、金管セクションは天国的な和声を、地獄のような長時間みごとに維持したのだ! これほどのブルックナー愛があろうか!


 拍手が起きることもなく、一体の作品としての集中力を維持したままフィナーレに入れた。
断片が飛び交うようなフィナーレの開始は、前楽章までをいったんリセットして、再び1楽章冒頭のカオス的な世界に戻って仕切り直しをしているように感じる。

9
番フィナーレのネックの一つは、天国的なアダージョをティンパニから始まる不気味な音楽で受ける、という連続性の不可解さにあると感じてきた。
しかし最近、特に初期作品の初稿をしっかり聴き込むにつれて、「ブルックナーはフィナーレを全曲の中でも別格で巨大な楽章として位置付ける構成感を持っていたのではないか」との思いを抱くようになった。
そうするとこの9番も、第3楽章までが第1部、フィナーレが第2部、といった感覚でとらえることも可能になっているのではないか(3楽章までが完璧に完成していながら、フィナーレは全体構想が不明、という特異な成立事情もそうした構成感に依るのかもしれない)、と、今日の演奏を聴いて感じた。
補筆フィナーレを生で聴くのは7回目(自分の演奏をカウントすると8回目)になるが、例によって今までに聴いたことのないスロー・テンポで始める。
しかしアッチェレラントして第1主題に入ってからは聴き慣れたテンポになる。
つまり第1主題に至るまでは緩徐的な序奏として位置付けていた格好になり、やはりトゥッティ主題に入るまでを序奏と位置付けることが可能な第1楽章との平衡関係が浮かんでくる。
また、序奏付きフィナーレという発想でいけば5番との関連性も浮かんでくる。
5番フィナーレとは、フーガの導入やコラールの使用という点においても関連性が顕著だ。
2主題は再び大変なスロー・テンポに戻る。
この遅い第2主題が圧巻だった。
ブルックナーが病床で故郷の農村を夢見ているような、美しく、清らかで、そして悲しみに満ちた音楽になっていて涙した。
二十数年前の『レコード芸術』誌で某音楽学者がこの主題を「聞いていて力が抜けてくるようで、ブルックナーは自分で書いたとはいえ、もし生きていたらこの主題を使用しなかっただろうと思われる」などと酷評していたが、何をかいわんや、これほどまでに美しいではないか! 

その後、ゲシュトップ・ホルンが咆哮するカオス(第1楽章でゲシュトップ・ホルンが暴れまわったからこその説得力ある平衡関係だ)を経て、その混沌とした興奮のまま第3主題の至高のコラールに突入する。
“恐れていた”通り、大変なスロー・テンポによる慈しむように丁寧な演奏だ。
こんな演奏をされてはもう号泣するしかないではないか。

音楽愛好者人生で最高に泣けた、声を押し殺すのに必死だった。
このコラールは、まさにブルックナーが全生涯を賭けて書いた信仰告白だ。

この至福のコラールも雲行きが怪しくなって展開部に突入するが、ここでも作品を愛し尽くした演奏が繰り広げられた。
印象的だった一つが挿入的な行進曲。
遅い基本テンポの中では異彩を放つ軽快な演奏で、高橋は器用に右手でテンポ変化を先振りして急激にギア・チェンジ。
この軽快(だがちょっと不気味)なマーチは、第1楽章に於けるゲシュトップ・ホルンが地鳴りを立てる百鬼夜行的な行進曲と「ネガとポジ」の関係になっているように思われた。そして何と言ってもフーガ。
リズムの鋭さが印象的な第1主題だけでなく、トランペットの伸ばしの硬質な音色も存在感があって立体的。
版としてはもっと長さとオーケストレイションの複雑さが欲しいところだが、今日の演奏はそうした不満を補う推進力があった。
その推進力は、堂々と鳴り響く3連符が到達点だとの明瞭な方向性を持っていた。
再現部第2・第3主題の感動は提示部同様だが、再現部の見せ場である、両主題間のグレゴリア聖歌風の挿入句には慄然とさせられた。
とりわけヴァーグナー・チューバによる下降音型が凍りつくような恐ろしさを出していた。
全体に遅いテンポで通して複雑に絡みつく動機群を明瞭に解析したことで、先行楽章にも頻出していた下降音型からの流れがここに反映しているように思われて説得力があった。
そして、このグレゴリア風挿入句の頂点を極めるトランペットのAのロングトーンに奏者の全身全霊をかけた思いを感じた。
そして、至福のコラールへの階段となるヴィオラの上昇音階の太くまっすぐな音の素晴らしいこと!
こうして導かれた第3主題に号泣しないわけがない。
特に音量をスビートで落としてからはなおさらだ。
そして、第3主題を締めるヒロイックな3連符の連打では、全体的にダウン・ボウに無頓着だった弦楽器が、(おそらく)初めて3連続ダウン・ボウで3連音を堂々と打ち付けた。
2000年代のコールス最大の失敗の一つは、この興奮を受け止める役割をしていた第1楽章第1主題の再現をごっそりカットしていたことだったが、今日の版では第1楽章第1主題が中途半端な形で再現されていた。
やはりこの興奮を受け止めるためにここでカリスマ的な主題が必要だと気付いたのだろうか。
ただし、下降音型で切り取られていた1990年代の版とは異なり、下降音型よりも前で切られている。
そっくりそのまま再現することに対する中途半端な抵抗心が出ているのだろうか? 

しかし、8番の例からも明らかなように、第1楽章第1主題はそっくり再現されるのが正解で、旧版はそれに近く、しかも最後の音だけが無いという強いインパクトがある。
旧版に戻すことが望まれるが、少なくとも興奮の持って行く先がなかった2000年代の版よりは遥かに好転した。
4つの楽章の主題が重なるクライマックスはかつて聴いた程の強烈なインパクトはなく、これも版の要改善点だろう。
特に金管の割り振りに問題があるのではないだろうか。
ただし、今日の版では今までになかった劇的な改善がなされていた。
19902000年代の各版では破局でクライマックスを迎えた後、完全に音楽が断ち切られて、ゼロからコーダが始まっていた。
8番を参考にしたのかもしれないが、それにしてはコーダが短すぎて、どうしても取ってつけたような印象がぬぐえなかった。
しかし2012年版では、破局が興奮の中で劇的に明転して輝かしいコラールになり、そこに3連符によるファンファーレが加わって音楽が終息することなく、全曲を貫く上昇音型からなるコーダへと突き進むのだ。
これは画期的な改善だ。
旧版の「とってつけた」感を改善するには、コーダをもっと長く充実したものにするか、音楽が終息せずコーダへと突き進むものにするかしかないわけだが、後者を選択して成功したようだ。
今日の演奏では、フィナーレの第2主題で故郷の農村が目に浮かんでいたことによって、コラール風のコーダの導入でブルックナーの魂が故郷に舞い降り、天使がファンファーレを鳴らす中、天から輝かしい光りが美しい農村に降り注ぐ、そのような光景が見えるような思いがした。
ブルックナーが愛した故郷の農村と、そして神とが一体となり、ブルックナーの生涯が輝かしく締めくくられた。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする
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