飯守泰次郎が関西フィルと得意のブルックナーを演奏(2022.03.25。シンフォニー・ホール)。
前半はブルックナー若き日の作品である交響曲へ短調。
第1楽章は、冒頭主題を岩谷祐之率いる第1ヴァイオリンが濃厚な味付けで演奏。ただし全体としては、速めのテンポをほとんど変化させずに通す。第2主題部はもっと遅いテンポで濃厚に歌う解釈も有りだと思うが、もともと飯守/関フィルは第2主題部を早めのテンポで素朴な味わいを醸し出して歌うブルックナーを積み重ねてきたので、この両者ならではの歌謡主題の表現と言える。そして、このコンビならではの、鄙びた味わいのある響きが魅力的で、オーバーエスターライヒの農村風景が目に浮かぶようだ。また、ブルックナーのオーケストレイションの簡潔な見事さに感銘を受ける。弦楽だけでかなり長く展開されたり、保続音がホルンから木管にリレーされたり、そうした何でもない簡潔さが、オーケストラの美しさを際立たせていたのだ。そして、ポリフォニーの中核を担うヴィオラが、中島悦子のリードのもとで逞しく弾き込んでおり、立体的な立派さが生み出された。展開部の抽象絵画のような前衛性、コーダ前半における淡い色彩の微細な変化に、紛れもないブルックナーの独創性が聞かれた。そして冒頭の下降音型を各楽器で連呼するコーダ終盤は、それぞれが濃厚な表情でロマン派的なうねりがある。冒頭を濃厚に歌い込んだことによる、説得力ある楽章全体の整合性だ。
第2楽章は、主旋律よりも伴奏の保続音が先入りするので、そこに音色それ自体の魅力が求められる。この名コンビは音それ自体に鄙びた魅力があるので、この楽章を演奏するのにぴったりだ。第1主題部のクライマックスは、低弦のリズムをグロテスクには演奏せず、深い響の中に馴染ませる。この部分の盛り上げ役は中山直音によるティンパニのクレッシェンドで、「青年」ブルックナーの血のたぎりを感じさせた。舞曲風の中間部はリピートを遵守したおかげで、主部との長さのバランスが良い。楽章の最後は、松田信洋のホルンが農村風景を優しく描き出し、そこに中山のティンパニが程好い軽快さをもって足音を刻む。故郷を散策する若き日のブルックナーが見えるようだ。
この曲のスケルツォ(第3楽章)は、後期作品の簡潔さとは異なるトリッキーな複雑さが魅力だが、今日はそれをことさら強調せず、パリッとしたブルックナーのスケルツォならではの魅力を前面に出す。足がもつれるようなトリックは隠し味として消化され、特に34における池田悠人・堀川正浩のトランペットの闖入は効果的だった。トリオは木管を中心に分厚い響きで演奏し、最後だけ加わるコントラバスの響も重厚。簡潔なオーケストレイションながらも濃厚な存在感があった。ダ・カーポ後のスケルツォは、提示とは異なり大見えを切るようなリタルダンドによって終える。完璧なシンメトリーを成す後期交響曲とは異なる、初期の作品だからこそ成立する面白さだ。
第4楽章は早めのテンポで通しながらも鄙びた響きで魅了する第1楽章の表現を踏襲しつつ、100以降で三連符によってポリフォニーが雄大になる様や、300付近での弱音ながらも立派な存在感を持つ木管のフレーズが雄弁で、立派な終楽章になっていた。池田・堀川によるトランペットの不協和音(315)は、9番フィナーレを先取りしたように効果的で、やはりブルックナーは最初から偉大だった、ということを再認識した。
後半は、知る人ぞ知る初期の傑作・交響曲第θ番ニ短調。
第1楽章は、試演時の指揮者デゾフが「どれが主要主題なのか分からない」と言ったという伝説をまるで逆手に取って、その「弱点」を魅力に変えてしまったかの様な演奏。楽章全体が(ほぼ)一つの塊であるかのような、(ほぼ)切れ目のない推進力を持ち、途方もない巨大な奔流となっていたのだ。アレグロ部分をそのような推進力によって一貫させたため、その流れを断ち切る役目を果たす、トランペットのファンファーレや、宗教音楽的に崇高なパッセージの魅力が、一層際立って印象付けられる。ソナタ形式を用いているのに、主要主題よりも副次的要素の方が魅力を放つ破格の音楽と言える。デゾフの反応は、この作品の独創性を正確に理解したからこその驚きと言えるのかもしれない。また、全体としてこの曲を特徴づけるスビート・ピアノが効果を発揮していた。ブルックナーの場合、緊張感で身震いするような極限の弱音はマイナスだというのが僕の持論だが、今日のスビート・ピアノはそれとは逆で、音楽の流れのなかにホッと一息つく瞬間を設けたかのような効果が出ていた。
第2楽章は今日の演奏会の白眉。音一つ一つが温かく愛情に満ちている。弦と木管が対置される序盤では、とりわけ佛田明希子のオーボエを中心とする響きに哀し気な優しさがあって、涙無しに聴けない。楽章が高みに登るにつれて、高音域を中心に様々な要素が加わってくるが、そうした場面でも、地鳴りのように冒頭音型がチェロ・ベースで弾かれているのが安心感を醸し出す。複雑なシンコペーションが、それを実現することが自己目的化しておらず、飽くまでも温かく穏やかな流れが音楽の中心に座っているのが良い。下野竜也の演奏を聴いて以降、最後の冒頭音型の回帰の前の総休止(155)をどう指揮するのかが、この楽章の注目点の一つになった。2小節弱に及ぶこの総休止を、下野の場合はきっちり空振りして空白の印象を強め、沈黙の中からようやく絞り出した言葉が冒頭音型だった、といった感動を生んでいた。対照的に今日の飯守の演奏は、休止をカウントすることなく、正確な長さよりはかなり短めに済ませて冒頭音型を回帰させた。音楽の穏やかな流れの中の、ちょっとした一呼吸といった無理のない流れがある。どちらのスタイルも素晴らしく、それぞれに異なる魅力がある。
第3楽章のスケルツォは、風早宏隆率いる黄金のトロンボーンを中心とした響の立派さが印象的。第2楽章が、ブルックナーとしては珍しいトランペット・トロンボーン・ティンパニを全く使わない楽章だったため、それとの対比が見事に出ていた。序盤の金管の打ち込み(5)を、協会版スコアより1小節後ろにずらして後押し感を演出する演奏も多いが、今日は協会版スコア通り木管と同時に出る演奏で、簡潔さが優先されている。トリオは、終盤の、まるで雲行きが怪しくなったかのような不気味な色彩感が印象的。初期作品を特徴づけるコーダは、ホルンの地鳴りのような低音が効果を発揮、9番の1楽章を先取りしているようだ。そして最後は大きくテンポを落とし、弦楽器が上昇音型と下降音型を交差させて十字を切る様を瑞々しく描き出した。
フィナーレは、モデラートの指定を活かした遅いテンポで始めるが、池田悠人のトランペットが不吉を告げるラッパのように鳴り響くと(15)、打って変わって速いテンポでフーガ主題に突入。フーガは綿密というよりも、各主題が別々に命を持って絡み合う、生物たちの群がどんどん姿を変えていくような恐ろしい迫力があった。ホルンの前打音付き打ち込みが2回だけ入る不思議さも(157)、生物の突然変異のようで腑に落ちる。楽章冒頭の要素が再現される際は遅いテンポに切り替えられるが、このようにテンポで分かりやすく区分されることによって、この楽章が基本的にフーガを中心とした楽章であることが印象付けられる。第1楽章と合わせた印象として、θ番という曲が、音楽の一貫した怒涛の流れを軸とした、ブルックナーの作品の中でも独特な魅力を持った傑作であるという印象を強くした。