ウィルス禍前に演奏した3番初稿の激烈な印象がいまだに色褪せないマルク・ミンコフスキと都響が、またもやブルックナーの圧倒的演奏を成し遂げた。曲はフィロムジカでも演奏した交響曲第5番(2023.06.26、サントリーホール)。
3番の記憶から予想はついていたが、やはり圧倒的な快速。ただしミンコフスキのテンポは単に速いのではなく、スピード感を持って流れるフレーズが次のフレーズを呼び出して繋がっていく印象を受け、次々と湧き出すような生命力を持った快速だ。フレーズの歌い方も動的で、たとえば第1楽章第1主題はメッサ・ディ・ヴォーチェを強調した濃厚な歌で、また、フィナーレの第1主題も強拍・弱拍を強調した躍動的なものだった。
一方で、乾いた表情を持った要素もある。その筆頭は5番を特徴づけるピッツィカートで、全くヴィブラートをかけない乾いた表現であった。このような正反対の表情を持つ要素たちを組み上げることで、作品の奥行きを一層深いものにしていた。
弦楽器は第1ヴァイオリン16型の大編成によるヴァイオリン両翼配置。前面に並んだヴァイオリンの音を後ろから低弦が押し出すという、弦楽が厚みを持って響く配置だ。そして、ヴィオラをシモテ側奥という音が立つ位置に配する。しかもヴィオラはリンツ・ブルックナー管弦楽団で活躍した鈴木学と、巨匠・店村眞積という両雄が並ぶ最強の布陣。ヴィオラがエンジンとなって、生命力を次々と爆発させる躍動的なポリフォニーとなった。また、第2楽章第2主題は弦の厚い響きが最も効果を発揮する箇所だが、ここではさらに、二分音符で響きを支える低弦の奏法が光った。まるで古楽器のように減衰気味に弾く(ただしヴィブラートはしっかりかける)ことで、バロック音楽のように清澄なブルックナーの一面を浮かび上がらせた。
管楽器は、金管はトランペットとホルンに1人ずつアシスタントを付けていたが、それよりも木管が各パート4人に倍加されていたのが目立つ。しかも、単なる音量補強ではなく、「トップのソロ以外は(ピアノの部分も含めて)ほぼすべて4人で吹く」という様相だった。これが素晴らしい効果を上げていた。最も感動したのは、第2楽章の後半でフルートのユニゾンに答えて、トランペット・ソロが反芻する場面(183~)。4人(!)のフルートがユニゾンで吹くと、(4人分の空間的な広がりがあるために)平原を心地好く吹き流れる風のような印象を受ける(マーラー4番などで聴かれるのと同様の効果だ)。対して、応答するトランペットはソロ、しかも憑かれたように妖艶な表現をする岡崎耕二の演奏だ。野を吹き渡る風の中に神の姿を見出した祈り人が、感嘆の声を上げているようではないか!
僕は、ホルンは森の声を、トロンボーンは神の声を、トランペットは人の声を代弁する金管楽器だと考えているが、今日のこの場面はトランペットの「人間臭さ」が最大限に生かされた名演奏だった。
楽譜は適宜潤色。フィナーレの連続ダウンボウ(390前後)を返し弓に変更していたのは、快速テンポを取った時点で予測がついたが、意外だったのは第2楽章の最後。ここは木管を、原典通りに下降して終わらせる演奏のほか、フランツ・シャルクによる編曲版と同じく上昇して終わらせる演奏もしばしば見られる。果たして今日は、原典通りに吹いたかと思ったら、フルートの最後の2個の四分音符だけシャルク版と同じ高い音を吹いたのだ。どっちの魅力も捨てがたいので、両方の良い所取りをしよう、ということなのか?(僕個人は下降して終止感を出す原典通りが良いと思っているが)
また、スケルツォ主部で、低弦にクレッシェンドを付加して躍動感を付けていた(38と282)のも、今日のミンコフスキのスタイルに相応しい潤色だった。その一方で、フィナーレの「Choral」に入ったところで、トランペットの音を上げて旋律線を吹かせる品の無いアレンジはせずに、岡崎に楽譜通りの音を吹かせることで、ブルックナーが意図した深みのある音響を実現していたのは嬉しかった。
今日の演奏で特に凄かったのは、この大曲の構成を実にコンパクトにまとめていたこと。第2楽章が終わった後、客席のざわめきが収まらないうちに(ほとんどアタッカで)第3楽章に入る。これによって、テンポは全く異なるが同じ伴奏音型を持つ第2楽章と第3楽章の双生児的性格を感じさせた(伴奏音型だけでなく、第2楽章は農村の穏やかな風景を、第3楽章は農村の逞しい踊りを表現する、という「農村」繋がりでも両楽章は双生児と感じられた)。しかも、「第1楽章→第2・3楽章→第4楽章」という3部構成的性格が明瞭になると、第4楽章冒頭が第1楽章冒頭のほとんどコピーであることの意味が重要性を帯びて来る。「もとのあるべき場所に帰ってきた!」という感慨が深まるのだ。この「帰ってきた!」感は、第4楽章終盤のVで一層明瞭な形を取る。第1楽章の第1主題(アレグロ主題)が木管のユニゾンによって吹奏される部分で、これをオーボエとクラリネット全員がベル・アップして演奏したのだ。倍加された8本の楽器が高々と天を向くのだから、音響効果だけでなく視覚効果も凄まじい。これによって、「この大曲の最初と最後が繋がったよ!」ということを明確に示したのだ。
以下は各楽章で印象に残った点。
第1楽章は、躍動感のある歌い方が徹底された。例えば再現部への導入となるコントラバス(346)が、次へのステップのような躍動感を持って弾かれた。そして、第2主題部再現部のトランペット・ソロ(415~)は、岡崎がスラーの旋律を妖艶に吹きながらも、最後の四分音符のオクターヴ下降を鋭く跳ねて、やはり躍動感を感じさせる。また、展開部の導入(I以降)では西條貴人(ホルン)が安定したソロを決めた後、ホルン・セクションによる序奏の再現となる、その「ホルンからホルンへ」という音色の流れに滑らかさを感じた。
第2楽章の提示部第1主題は、6つ振りで貫徹。ヴァイオリンが主役になるAからの4小節間のみ4つ振りに切り替えて「異質なものが挿入された」面白さを出すスタイルもあるが、今日はそうではなくむしろ、1つの主題部が同じリズムで貫かれた面白さを前面に出していた。この楽章では特に、久一忠之(ティンパニ)のトレモロや、風早宏隆、ザッカリー・ガイルス、井口有里の黄金のトロンボーンの、弱音の保続音の存在感が光った。
第3楽章は、スケルツォ主部の最後でヴァイオリンの旋律線の動きが明瞭に浮かび上がった。トリオが快速の中に濃厚な歌があったのも印象的。
フィナーレは、快速のテンポ設定のおかげで、二重フーガがミニマル・ミュージック風に細分化された音の断片になっても(N前後)高い密度を保持し続けていた。同時に、ホルンなどにごく短い旋律が出てきただけでも、そこに歌を感じることができた。コーダの「Choral」に入って初めて、躍動感あるリズムから詠唱風の歌い方に変わり、崇高さを一層高めた。矢部達哉率いるヴァイオリンが、メトリークの変わり目ごとにトレモロを弓幅広く弾き直し、大きなスパンでの躍動感を出していた。
すべての音が終わってから拍手が起こるまでの長い静寂は、空気の中に生き生きとした満足感が充満しているように感じた。