2022年10月30日

遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.28)

関西フィルハーモニーの定期演奏会を首席指揮者の藤岡幸夫が指揮して、日本の作曲家の作品だけで構成した意慾的なプログラムを聴かせた(2022年10月28日、シンフォニーホール)。
1曲目は、木島由美子『Pleuvoir~あめふり~』を作曲者臨席で演奏。2楽章構成の小品ではあるが、各々の楽章が複数のブロックから成り立っているので、長大で変化に富んだ大曲を聴けたような充足感がある。童謡風の朗らかな旋律と、ハープやグロッケンの明るい音色が印象的な一方で、低弦を中心にした硬質なベースラインが音楽を支えており、親しみやすさと構築性が両立している。管楽器は1管編成の木管と2本のホルンのみ、ティンパニも無し、という小編成のオーケストラの響きは、瑞々しさの中に少し濁りがあるのが魅力的で、ドビュッシーの管弦楽曲を彷彿とさせた。

 2曲目は伊福部昭のヴァイオリン協奏曲第2番で、独奏は大阪が生んだ世界の至宝・神尾真由子。冒頭からいきなり、神尾の攻撃的なソロに鷲掴みにされる。音楽への没入は、神尾の魅力であると同時に、没入のし過ぎでゆとりが無くなりかねないという弱点にもなり得る危うさをはらんでいる。しかし今日の神尾は、生命力が炸裂する伊福部の音楽に憑依したかのように没入すると同時に、その楽しさを遊ぶゆとりをも感じさせた。神尾の表現者としての凄みが更に深まった印象だ。そして印象的だったのは第2楽章。伊福部と言えば、密度の高いオーケストラの音が猪突猛進に突き進むのが魅力だと思っていた。しかしこの2楽章では、最小限の音の要素が、流れずに空間の中を漂っているような不思議な魅力を持っていた。伊福部という作曲家のスケールの大きさを再認識する必要に駆られる傑作だ。

 最後は、フィロムジカの歴史の中においても重要な意味を持つ、貴志康一の『佛陀交響曲』。冒頭の茫洋たるカオスの表現は何度聴いても(演奏しても)その見事さに唸らされるが、今日の藤岡/関フィルはそうした前衛的な音響を各所で強調。打楽器もまじえた喧騒のような音響をどぎつく表現していた。特にスケルツォ楽章はまるで打楽器アンサンブルのようだ。印象的なのは、そうした前衛的な音響はおおむね、主題部間の移行部分や展開部で用いられていること。主題部には耽美的な旋律を書いているので、形式美を実にうまく活かして、美しさと前衛性を両立していると言える。貴志青年の、老練な作曲技法だ。

 そして藤岡の演奏が見事なのは、特に前半楽章ではそうした前衛性を強調しつつも、終楽章では純音楽的な清澄さへと昇華していくという、曲全体を見通した大きなストーリー性を持っていたことである。もちろん終楽章でも、とてつもなく前衛的な不協和音が出てくる(僕は「釈尊の死を嘆く場面」だと思っている)。しかし、前半楽章が打楽器を中心とした雑音的な前衛性なのに対し、終楽章は和声による前衛なので、やはり純音楽的だと言える。カオスの世の中に誕生した釈尊が清澄な法を見出す、という崇高なストーリーと言え、これを音で描くことに成功した貴志は、やはり鬼才だ。
 要所で重要な働きをする赤松由夏のヴァイオリン・ソロは、オペラに長けているだけあって微妙な色彩感の変化に魅せられる。そして何と言っても今日の演奏で圧倒的存在感を放ったのは、中島悦子が率いるヴィオラだ。豪放に副旋律を吹き上げたかと思えば、伴奏に回れば猛然たるシンコペーションでオーケストラ全体に活力を与える。ステージの中心に陣取って、オーケストラ全体のエンジンとしての働きを見事に果たしていた。
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遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.27)

 今日はニルセン尽くしの一日。
 まずマチネは、Kカンパニーのバレエ『クレオパトラ』を観る(オーチャードホール)。これは熊川哲也がつくったオリジナルのバレエだが、音楽は全てニルセン作品のコラージュでできているのだ。演奏は井田勝大指揮のシアター・オーケストラ東京で、ピットの中にコントラバス5人を擁する大オーケストラが陣取って、ニルセンの音楽をパワフルに演奏した。

『アラディン』の中の「祝祭行進曲」(組曲版では第1曲目)を最重要曲として扱っているが、ほかにも交響曲など多くの作品を引用。そればかりでなく僕が全く知らない曲も多数あるので、僕にとって未開拓のジャンルである劇音楽からも多く引用しているのだろう。肉厚でギラギラした響きが炸裂し、別世界への憧れに満ち、複数の要素が異種並行するニルセンの音楽は、権力欲と色欲が荒れ狂うクレオパトラの濃密な人生を群舞によって描き出すのにぴったりだ。そして、音楽の選択が実に秀逸。夜明けの場面に『ヘリオス』を使用するのは当然として、僕が特に感動したのは、カエサルがブルートゥスらに暗殺される場面。ここに第5交響曲の第1楽章を使用。雄大なコラールに軍楽隊が暴力的に闖入してくるこの音楽を使用することによって、栄華を誇るローマの町の日常と、カエサル暗殺という大事件とを、同時に描き出すことに成功していた。

僕は初演時の『クレオパトラ』のツアーも観ているので今回が2度目の鑑賞になるのだが、やはり2度目の方が感慨深く観られる。今回特に唸らされたのはクレオパトラがカエサルに初めて謁見する官能的な場面で、4群に分かれたオーケストラが全く異なる音楽を同時並行させる前衛性で名高い「イスパハンの市場」(『アラディン』より)が使用されている。初演時に観たときは「舞台上にクレオパトラとカエサルの2人しかいないのに、何故4声部からなる音楽を使うのだ?」と疑問に思った。しかし2度目となる今日の鑑賞で、当時の自分の感性が浅はかであったことを思い知った。確かに踊っているのは2人だが、巧みな照明によって彼らの影が壁面に多重に映り、まるで6人以上の大人数が躍っているように見えていたのだ。そしてこれは、人物は2人であっても、その中に「謀略家」「権力者」「女」「男」…など実に様々な顔があり、それらが入り乱れて目眩のするような駆け引きを繰り広げていることの暗喩であろう。その膨大な人格の乱舞を表現するのに、「イスパハンの市場」を引用したのは慧眼というほかない。
クレオパトラが死を決意する最後の場面では、クレオパトラ役の浅川紫織が壮絶な演技によって、あまりにも多くの悲劇を背負い過ぎた一人の人間の激烈な人生を振り返る。ここでの音楽は前述の「祝祭行進曲」(『アラディン』)である。

ソワレはサントリーホールに移動して、巨匠ブロムシュテットが指揮するNHK響を聴く。
前半はグリーグのピアノ協奏曲で、ブロムシュテットは遅い悠然たるテンポでオーケストラを歌わせて大陸的に広いイメージを抱かせる。対照的にソリストのムストネンは、動機を鋭いアタックで弾き始めるもすぐに減衰するスタイルで徹底し、一瞬で溶けて消える雪のような印象を受ける。このようにソロとオーケストラの様相が正反対であることによって、重厚感を担当するオーケストラと煌めきを担当するピアノ・ソロ、というように役割分担をしているように感じられ、多層的な充実感を感じさせる演奏になっていた。

そして後半がニルセンの交響曲第3番『エスパンシーヴァ』で、今日のニルセン尽くしの締めくくりだ。前半のグリーグとは対照的に、テンポの推進力に惹き込まれる動的な演奏だった。
冒頭のユニゾンの打ち込みは爆音ではなくむしろ端正だが、かえってリズムが印象深く記憶に残る。そのことで、全曲にわたって回想される簡潔なリズムに既視感を覚えることになり、全曲の統一感が生まれていた。そのほかにも例えば、第1楽章で印象深く鳴らされたトランペットのトレモロが、フィナーレでホルンのトリルとなって再帰するなど、全曲を通しての説得力ある統一感が印象的な演奏であった。昼間に『クレオパトラ』を観た印象が残っているため、ニルセンの音楽には壮絶な人生を反映できるようなエネルギーに満ちていることを強く感じる。それに加えて、今日のブロムシュテットによる説得力ある交響曲の演奏では、ひとつの完結した小宇宙という絶対音楽ならではの崇高さを感じた。
中でもこの第3交響曲は、第2楽章のヴォカリーズを筆頭に、実に微細な音楽表現が盛り込まれている。まるで森羅万象を短い演奏時間に集約したような作品であり、それを強く印象付ける演奏であった。

それにしても、ブロムシュテットのテンポ設定は素晴らしい。フレーズを納めるリタルダンドなどが、単に見えを切っているのでなく、その次に来る新たなテンポを導入する布石となっていることを強く感じさせ、テンポの緩急によって曲全体に呼吸を持った推進力がもたらされているのだ。特に終楽章の終盤近くでは、目的地に向かって音楽が自然に吸い寄せられていくような圧倒的な推進力が聞かれた。これはネーメ・ヤルヴィが得意とする表現だが、まさにライヴで音楽を聴く醍醐味の一つである。実に贅沢なニルセン尽くしの一日であった。
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遠藤啓輔のコンサート日記(2022.10.21・22)

 愛すべき巨匠ミシェル・タバシュニクの指揮による大阪フィル定期。我らが岩井先生も勿論ご出演(フェスティヴァル・ホール)。
 1曲目はヴェーベルンの『管弦楽のための6つの小品』。4管編成を超える巨大編成のオーケストラでありながら、それが大音響で鳴り響くことはほとんどなく、ごくわずかな楽器が演奏する短い動機を紡いだ短い音楽の集合による、静謐な組曲である。冒頭の篠崎孝による弱音器付トランペットを始め、あらゆる要素が疑問なくそこに存在すべき音、という印象を受けた。現代音楽を個人練習していると、はじめのうちはハチャメチャで訳が分からないと感じていても、ある程度回数を繰り返すうちに、あらゆる要素が繋がって疑問が雲散霧消するような爽快感を感じることがある。今日の演奏はまさにそのような、現代音楽を聴く醍醐味であった。

 2曲目はストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』で、新古典主義の作風による合唱付きの作品。管楽器はやはり巨大編成で、2台のピアノやハープまで加わるが、弦楽器はチェロとコントラバスのみ、という特異な編成。人間の声を、チェロ・ベースでどっしりと支えた上で、ピアノやオーケストラの高音がどぎつく輝くという、幻惑させられるような音響になっていた。この曲もヴェーベルンと同様に静謐さを基調にした音楽。名匠・福島章恭の薫陶を受けた大阪フィルハーモニー合唱団は正確な和声によって、岩の聖堂の中にいるかのような冷涼で厳粛な色彩感を実現。そうした中にあって、時折入る「アレルヤ」の歌詞のみが柔らかな温かみを持っていた。透徹した美しい音楽の緊張感ある流れと、「アレルヤ」による時折のホッとする弛緩、という、硬軟のバランスが良い名演であった。合唱の見事さに感激したタバシュニクは、合唱団の前を駆け回って讃えるという茶目っ気を見せた。

 後半はチャイコフスキーの交響曲第4番。冒頭の運命動機の最後を締めくくる下降音型の音程の正確さを聞いた辺りから、詰めるべきポイントを厳格に整理した演奏になるのではないかと予感させる。実際、フレーズの中のスタッカートなどの表現法の徹底など、オーケストラ全体でスタイルが見事に統一されていた。また、音量バランスも精緻で、それが説得力に繋がっていた。たとえば第1楽章のクライマックスでトロンボーンの大音響を早めにディミヌエンドさせると、そこから弦楽器による主題の再現が浮かび上がって来て、前後がつながりを持った練り上げられた構成感が見えてきた。このように押さえるべきところは厳格に押さえていたが、全体の印象は、むしろ自由奔放。即興的におこなっていると思われるルバートやフェルマータが頻出し、大フィルの楽員たちは「ほう、こう来たか!」というような笑顔を頻繁に見せていた。圧巻は第2楽章の再現部。弦楽器による第1主題を、田中玲奈(フルート)と船隈慶(クラリネット)の副旋律が彩るが、主旋律の大きなルバートと呼吸を合わせて木管の副旋律もルバートしていたのだ。このように大フィルらしい豪放な自発性を持った演奏が可能になったのも、細部を徹底して正確に詰めていたからこそだろう。また、各ブロックが明確な個性と存在感を持ちつつも、全体として大きな音楽の流れがあったのも流石だ。僕は木に竹を接いだようなフィナーレの祝祭感に疑問を持っているが、今日の演奏だと、このフィナーレも「個性を持った各ブロックの一つ」として疑問なく受け入れることができる。打楽器群の引き締まった音色もそうした演奏に寄与していて、特に堀内聖子(客演)のトライアングルの硬質な音色がオーケストラの音響の核として最後まで働いていた。
posted by 京都フィロムジカ管弦楽団 at 16:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする