2021年02月16日

遠藤啓輔のコンサート日記(2021.02.12・13)

 常任指揮者の尾高忠明が大阪フィルを指揮。我らが岩井先生ももちろんご出演(2021.02.1213。フェスティヴァル・ホール)。演奏曲はブルックナーの交響曲第9番。僕はこの曲が人類の至高の創造物だと確信している。しかも、尾高が指揮するブルックナー9番は、僕の二十歳の誕生日を祝ってくれたコンサート(19931210日、愛知県芸術劇場コンサートホール。東京フィル)ということもあり、特別な思い入れを持って聴きに行った。

 そして今日の大阪フィルとの演奏は、余計なことはせずブルックナーが書いた音符を愚直に信じて演奏した結果、ブルックナーの底知れない巨大な魅力が明らかになる典型のような名演だった。主題部が代わっても、フレーズの収めに入っても、テンポを濃密に溜めたり小節を付けて歌い込んだりせず、淡々と進行させる。楽譜に無いパウゼを入れることも無い。その結果として、ブルックナーのオーケストレイションの凄みがかえって明らかになったのだ。

愚直な演奏だからこその効果は、冒頭から既に出ていた。音量指定は同じピアノながら、音色は軟らかいが人数で勝るホルンの動機と、人数は少ないがティンパニで縁取られた(中村拓美の音色が良い!)硬質のトランペットの対比の妙味が、空間的広がりをもたらす。同様の空間的広がりはまた、全曲の各所で聴かれた。第1楽章提示部の第3主題直前では、やはり同じピアニシモの音量指定ながら金井信之のクラリネットよりも、ゲシュトップした高橋将純のホルンの方が遠くからの音のように聞こえた。そもそもからしてクラリネットは遠くにいるように聞こえる音色の楽器である(マーラー1番の冒頭が思い出される)。それよりも遠く感じるゲシュトップ・ホルンが空間的広がりをもたらす。一方、第3楽章K直前の大森悠のオーボエから高橋へのリレーもやはり広がりを感じさせるが、はっきりした音色のオーボエがフォルテで吹いてからピアノのホルンにリレーするので、第1楽章に比べると相対的に近くにいる印象を受ける。楽章によって距離感のヴォリュームが微妙にコントロールされた、ブルックナーのオーケストレイションの妙味が明らかになっていた。

1楽章は、提示部全体を通して「なんぼなんでも淡々とし過ぎかな」という印象を少し持ったが、再現部に入ると、木管の保続音やホルンのカノンなどが加わった、提示部よりも明らかに厚いオーケストレイションの見事さが印象的に届いてくる。特に第3主題部再現部では、スタッカートの1番トランペット(篠崎孝)とスタッカート無しの2番トランペット(高見信行)の吹き分けが立体的な音響を生み出していた(ブルックナーは決して書き間違えていないのだ!)。

2楽章もインテンポを貫徹した演奏で、スケルツォ主部の展開部と再現部のブリッジ部分でさえテンポを変えない。この結果、トリオからスケルツォ主部にダ・カーポした瞬間、輪廻する無限の小宇宙に取り込まれたような印象を受けた。トリオはせわしなく打ち込まれるピッツィカートに厚みがあり、大フィルの弦の音色はピッツィカートでさえ重厚だと改めて感じた。

3楽章では、第1主題部のホルンとトランペットの天国的掛け合い部分で、間隙を繋ぐ弦楽合奏のブリッジを、チェ・ムンス率いるヴァイオリンが譜面どおりの刻みで(トレモロではなく)演奏。これがキラキラと輝くような印象をもたらし、金管の輝きの魅力を一層引き立てていた。このブロックではさらに、神を象徴するトロンボーンが響を支えていること、死者のイメージを体現した楽器であるヴァーグナー・テューバが使われていないこと、の意味深さも感じることができた。

また、種々の要素が各楽章を貫通している様相が浮かび上がり、巨大な有機体としての説得力があった。例えば、第1楽章の最終局面は、トランペットによる旋律的要素よりも、ホルンとトロンボーンによる伴奏リズムのオスティナートが圧倒的印象をもたらしていた。ホルン軍団とトロンボーン隊とが火花を散らして対決しているようであった(両者がステレオ的に配されていたことも好結果をもたらした)。大音響だが威圧的な印象は無く、地の底から(あるいは心の奥底からか?)自然に吹き上がってくるような力を感じ、第1楽章が終わった後、しばらく茫然自失状態が続いた。これに続く第2楽章には当然、究極のオスティナートとも言うべき同音連打がある。中村のティンパニが、熱さではなく冷徹さを前面に出していた。第3楽章では、カタストロフィでの6連符の無機質な非情さが圧倒的。このように各楽章を貫徹した冷徹なリズムによるオスティナートは、未完に終わったフィナーレの第1主題部においても打ち付けられる筈だったのだ。

 そして、ブルックナーで最も簡潔で且つ最も重要な要素である、上昇音型と下降音型が、各楽章を貫通して浮かび上がってくる様が見事であった。第1楽章Mの直前では、篠崎のトランペットが鋭めのアクセントで上昇音型を演奏。この変容形として、第3楽章のカタストロフィを導く上昇音型を、高見の2番トランペットが鋭く吹き上げた。このトランペットの上昇音型は、未完に終わったフィナーレにおいて、フーガの輝かしい締めくくりへとつながった筈だ。上昇音型はブルックナーにおいては、天を仰ぐ敬虔な祈り人の象徴であり、逆に下降音型は降臨する神の象徴であったように感じられる。しかるに9番のスケルツォにおいては、それらがグロテスクに変容している。実は今日の第2楽章は、同音連打にスポットを当て過ぎておらず、むしろその後のフル・オーケストラによるグロテスクな上昇音型や、福田えりみ率いるトロンボーンの悪魔的な下降音型の凄みがより印象的だったのだ。特に下降音型は、第2楽章ではグロテスクに変容してしまったものの、第3楽章の「生からの別れ」においては、自然の恵みを象徴する楽器である高橋のホルンと、死者を象徴する藤原雄一のヴァーグナー・テューバ、と交互に容貌を交替させる。大地や、そこに眠る死者たちのように思われた。下降音型はこのように、第2楽章で悪魔のように降臨してきたが、第3楽章では、柔和に姿を変え、そして未完のフィナーレではさらに、第1主題部末尾でトロンボーンの(悪魔ではない)温かい神の声となり、第3主題部でついに、喜びの象徴であるトランペットの輝かしい音色に豹変するという「結論」を見ることができたのだろう。

 また、全体として田舎じみた親しみやすさをも感じさせた。曲が始まって間もなくの、木管のアタックが朴訥としていて、ここで早くも「野人ブルックナー」を感じさせた。その後も、例えば第1楽章第2主題部のフレーズの頭を縁取るホルンの四分音符が、やはり朴訥としていて良い。第1楽章のコーダでは、テ・デウム音型による下降コラールを吹く木管楽器も、やはり朴訥とした味わいがあり、村人が祈りの言葉を述べているようにさえ思われた。大森と金井は2日目の開演前、チューニングが始まる寸前まで、この箇所の音程確認を執拗に繰り返していた。その成果がこのように生きたのだ!

 そして、音それ自体が美しい大阪フィルの魅力が、ブルックナーの音楽の魅力を一層引き立てた。第1楽章最大の難所R(再現部第1主題部末尾)は、大フィルが誇る弦の音色が濃縮されたようで、人間的温かさを感じさせた。これがやはり温かみのある第2主題再現部を導くのである。また、高橋のホルンや篠崎のトランペットは、静かなコラールでの渋い音色が良い。トランペット隊は3人の和声が良く、特に第3楽章J直前の天国的な弱音のリズムでは、遠くで鐘が鳴っているような音色を聞かせた。また、木下雄介率いるヴィオラや近藤浩志率いるチェロ、金井のクラリネットといった、人間の声に近い音域の楽器が、とりわけ温かい音色を聞かせた。第3楽章でのチェロ・ベースの支えはまさに「頼りたい!」と思わせる安心感がある。また、やはり第3楽章のカタストロフィの後、長い静寂から最初に立ち上がるヴィオラとクラリネットの温かい音が心に染みる。

 なお、「愚直な演奏」と書いたが、実は楽譜を随所で改変していた。全編で見られるのはボウイングの変更で、音楽の流れを重視する尾高らしく、(連続ダウン・ボウではなく)返し弓を多用。また、第1楽章再現部第1主題部のユニゾン主題直前のデュナーミクは、レーヴェ編曲版のそれを採用していた(尾高は前回の大フィルでの演奏でもそうしていた)。レーヴェ編曲版のデュナーミクは、第3楽章第1主題部の再現部でも採用されていた。いずれも、師ブルックナーを愛した弟子のレーヴェと、ブルックナーを愛する尾高の感覚に、重なる部分があったのだろう。僕自身はゴリゴリの原典版主義者だけど、彼らの気持ちもおおいに理解できる。極めつけは第3楽章の最後。原典ではピッツィカート3連打であるところを、レーヴェ編曲版を取り入れ、アルコの伸ばしを2回弾いてからピッツィカートを1回入れて納めた。アルコで弾く弦楽器に「1音のみのコラール」のような温かみを感じるので、原典版主義者の僕でさえ「レーヴェ版も捨てたもんじゃないな」と思っている箇所だ。ブルックナーにとって聖なる数字である「3」回のピッツィカートに、重要な信仰告白的意味があることに疑いはない。それを壊すものであるのにもかかわらず、今日の改変は尾高がブルックナーを愛し抜いた末に行きついたものなのだろうと腑に落ちた。敬愛するブルックナー博士に、誇りに思っている大阪フィルの弦のアルコを花束にして捧げたい。そのような思いが伝わってきた。

posted by ちぇろぱんだ at 19:01| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする