2023年08月21日

遠藤啓輔のコンサート日記(2023.08.12)

オーケストラ・ダヴァーイの第16回演奏会。ロシア音楽の知られざる「交響曲第3番」を「3」曲並べるという意欲的なプログラム。指揮は森口真司(2023年8月12日。横浜みなとみらいホール)。

1曲目はシェバリーンの交響曲第3番。
冒頭から、打楽器の暴力的音響に度肝を抜かれるが、すぐにその表層に隠された奥深さに魅了されることになる。この曲の最大の魅力は、刻々と変化する和声がもたらす色彩感。木管は各パートとも特殊管を用い、テューバは2人を擁するなど、管楽器群が充実しており、それによって豊かな和声が造られる。
そして特に両端楽章は、引き締まった筋肉質の音楽や、感情に耽溺しすぎない冷徹さが印象的で、曲の雰囲気が近いと思われるのはオネゲル(特に交響曲第2番)。また、ロシア音楽で印象が近い作曲家を探せば、スクリャービンの原色的な色彩感を思い出す。
第2楽章はコンチェルト・グロッソ的に旋律が歌い継がれる充実した楽章だが、その旋律がことごとく人間味を排した冷たいものである点が独創的だ。イングリッシュホルンやトロンボーンがソロを吹き出すと、ついついショスタコーヴィチからの連想で剥き出しの感情が吐露されるのを期待してしまうが、それが気持ち良く裏切られる。一方で、フィナーレのフーガの均整美には、ショスタコーヴィチ1番の第3楽章を連想させるところもある。
このように、総じて人間臭さを排した冷徹さが目立つ中、スケルツォの泥臭さや、フィナーレの中間部で一瞬だけ姿を見せる耽美的な表情は、この作曲家が実は多相な魅力を持っていることを充分に伺わせる。最後は、フルオーケストラの圧倒的興奮の中で閉じられるが、そのエンジンになっていたのはティンパニと低音楽器によるシンコペーションのリズムだ。シェバリーンは、しっかりとしたオーケストレイションの技法と、他に類を見ない個性とを持ち合わせた作曲家だと感じた。

2曲目、ボロディンの交響曲第3番は一転して、郷愁を誘う旋律美が前面に出た作品で、シェバリーンとのカップリングは両者の個性の違いを際立たせるという点で秀逸だ。冒頭からオーボエのソロが大活躍するが、まさに人間味の塊。科学者のボロディンは、科学では解明できない人間の魅力を音楽で表現したのだろうか、などと邪推してしまう。フィナーレであるスケルツォは、提示と再現でかなりオーケストレイションが変えられていて面白く、補筆完成者のグラズノフの力量をも感じさせた。

最後はハチャトリアンの交響曲第3番。偶然この曲のスコアをササヤ書店でめくっていた時、ズラズラと並んだ十数人からなるトランペットを見て、驚きよりもむしろ「この曲は何かの冗談なのか?」と困惑したことをよく覚えている。こんな曲をまさか実演で聴くことができるとは!!
この膨大な人数のトランペットは、音量によるこけおどしではなく、稠密なクラスター和音を造るために不可欠な人数だとわかった。舞台上のトランペットと、別動隊トランペット(ポディウム席に横一列に配置)との音響の違いも対話的で面白い。
3部構成で、中間部は民族音楽的だが、両端部は終始「警鐘」を発しているように「見える」(音響だけでなく視覚効果もあるので、敢えて「見える」と書く)。
印象的なのはオルガン・ソロ。オルガンはやはり宗教的なので、本来無宗教であるはずのソヴィエト体制と相容れないのでは、という疑念を音から感じる。さらに、ポディウム席の上にあるコンソールに座って、ペダルを多用して両腕両脚を縦横に駆使するオルガニストの姿は、この地上を忙しく差配する天上の神のようにも見える。指揮者が「政治指導者」だとしたら、それよりはるかに高いところにオルガニストが君臨する様相は、政治指導者よりも偉大な存在がいる、と暗黙の裡に示しているかのようだ。単なる体制賛美ではない、いや、むしろその逆の思想の反映のようにも見えた。ハチャトリアン、実は一筋縄でいかない作曲家なのかもしれない。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする