2019年11月27日

遠藤啓輔のコンサート日記 〜ブルックナー8番2題〜

 ひと月の内にブルックナーの交響曲第8番(第2稿)を立て続けに聴くという、なかなか稀有な機会に恵まれた。

 まずはクリスチャン・ティーレマン指揮のヴィーン・フィル(2019.11.07。愛知県芸術劇場コンサートホール)。ティーレマンの演奏はこれまでに、これまたブルックナー8番(ハース版)ばかり2度聴いている。いずれも遅いテンポで一貫した堂々たる巨大な演奏であった一方で、そのテンポ感に「無理矢理遅くしている」という固さを感じさせた点に若干の不満もあった。対して今回は、基調テンポの遅さは従来と変わらないが、そこに無理矢理な印象を感じることはなく、自然な音楽感情の発露としてのテンポに感じられた。これは自発性の強いヴィーン・フィルとの協演であることが大きいかもしれない。例えばブルックナー休止から再始動する際に、ティーレマンは棒を止めたまま何の指示も出していないのに、オーケストラが弾き始める場面が多々あった。棒で完全にドライヴするよりも、こうした自発性に任せた方が、音楽の泉がジワリと湧き出すような自然さを感じさせる。

一方で、従来は大きなテンポ変化をしない点が特徴であったのに比べると、今回は要所で大きなテンポ変化を見せていた。特にスケルツォを除く各楽章の展開部でのテンポ変化が大きく、ここで場面が大きく転換するという印象を与えた。僕は、「ティーレマンはブルックナー8番から何がしかの物語を描こうとしているのではないか」という個人的印象を持った。その印象を強くしたのは、第1楽章展開部冒頭のホルン・ソロからだ。こうした管楽器のソロは、指揮者はキューを出すだけの場合が多い。しかしティーレマンは、一点一画にいたるまでこと細かに棒で指示を出し、ヴァーグナー由来のこの主題に人格を持たせようとしていたのだ。そうすると、この巨大な交響曲が、ホルンが演じた主題を主人公とする長大なドラマのように見えてくる。僕の印象としては、巡礼者を主人公とした道行きの物語のように感じた。しばしばブルックナー批判の対象となる雰囲気の唐突な変化も、主人公が道中で遭遇する困難や幸運ととらえられ、すんなり入ってくる。

私見では、故スクロバチェフスキはブルックナー8番の中に受難曲のストーリーを見出し、それを実現するために8番を繰り返し演奏し、最後の読響との演奏で実現したのだと思っている。ティーレマンも同様にブルックナー8番から巡礼者のストーリーを見出したのではあるまいか。指揮者としての道程がまだまだ長いティーレマン。今後もさらにブルックナー8番の巡礼を続けてほしい。

もっとも、こうしたストーリー的解釈を成功させた背景には、音楽の基礎構造を厳格に確実に演奏していたことがある、ということを強調しておきたい。とりわけ、低弦をシモテに配する古典派位置で肉厚な音を出していた弦楽器は、例えば金管楽器が主旋律を吹いている場面での伴奏にメリハリがあり、音楽に太い骨格を与えていた。また、響きの色彩感を決定する木管が、ファゴットを筆頭にしっかり鳴っていたのも頼もしかった。金管も、たとえば第1楽章提示部第2主題における3番トランペットのロングトーンなど、地味だが重要な役割でしっかりと仕事をしており、肉厚な音楽を作り上げていた。

 

曲全体の捉え方が印象的だったティーレマンの演奏とは対照的に、ズービン・メータ指揮ベルリン・フィル(2019.11.21。サントリーホール)は、各ブロックの表現が個別に印象に残った。

まず冒頭、トレモロの弓幅を敢えてプレーヤーごとにバラバラにする奏法(故チェリビダッケがしていた奏法で、今もミュンヘン・フィルに世代を超えて受け継がれている。「チェリビダッケ・トレモロ」と呼んで良いと思う)を採用。これによって、カオス的な雰囲気を効果的に演出していた。

通常ならリズムの鋭さが印象に残るはずの第2楽章は、この日はむしろ横の流れの繋がりが印象に残る個性的な演奏。チェロの主題をブルックナーの指示とは異なる返し弓を使ったのみならず、4小節単位からなる各メトリークの継ぎ目を滑らかに繋げることを意識していたように思われた。

逆に大河的なはずの第3楽章では、各ブロックの表情の違いがはっきり浮かび上がった。興味深かったのはヴァイオリン・ソロ。3人のユニゾンが指定されたこのソロを、コンサートマスター樫本大進のソロで弾き始め、途中から2人加わって3人のユニゾンにしたのだ。オーケストラ全体の音量が徐々に盛り上がることへの対処だろうか? しかし、樫本一人がソロイスティックに弾いている方が遥かに存在感があり、3人のユニゾンになるとむしろアタックが相殺されてオーケストラに溶け込みやすく感じられた。ブルックナーのヴァイオリン・ソロの扱いについて考えるうえで興味深い体験だ。ブルックナーはミサ曲第3番でもヴァイオリンの長大なソロを書いているが、その演奏スタイルを考える上でも面白い。

また、ベルリン・フィルの美しさが際立ったのはハープの分散和音に合わせて奏でられる弦楽器のロングトーン。目立ちやすい最高音よりも、むしろ中音域の音の動きを雄弁に響かせることによって、和声の変化がもたらす色彩の移り変わりを楽しむことができた。そうした静かな和声は管楽器も見事で、とりわけホルン・セクションは、首席のシュテファン・ドールだけでなく下吹きにも役者がそろっているだけあって、静謐かつ濃厚なユーフォニーを実現していた。

一方で、金管が咆哮する盛り上がり部分では、いかなベルリン・フィルといえども弦楽器の音が掻き消されてしまう。しかしながら、首席から末席までまったく手抜かりしない全身を使った弾きっぷりによって、視覚で音を伝えていた! とりわけ、古典配置のため中央に陣取ったヴィオラの激しい全身の動きからは、シンコペーションの伴奏がはっきりと「見えた」。

こうした視覚的にも音が伝わってくる表現は、ポリフォニーの極致とも言うべきフィナーレのコーダで特に効果を発揮した。第1楽章の再現であるトロンボーンの下降音型を中核に据えながらも、別の楽章の主題を担当する奏者が全身を使った演奏で加わる。とりわけ、それでなくても遠達性のある音を誇るフルート首席エマニュエル・パユが、激しい動きによって視覚的にも音を伝えていたのが印象的だった。

posted by ちぇろぱんだ at 18:43| Comment(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | 更新情報をチェックする