2024年02月20日

遠藤啓輔のコンサート日記(2024.01.18・19)

 音楽監督の尾高忠明が大阪フィルを指揮してブルックナーを演奏。我らが岩井先生ももちろんご出演(2024.01.1819。フェスティヴァル・ホール)


 1曲目は武満徹の『波の盆』。ティンパニやファゴットを使わない軽めの編成を活かした、明るく柔和な音作り。旋律や響きの美しさは、晩年の傑作『Family Tree』を先取りしている。旋律がちょっと不思議な音の跳び方をする点や、根音でない音を強調する和声の鮮烈な色彩感(特に最後!)も同様だ。弦楽のみの素朴な響きを主体にするが、ここぞという聴かせどころ(泣かせどころ)のメロディーには、伊藤数仁のホルンを静かに加えるなど、オーケストレイションが繊細。ヴィオラのハーモニクスやシンセサイザーなどの効果音も良い雰囲気を出している。全曲の中央でのみラッパ隊が加わって快活になる構成は、マーラー『大地の歌』のようで面白い。武満の音楽は、ひとつひとつのフレーズを丁寧に歌い収めてから、次のフレーズを歌い始める。この特徴はブルックナーとも共通しており、ブルックナーと武満をカップリングする尾高の見識の高さに唸らされた。


 そのブルックナーの交響曲、今日は僕が特に偏愛するナンバーの一つである6番。

 冒頭の変形ブルックナー・リズムからして、猛然たる推進力に驚かされる。主題が始まり、フル・オーケストラによってそれが確保されてからも、巨大なフェスティヴァル・ホールを存分に満たすような密度の高い響きで、やはり圧倒的な生命力を持って突き進む。中期の総決算と位置付けることも可能な6番を、作曲家としての壮年期とも言うべき若々しさと気迫に満ちた作品、と尾高が位置づけているのだろうか。

一方、この爆発力のある怒涛のエネルギーは、細部の表現を精緻に磨き上げたからこそ実現したのだと思われる。例えば低音で始まる冒頭の主題は、メッサ・ディ・ヴォーチェによる強弱の表情がつけられているが、それを自然な抑揚を持って表現し、歌に生命力を与えていた。また、ブルックナーはテンポを変にいじると音楽が矮小化してしまうが、かといって杓子定規なテンポのままでは音楽に締まりがなくなる、という難しさがある。今日の尾高のテンポは、主題部分のテンポは変化させずに保持する一方、主題と主題を繋ぐブリッジ部分で軽くルバートをかける、というスタイル。これによって、一定したテンポがもたらす安定感と、イン・テンポから解放される一瞬の気安さ、の双方を実現していた。特に唸らされたのは、全曲の締めくくりである第4楽章のコーダ。低弦のピッツィカートから始まるブロックではテンポを上げてかなりの快速で進むが、第1楽章第1主題がトロンボーンによって回帰する最後の部分に入るとやや遅めのテンポに切り替え、堂々たる重量感をもった終結を実現した。この最後の部分は、あまりにもテンポが遅すぎると締まりのない音楽になりかねない。この部分に入る前のブロックを速いテンポで演奏することによって、最後のブロックの「遅く堂々とした」イメージを実際の遅さ以上に印象付けることに成功したのだ。

尾高のテンポ設定は、作品の構成理解の上でも効果を発揮した。主題を3つもつ複雑な両端楽章について、第1・第2主題を一体感を持ったまとまりとして把握する一方、第3主題は屹立するような存在感を持って演奏し、構造把握を容易にしていた。

自発性に溢れた大阪フィルの演奏スタイルも、ブルックナーの音楽に生命力を与えていた。特に印象的だったのは白眉である第2楽章で、ヴィオラ首席の井野邉大輔とチェロ首席の近藤浩志が、にこやかにアイ・コンタクトを取りながら、可愛らしい動きをする伴奏を弾いていた。伴奏からしてこれだけの生命力があるのだ。音楽に厚みが出るわけである。そして、同じ第2楽章では、第2主題でチェロが軽くディミヌエンド気味に弾き、これも歌に自然な使命力を与えていた。また、第1楽章の第2主題部のように、伴奏と主旋律がズレるようにわざと書かれたブロックも、各セクションが生き生きと自発的に演奏する大阪フィルだからこそ効果的な演奏ができる。

1楽章では、フル・オーケストラの豪快な鳴りが、静かな部面の美しさをも惹き立てた。特にコーダにおけるホルンとトランペットの呼び交わしでの、静かで柔らかな表現が印象的だった。

2楽章は、終盤の肝であるフルートとクラリネットのユニゾンの動機を、オーケストラ全体の透明な響きによって神々しさを惹き立てていた。この動きを受け止めるヴィオラの上行音型も、井野邉のリードによって静かに力強く決められた。

 第3楽章のスケルツォは、フル・オーケストラで暴れ出す部分でのロー・ブラスの動きに驚かされた。トロンボーンが下降音型なのに対し、テューバは上昇音型なので、ロー・ブラスの中だけで十字架を描いているのがくっきりと見えたのだ。村祭りと信仰が一体不可分となったブルックナーらしい音楽といえるが、これがクリアに浮かび上がったのは、福田えりみと川浪浩一の技術があってのことだろう。

 第4楽章もトロンボーンが印象的だった。第1主題から派生した、リズムは単純だが複雑に上下する動きが頻出するが、グレゴリオ聖歌のように厳粛な存在感があったのだ。

posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする