2020年11月19日

遠藤啓輔のコンサート日記 2020.11.13・14

大阪フィル定期に音楽監督の尾高忠明が帰ってきた(2020.11.13・14、フェスティヴァル・ホール)。
 1曲目は尾高得意の20世紀イギリス音楽から、グレイス・ウィリアムズの『海のスケッチ』。弦楽のみの作品だが、各パートがポリフォニックに独自の動きをしていて、分厚いオーケストラのような聴き応えがある。とりわけサイモン・ポレジャエフがリードするコントラバスは、ただ刻んでいるだけでも存在感がある。旋律線の妖艶な動きや、メロディーに仕込まれたシンコペーション、そして要所を締めるユニゾンに意外性があり、人知を超えた海の様相が見事に描かれている。5楽章からなる作品だが、尾高がこれを選んだのは後半のマーラー5番に合わせてのことだろうか? マーラー5番が第3楽章に特別な重みがあるのと同様、『海のスケッチ』も「セイレーン海峡」と題された第3楽章が特別な印象を残す。各パートのトップ奏者(チェ・ムンス、田中美奈、木下雄介、近藤浩志)が弾くソロが妖しい魅力を放っており、これらが魔性の妖精たちを表現していることが容易に連想された。
 後半はマーラーの交響曲第5番で、自発性のある生命力があふれる大フィルの真骨頂が遺憾なく発揮された。象徴的だったのは第3楽章や第5楽章に挿入されたフーガの表現。遅れて入る各パートがいずれも、待ちきれずに飛び乗るようなスピード感をもって突撃し、生命力が暴発するかのような迫力を見せた。全体を通して、スフォルツァンドやスビート・ピアノの入れ方にしなやかなうねりがあり、生命体がのたうち回っているような凄まじい印象を受けた。こうした荒々しさとは裏腹に、副旋律群や背後を支える和声が実に丁寧に描かれていたのも、今日の名演を支えた要因だろう。近景で生き生きと動き回る主旋律の背景に、落ち着いた風景が見えているようで、遠近感があった。そして何と言っても、力を抜くべきところで抜けていたのが今日の演奏の最大の特長であった。第1楽章の葬送行進曲におけるダラッとした虚脱感、第3楽章の室内楽的な舞曲における力みのない軽やかさが印象的で、だからこそ、フル・オーケストラが全力で切り結ぶ場面との対比が鮮明になり、その緩急が音楽に熱い血を送るポンプのような働きをしていた。
 1・2楽章と4・5楽章をアタッカで演奏することで、3部構成であることを明確に示し、長大な曲の把握を分かりやすくしていた。第1部はとりわけ第2楽章が印象的。コラールを歌い出しては邪魔される、という動きが繰り返され、ようやく長いフレーズのコラールが成立しても消化不良感を残していたのが後半に向けて後を引いた。
中央に位置するスケルツォは、主部とトリオの輪廻のような繰り返しが、徐々に無限地獄のような様相を呈してくる。この膨大な音楽に一本の串を通していたのは、もちろん高橋将純の雄渾なホルン・ソロだ。この楽章はスケルツォとしては破格の巨大さだが、このような怪物的スケルツォには前例がある。ロットだ。第2交響曲と同様にこの第5交響曲も、マーラーがロットから受けた多大な影響が反映した作品だと確信した。
第3部前半のアダージェットは、平野花子のハープが強めのアタックで、原始的な琴のような印象を醸し出した。魑魅魍魎が蠢くような原始的な印象のある第1楽章とパラレルな関係にあることを感じた。そしてフィナーレの第5楽章では、やはりパラレルな関係にある第2楽章で消化不良に終わったコラールが、篠崎孝のトランペットを中心とした輝かしい響きで、ようやく壮麗な頂点を作る。このコラールを茶化してしまうお祭り騒ぎのようなコーダに、僕はいつも納得がいかない。しかし今日は理解できた。第2楽章でのコラールの否定、そしてスケルツォでの無限地獄、これらを経験した後で聴くフィナーレのこのコラールは、苦労に苦労を重ねてたどり着いた救済だ。しかしマーラーは、ようやく到達したそのゴールに納得できず、せっかくの救済を否定するために馬鹿騒ぎのようなコーダを敢えて書いたと感じた。いわば第4交響曲のフィナーレ -希求していたはずの天国にたどり着いてみると、その能天気さに幻滅してしまったかのような音楽- と地続きにあることを感じさせた。これらの作品は、救済を求めつつ、しかし本当に救済されてしまうことを何故か忌避してしまう、マーラーの矛盾を抱えた複雑な心性が現れた作品なのだ、と腑に落ちた。
posted by ひつじ at 21:09| Comment(0) | 練習風景 | 更新情報をチェックする