大阪フィルハーモニー合唱団の実力を飛躍的に向上させた声楽界の名伯楽で、オーケストラの指揮者としても活躍する福島章恭が、古典の王道と言うべき贅沢なプログラムを演奏(2021.04.17。杜のホールはしもと)。
オーケストラ(東京フォルトゥーナ室内管弦楽団)は第1ヴァイオリン6人の小編成だが、ホールの容量に相応しい編成。むしろ弦が少ないと、木管が良く聞こえるという良さがある。やはり6人の第2ヴァイオリンは対抗配置でカミテに配し、中低弦はシモテにヴィオラ、カミテにチェロ・ベースを置く。井上道義らがしばしば採用する配置で、ヴィオラが良く聞こえるので充実した内声の動きを楽しめた。
オープニングはモーツァルト『フィガロの結婚』序曲。旋律の美しさ、楽器の音それ自体の美しさを噛み締めながら味わうことができる落ち着いたテンポ設定。フレーズの歌い納めが丁寧で息遣いがある。こうして生命力を得た各ブロックが、提示と再現で微妙にオーケストレイションが違うことが鮮烈な印象を放つ。その結果、簡潔な繰り返しからなるこの序曲が、変化に富んだものとして聞こえてきた。そして、全体として歌心を重視した演奏ながらも、刻みの和声の変化や、刻みそれ自体の律動感など、メロディーを支える音楽の骨格それ自体を実に魅力的に演奏。コーダでは弦楽器が連続ダウン・ボウで力強く締めて、彫琢の立派な印象を残した。
続いてやはりモーツァルトの、交響曲第41番。神の名を冠するにふさわしい傑作だが、僕はより人間臭い40番に惹かれる。しかし今日の演奏では、41番にも存分に人間味のある愁いを帯びた表情があることが良く分かった。落ち着いた遅めのテンポで演奏され、メロディー一つ一つの魅力を存分に味わうことができたためだ。とりわけ、転調した際の色合いの陰りが素晴らしい。第1楽章や終楽章におけるカノンやフーガにも、やはり人間臭さがある。フーガは神の域にいたる音楽形式だと思ってきたが、今日の演奏を聴くと「温かい人間味もあるんだよ」という気がしてくる。
リピート大好き人間の僕にとっては嬉しいリピート遵守の長大な演奏。繰り返しの回数が増えた結果、フィガロ序曲でも感じた、提示と再現での微妙なオーケストレイションの変化の妙味が一層感慨深くなった。
第2楽章は、第1ヴァイオリンだけで始まる冒頭の一瞬に「ヴァイオリンの音はなんて美しいんだ!」と今更ながら感激。第1ヴァイオリンのパート・ソロで始まるブルックナー9番のアダージョの源流はここにあるのではないか、と邪推した。愁いを帯びた魅惑的なメロディーで始まった第2楽章が、ほとんどリズムと和声だけでクライマックスを形成する様は圧巻。モーツァルトは古典の頂点であるのと同時に、永遠の前衛でもあるのだろう。
第3楽章もやはり遅めだが、メヌエットとしての舞踏の雰囲気がしっかり出ている。同人数で対峙した両ヴァイオリンが異なる動きをしていることと相まって、男神と女神が崇高な風格を乱さずにダンスをしている様が見えるようだ。
フィナーレもやはり人間味あふれる演奏だが、この楽章では熱い血のたぎりが印象的で、終盤に向けて情熱を盛り上げていった。「晩年」とはいえ、モーツァルトは作曲当時まだ32歳。そうした青年らしい若々しさを感じさせる演奏だった。
後半はベートーベンの交響曲第7番。モーツァルトの澱みない音楽の流れとは対照的に、ベートーベンは時に力業を行使しているのが面白い。第1楽章の序盤で、保続音をフェルマータで思いっきり引き延ばしてから、ティンパニが牽引する怒涛のリズムになだれ込む瞬間が典型例。弓を弾き絞って矢を放つように、持続の緊張とその反動としての暴発が途方もない力を生み出すのが良く分かる演奏だった。
また、モーツァルトに楽器それ自体の美しさを感じたのに対し、ベートーベンでは楽器がブレンドされた美しさを再認識した。特に第3楽章のトリオでの、ホルンを核とした管楽器の響きに改めて感銘を受けた。
ベートーベンも遅めのテンポによるリピート遵守の長大な演奏。そのおかげで何度も聴いたこの曲の新たな魅力に気付くことができた。例えば付加的な箇所の存在感。第2楽章冒頭は管の和声で意味深に始まることで有名だが、とりわけ今日の演奏はこれを雄弁に吹奏。続く第3楽章のスケルツォは、5つの四分音符で唐突に締めくくる悪戯っぽさを強調。僕は「第2楽章冒頭の問いの答えが、第3楽章の末尾なのでは?」と邪推した。このように聴衆が自ら考えて楽しむことができる音楽であった。
あるいはメロディーの美しさ。この曲は舞踏的リズムの凄さが強調されがちだが、実は美しいメロディーに溢れている、ということが良く分かった。しかも、リズム的要素とメロディー的要素のどちらが前面に出るか、ということでせめぎ合うようなスリルさえあった。
そして、リピート遵守で特に長大になった両端楽章は、どちらもクライマックスを楽章終盤に設定(そこまで体力をセーブした金管の持久力に拍手!)。大曲が雄大な抑揚を持って深く息づいているようだった。
アンコールは定番の『ピッツィカート・ポルカ』と『ラデツキー行進曲』だったが、どちらも中間部の色合いの変化が見事に描かれた結果、層の厚さを感じさせる音楽になっていた。
何度も聴いた曲ばかりのプログラムの、全く奇をてらわない演奏、それなのに新鮮で充実感のある喜びが得られた、稀有な演奏会であった。