2022年12月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 (2022.12.25)

 僕たちがアイヴズの交響曲第2番を演奏したちょうど1週間後、アイヴズの交響曲第4番を聴く機会に恵まれた。AIと芸術との関係を哲学的に追及している人工知能美学芸術研究会が主催するコンサートで、アイヴズ以外の作品の演奏やシンポジウム、ロビーでの美術展など盛りだくさんのイベントだったが、僕にとっては「音楽家アイヴズが如何に凄いか」、ということを思い知らされたコンサートだったので、ここではアイヴズ作品に限定して記録しておきたい(2022.12.25。パルテノン多摩・大ホール)。
 この日は交響曲だけでなく、アイヴズのピアノ曲『2台のピアノのための3つの四分音曲』も演奏された。この作品は、通常のピアノと、半音のさらに半分の音程が出るように特殊なチューニングがなされたピアノ、の2台を使用。この特殊奏法による音は、遠くから聞こえてくるがために音程が歪んでしまった教会の鐘のような印象があり、「やはりアイヴズの基調には信仰がある!」との思いを強くした。一方でこの音からは、また別のものも想像させられた。ガムラン音楽のような神秘的な印象を受けたのだ。この曲が作曲された1924年当時、アイヴズがガムラン音楽を知る可能性はあったのだろうか?
 もしもこの邪推が当たっているのなら、アイヴズが非キリスト教世界の信仰にも理解を示す途方もなく大きな度量を持っていた可能性がある。アイヴズに益々興味が出てきた。
 そしてプログラムの最後が、交響曲第4番だ。第1楽章は、夏田昌和が指揮する舞台上のオーケストラ(演奏はタクティカート・オーケストラ)と同時に、客席最後列に陣取った2台のハープとヴァイオリン群からなる別動隊を、客席シモテ端にいる西川竜太が指揮して並行する。ただし、この別動隊は強烈な自己主張はせず、「後ろの方から心地好い美しい音がかすかに聞こえるな」という程度。それがかえって、「普段意識することはないけれど、この世界の空気は美しいんだ!」というような感興を覚えた。
 そして圧巻の第2楽章は、指揮台が2つ用意されて、夏田の隣に副指揮者の浦部雪が登壇。基本は夏田が指揮する本オーケストラが演奏する大蛇のように巨大で恐ろしい音楽で、これに時おり、浦部が指揮する別動オーケストラ(同じ舞台に乗っているので視覚的には区別がつかない)が本オケに上塗りするように別の音楽を被せる。その前衛性もさることながら、本オケが演奏する音楽がそもそも凄い!
 一見、優雅に見える音楽がいつの間にか怪物のように巨大で恐ろしくなる様は僕たちも先週経験したが、これをさらに苛烈にしたような音楽だ。さらに凄いのは、この巨大な音響が大胆にぶった切られると、第2ヴァイオリン末席奏者によるどこか懐かしい民族舞曲風のソロだけが残るのだ。この強烈な対比はブリテンの戦争レクイエム(1962年)を彷彿とさせるが、アイヴズのこの曲(1916年完成)は、ブリテンよりもほぼ半世紀前の曲ではないか!
 アイヴズの前衛性はこれほどまでにすごいものだったのか!
 しかしこの曲の価値を決定づけるのは、次の第3楽章だろう。これは交響曲第2番の価値を、やはり第3楽章が決定づけているのと同じだ。弦楽器を主体とした温かく簡潔な響きで、荘重な宗教音楽を静謐に進行させる。前楽章の攻撃性が嘘のようだ。使用される管楽器は極限まで限定されるが、その中で極めて重要な働きをするのがトロンボーンのソロだ。神の声の代弁者としてのトロンボーンの古典的役割が見事に生きている。この曲がもっと著名になれば、モーツァルトのレクイエムと並ぶトロンボーンの名曲として認知されていくのではあるまいか。
 終楽章は再び別動隊が加わる。最後列の幸福感溢れるハープとヴァイオリンに加えて、客席カミテ中央に陣取った銅鑼などの打楽器部隊を浦部が指揮する。この打楽器群が、まるでガムラン音楽のようにも、チベット佛教の法要にようにも聞こえてくる。前半プログラムで聴いたガムラン風のピアノ曲の印象がここでよみがえる。舞台最後列の合唱団が法悦のヴォカリーズを聴かせるが、四方八方に陣取って歌っているのではないか、という錯覚を受けた。包み込まれるような温かさがあったからだ。天国でもあり極楽でもある、宗教の違いを易々と超越した不思議な陶酔を持った幸福感に浸ったまま、静かにフェードアウトしていって終わる。アイヴズの頭の中には何という途方もない思想があったのだろうか。アイヴズの凄さは技術の前衛性にあるのではない。その思想の遠大さが凄いのであり、前衛はそれを実現するための一手段に過ぎなかったのだ。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

遠藤啓輔のコンサート日記 (2022.12.24)

 名伯楽・福島章恭が、やまと国際フィルハーモニー管弦楽団とやまと国際オペラ協会合唱団を指揮して、ベートーベンの9番を指揮。(2022.12.24.やまと芸術文化ホール)。
 この演奏会は、前半にヘンデルのメサイアの抜粋が演奏される贅沢なプログラム。オーケストラのみの序曲は各音をテヌートでしっかり鳴らして器楽の美しさを強調。一方、2曲目から加わる合唱は、マスク着用の制約がありながらも語り掛けるような積極的な表現が見事。ドイツ語とは異なる、英語ならではの柔和な発音の魅力も堪能でき、「wonderful!」などは音楽というよりも心底から発せられた感嘆のような生々しさがあった。
 そして後半がベートーベンの交響曲第9番。この曲は、慣習的なオーケストレイションの改変を踏襲するか、それとも(一見、不合理な印象を与える)ベートーベンの原典通りに演奏するか、というスタンスの違いがあり、僕は原典通りの演奏を好む。福島の演奏は徹底した原典重視で、それだけでも嬉しかったのだが、今日はさらに、原典通りのベートーベンの楽譜が何故に魅力的なのか、ということが説得力を持って伝わってくる名演だった。
 冒頭、細分化された主題の断片が徐々に開陳されるのに合わせて空虚五度の和声を作る管楽器の保続音が徐々に増えていくのだが、その加わっていく一音一音に存在感があり、そこかしこから新たな生命体が発生しているかのような凄みがあった。そしてそれらはフル・オーケストラによる第1主題の提示で頂点を迎える、という一続きの発展する山を作っていた。この「湧き上がる新たな生命たち」という印象と「保続音の活用」という冒頭での表現が、この大曲の全体を通した説得力ある魅力となり、しかも、原典通りのベートーベンの魅力をも光らせた。例えば、本日はブライトコプフ社新版を使用していたが、第1楽章第2主題の提示はベーレンライター社版の旋律線を引用。この跳躍の大きな印象的な旋律線が「湧き上がる生命」という印象をさらに強くした。このように第1楽章は、旋律線をくっきりと浮かび上がらせて、複雑に絡み合う器楽の魅力を掘り下げて演奏。各音をしっかりと弾くが、ヘンデルよりはやや短めに切っており、ベートーベンならではの攻撃性と逞しさに繋がっていた。
 第2楽章は、クライマックスの木管の旋律をホルンにも吹かせるようなことは当然しないが、それでもホルンを強調。これによって、ホルンの動きがリズム中心の生き生きとした存在感を持ち、主旋律とはまた別の「新たな生命が沸き上がっている」ような興奮をもたらした。また、ティンパニが小型のケトル2個のみで演奏していたのが、この楽章で効果を発揮する。名高いティンパニ・ソロは小型の楽器を使うとコミカルな印象を与え、ベートーベンの諧謔的な魅力をも感じさせる名場面となった。そしてブライトコプフ社新版の最大の魅力であるトリオのクライマックス。ヴァイオリンの保続音とトロンボーンの短めの音が層を成すこの場面は、全曲の冒頭で「保続音の活用」という流れを作ったからこその説得力があった。
 第3楽章は、テンポ設定は速めなのに、しかし、時間が静止しているかのような、不思議な感覚を与えた。これは、冒頭が休符で始まるオーケストレイションを活かしているのに加えて、1小節内の強拍・弱拍の表現を敢えて排したことによるのだろう。もちろん、前半の二楽章が律動の生命力に満ちた演奏だったからこそ実現した、第3楽章の静止感だと言える。その中でもとりわけ、4番ホルンのソロが活躍するブロックの印象が強烈で、息の長いホルン・ソロと細分化されたその他の楽器の短い動機が織り成す不思議な音空間は「永遠の前衛音楽」と言えよう。金管のファンファーレはホルンがしっかり下支えしていることで立派な響きを作り出す。その直後の第2ヴァイオリンのファンファーレ・リズムの名残は、ベートーベンの指定通りの弱音で聞こえるのかどうか悩ましい箇所だと伺ったが、結局ベートーベンの指定通り弱音での演奏だった。しかし、ヴァイオリン両翼配置がなされた今日の演奏では、カミテの外側でひとパートだけ残ってファンファーレ・リズムを弾く第2ヴァイオリンの「孤独感」や「寂しさ」が、弱音の音量によってより意味深くなっており、ベートーベンの原典を信頼した判断が大成功だった。
 第4楽章は、合唱主題を提示するチェロ・ベースがヴィブラート無しの簡素な歌い方だったのが印象的。しかしここにファゴット共にヴィオラが加わると、豊かにヴィブラートをかけた人間味豊かなスタイルに変わる。最も音が目立つシモテ内側にヴィオラが配されていたからなおさら効果的だ。ここにヴァイオリンそして管楽器が加わってさらに豊かな人間賛歌となるのだが、この表現の雄大な変化は、たとえば単細胞生物が心を持った人間へと進化する様など、さまざまなイメージを投影することができる。これも、全曲の冒頭で示された「湧き上がる新たな生命たち」という印象が貫徹された結果だろう。合唱はこの曲でも、聴衆に表現が伝わってくる、語り掛けるような演奏を実現。各パートそれぞれに存在感があるので、フーガでの絡みつきの効果が素晴らしい。また、制約から解放されたような爽快感を持ってスフォルツァンドが表現されていたのも印象的だった。第4楽章は全体を通して、気付かれないように少しずつテンポ設定を遅くしていき、その極大が独唱(オクサーナ・ステパニュック、川合ひとみ、隠岐速人、デニス・ヴィシュニャ)の4重唱になった。この4重唱、突然異質なものが取って付けられたかのような違和感を覚える演奏も少なくないが、今日は必然性を感じさせるテンポに支えられて、ソリストたちが雄大に熱唱した。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする

遠藤啓輔のコンサート日記 (2022.12.22)

坂入健司郎が愛知室内オーケストラを指揮 (2022.12.22。しらかわホール)。
 1曲目はペルトの作品としては演奏機会が多い『カントゥス ~ベンジャミン・ブリテンの追悼』。弦楽合奏とチューブラベルのための作品で、以前聴いたときは、極めて静謐な作品と感じた。しかし今日の坂入の演奏は、真摯な祈りが貫徹した中にも、怒りさえ感じさせる動的なエネルギーが渦巻いていた。簡潔な動機に荒々しいパワーがあっただけでなく、保続音でさえ強烈なヴィブラートによって激しく明滅していたのだ。鐘の音も、1回1回の強さを明瞭に変えて、全体の流れにうねりをもたらしていた。しかし最後の鐘は弦楽に溶け込むような音量で、ようやく安息を得たかのようだった。その鐘のかすかな残響が消えるまで、祈りの音楽が持続していた。
 2曲目は川本嘉子のヴィオラ独奏で『ラクリメ ~ダウランドの歌曲の投影』。僕にとっての3大Bの一角を占めるブリテンは、完璧無比で高みから俯瞰するような神童らしさが魅力の一つだと思っていた。しかしこの作品は、心の弱さを曝け出すような近づき易さがあったのが意外だ。弦楽だけの作品だが、コントラバスのピッツィカートを効果的に使うなど、オーケストレイションが見事。断片的な動機をソロとオケが呼び交わし、それが悲痛な印象を強くする。しかし終盤では素朴な歌が紡がれ、それが安息をもたらした。
 後半はブルックナーの交響曲第1番。僕が坂入の存在を知ったのは、彼がブルックナーの墓所・聖フローリアン修道院に残した寄せ書きからである。そのようなブルックナーへの思い入れを持ったマエストロ坂入が、ブルックナーへの熱い愛情を前面に出した名演を繰り広げた。冒頭の第1音からして既に、思いの丈をすべて注ぎ込んだような密度の高いエネルギーがあり、その後に続くあらゆる音もその充足感を受け継いだまま衰えることが無い。宇野功芳が最大限の賛辞としてよく使った「響きにコクがある」とはこういう音のことなのか、とようやく理解した。第1ヴァイオリン6人~コントラバス3人、という少人数の弦楽器が、「ブルックナーの生命線は弦楽器」ということを改めて納得させる熱演を繰り広げる。とりわけ刻みを中心とする伴奏音型を弾く際の力強さが素晴らしく、フレーズの語尾まで明確なキャラクターをもって弾き切る。同じリズムの繰り返しでありながらも、和声が1小節ごとに変化することで陶酔感をもたらすブルックナーの魅力が、弦楽器の伴奏の土台が確固とした力を持ったことで実現していた。
 もっとも僕は、昨今のオーケストラは弦楽器があまりにも多すぎるのではないか、という疑問を持っているので、むしろこのぐらいの人数でちょうど良いと再認識した。弦が多いと木管の響きの影響力が落ちるのだ(弦を増やすのなら、朝比奈隆がしていたように木管を倍管にすべきだ)。今日はもちろん、木管と弦がブレンドした音色を楽しめたが、これは木管の各奏者の全身全霊をかけた吹奏のおかげでもあろう。
 そしてこの曲の白眉である第2楽章アダージョは、更なる共感に満ちた名演。3本の聖なるフルートは極端に突出させることなく、ブルックナーの故郷オーバーエスターライヒの空気に溶け込んでいるようなさりげない表現。逆に、ヴィオラの上昇音型は、トップに座った川本嘉子の強力なリードで強烈な存在感を放っていた。ヴィオラの上昇音型はあらゆるブルックナー作品に共通する特徴だが、僕はこれらを、天国まで吹き上げるような強烈な祈りの表現と考えている。そうした僕の好みに見事に適合する表現だったので大いに感動した。また、この楽章に頻出する五連符と六連符の並行は、その衝突が緊張感をもたらすのではなく、それぞれが拍子の制約から解き放たれて自由に飛翔しているかのような印象を与えた。その一方で、第二ヴァイオリンやヴィオラを中心に頻出する長大な分散和音には不穏な緊張感があり、多様な表情が盛り込まれた奥行きのある楽章として表現されていた。
 スケルツォでは大重鎮・呉信一が客演首席を務めたトロンボーンが大いに存在感を放つ。ホルンより1小節遅れて入るなど、「均整を壊す」トロンボーンの役割を見事に果たし、面白さを引き立てた。トリオにおける2番トロンボーンのソロも、8番を先取りしたような面白い音響になっていた。そして、初期の交響曲にしかないコーダを、開放感と喜びを爆発させるように締めくくった。
 フィナーレでも弦の伴奏の活躍が音楽の土台を固めていたが、とりわけ裏拍での打ち込みが複雑な面白さと推進力を出していた。管楽器は、練習番号Eなどのように1小節単位の保続音の連続を、力強く入って程好くテンションを緩めるという表現で徹底。これが全体としての生き生きとした表現に繋がっていった。こうした地味な部分の徹底の積み重ねが、全体の表現へと昇華されていたように思う。フル・オーケストラが逞しく鳴る場面でも、田舎風の素朴な表現でも、手を合わせて祈りたくなるような感動が随所にあった。最後は大曲を締めくくるにふさわしく堂々とリテヌートされ、客演首席の稲垣路子(京響)らのトランペットのリズムが輝かしくホールを満たした。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする