2017年05月27日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜ブルックナー5番2題

 ブルックナー5番の改訂版と原典版を続けて聴くというまれに見る幸運な機会に恵まれた。言わば、改訂版の演奏の後に原典版が演奏された9番原典版の初演と同じ体験を、2日に分けて実現したようなものだ。改訂版(シャルク版)の演奏は2017年5月19日、ロジェストヴェンスキー指揮の読売日本響(東京芸術劇場)。原典版の演奏は同20日、ノット指揮の東京響(ミューザ川崎シンフォニーホール)。どちらの会場にも見知ったブルックナー愛好者の姿が目立ち、ロビーの方々で熱心に議論する声が聞かれた。
 全体的な印象としてまず言えるのは、シャルク版の方が目くるめく色彩感があり、響きが変化に富んでいる。第1楽章の最後やフィナーレでピッコロが切り裂くような鋭い音を入れるのがはっきりと聞き取れたが、これも色彩感を一層引き立てる。つまり逆に言えば原典版の方が色彩の変化に乏しいということになるのだが、この変化の乏しさこそがブルックナーの良さである、ということを2つの点で再認識した。まず1点目は、聴く側が落ち着いて音楽に集中できるという点。シャルク版は一つの旋律を異なる木管楽器でリレーして吹くなどして色彩を変化させる。当然、万華鏡のような色彩の変化の面白さはあるのだが、面白すぎる分、歌われている音楽に集中できないのだ。同じ楽器で延々と歌い続ける原典版の方が、どのような音楽が歌われているのかを集中して聴くことができる。2点目は、プレーヤーの自発的な表現のしやすさの点。原典版は長いフレーズを一人のプレーヤーに丸投げしていることが多いのだが、その分、そのプレーヤーは旋律全体を俯瞰して自らの解釈で歌うことができ、結果、全体が生き生
きとした音楽になる。これに対し改訂版は、各プレーヤーは色彩豊かな響きを構成するパーツに徹さざるを得ない。近衛秀麿風に言えば「馬鹿な指揮者が下手なオケを振っても様になる編曲」と言えるのだろうが。
 また、滑らかな音楽の移行を志向するシャルク版に対し、原典版は極端な断絶をいとわない(というか、断絶をむしろ指向している)と言えよう。頻繁に見られる違いとしては、総休止の多い原典版に対し、シャルク版はフレーズの最期の音を長くのばして休符を間詰めしていた。残響の無いホールではシャルク版は効果的だろうが、池袋のような残響のあるホールでは休止の中の残響を聴きたい、という気分になる。そして、原典版では両端楽章に巨大な断絶がある。第1楽章では、弦楽器の静かな序奏に続くトゥッティの巨大な上昇音型。フィナーレでは金管によって荘重に提示されるフーガ音型だ。シャルク版では、第1楽章上昇音型は徐々に楽器が増すように編曲され、フィナーレのフーガ音型は木管主体の響きに編曲されている。スコアから想像した以上に、この編曲は、これらのパッセージの存在感を薄め、音楽の流れの中に無理なく溶け込んでいる印象を受けた。しかし、この圧倒的な断絶があるからこそ、これらの音型の重要さが際立つのではないだろうか。僕が人生2曲目に知ったブルックナーの作品は5番
だが、初心者の中学生でもこのフーガ音型はしっかりと印象に残った。もしシャルク版だったなら、これほどまでに印象には残らなかっただろう。
 また、シャルク版は都会的に洗練されている印象を受ける。これに対し原典版は野暮ったい。象徴的に違いが表れているのはスケルツォだ。原典版はホルンが4本ユニゾンでレントラーを豪快に吹き鳴らしており、土に根差した人々が大勢で地面を踏み鳴らして踊っているようだ。これに対してシャルク版は旋律線が大幅にシェイプアップされており、豪快と言うよりは典雅な印象。ティンパニの改変も原典版のリズム的複雑さスッキリさせている。少なくとも僕は野卑で豪快で複雑な原典版の方が好きだ。ノットの演奏は強弱の大きな変化とリズムの躍動感を生かした生命力あふれる演奏だったため、いっそうその違いが明瞭だった。
 以下は細部について。
 第1楽章冒頭は、シャルク版ではヴィオラの旋律をファゴットが強調しているが、ロジェストヴェンスキーはそれでもヴァイオリンに「まだ大き過ぎる、もっと小さく!」という指示をジェスチャーで出していた。この冒頭は弦のみの音色が良いのだけれど、シャルクによるヴィオラへのファゴットでの補強は現場的判断として妥当なものだったのだろう。なお、コンサート後のマニア仲間同士の宴会では「ブルックナーはあまりにもファゴットを冷遇するから、シャルクはファゴットの出番を増やしたのでは?」と(あくまでも酔いに任せた)仮説が出た。
 第1楽章第1主題、ノットはクレッシェンド・ディミヌエンドを強調して雄弁な歌謡性と動的な生命力を出す。この生気溢れる生命力はこの日の演奏の印象を決定づけた。
 第1楽章展開部、ホルンとフルートのソロを支える弦楽器は、原典版はすべてトレモロだが、シャルク版は9番冒頭と同様、コントラバスだけ伸ばし。音響的には両者の違いはほとんどないが、雰囲気として、シャルク版は落ち着いた印象を与えるのに対し、原典版はどこか胸騒ぎを感じさせる。ノットの演奏は、この胸騒ぎが第2楽章の伏線になっていた。第2楽章第2主題部で、トランペットによる主題確保を、チェロとコントラバスの猛然たる刻みが煽情的に盛り上げていたのだ。
 第2楽章、第2主題部の後段で、ファースト・ヴァイオリンがコンサートマスター長原幸太のソロになる部分が見られた。これはスコアには無いので、ロジェストヴェンスキー独自のアレンジだろう(ほか、フィナーレでも長原のソロがあったが、これもスコアにソロの指定はない)。ブルックナーの音楽では、意外と弦楽器をソロにしても違和感は無い。初期ではミサ曲第3番から、後期では第8交響曲まで、ブルックナーは弦のソロを上手に使っているので、もともと弦のソロを受け入れやすい音楽なのだろう。朝比奈隆も第4交響曲第2楽章の最後でヴィオラを小野眞由美のソロにして効果を上げたことがあった。ブルックナーに手慣れた指揮者は弦のソロを大胆に使い、そして効果を上げる直感を持っているようだ
 第2楽章、チューバを加えたシャルク版の響きは原典版と異なるのか、注目したが、予想以上に違って聞こえた。こうして聴いてみると、チューバの音色はかなりコントラバスに近い印象を受けた。従って、チューバが加わったトロンボーン合奏は、チューバによって弦楽器との橋渡しがなされ、オーケストラ全体とのブレンド感が増していた。これはシャルク版の良さであると同時に、原典版ならではの個性を失っているとも言える。チューバの無い原典版第2楽章は、トロンボーンがオーケストラ全体とは馴染み切らない自立性を保っており、3本のトロンボーンの音色は「独立した神の王国」ともいうべき存在感を持つ。ブルックナーが後期作品においても要所でチューバを除外したトロンボーン3本の響きを重視したのもうなずける。
 第3楽章、ヴァイオリン両翼配置で演奏したノットは配置の面白さも目立った。特にトリオでは、伴奏と旋律の両ヴァイオリンでの役割分担が視覚的にも音響的にも面白い。
 第3楽章、スケルツォ再現部を、リピート記号によって実質的に半分にカットされているのは、やはり長いもの好きの僕としては「短すぎる」と感じる。
 シャルク版フィナーレ冒頭。原典版でクラリネットで吹いている動機をトランペットに変更したのは、「神を称える楽器としてのトランペットの意味を重視したんじゃないかな」と金子建志先生。なるほど、クラリーノ(トランペット)では危なっかしいから、ブルックナーはクラリネットで代用した、ということかな。その意をシャルクが汲んだわけか。シャルクはブルックナーの信仰心の篤さを理解していたのかも。シャルク版では全体的にトロンボーンの活躍の場がカットされているが、その分、フーガでのトロンボーンの神聖な印象が強まっている。シャルクは「野人ブルックナー」への理解には乏しかったが、「信仰者ブルックナー」はしっかりと理解していたのかな。
 フィナーレの第1主題は、ノットは返し弓で始めて3連続ダウン・ボウで締めくくり、動的な印象と武骨な印象を両立。これに対し、ダウン・ボウのボウイングが削除されたシャルク版のロジェストヴェンスキーはすべて返し弓。洗練されたシャルク版には確かに連続ダウン・ボウは似合わない。
 シャルク版フィナーレのカット部分は、形式の整合性以前の問題として、「無理やり繋げた」という印象を強く受ける。たとえ原典版を知らなかったとしても、違和感を覚える所だろう。
 シャルク版で別動隊が入る部分、僕は伴奏の細かい木管の動き(ブルックナーは全く書いていない、シャルクの完全オリジナル)に注目したが、全く聞こえなかった!
 シャルク版フィナーレの最後、金管別動隊はティンパニの更に後ろに一列横隊で最初から陣取り、出番が来ると立奏で加わる。音響効果が絶大なだけに、最後の連打を吹かないのは、やはり変な感じがする。
 コラールに入ってからの2・4番ホルン。トランペットとトロンボーンで補強した(まるでマーラー1番のコラールのよう)シャルク版は、やはりマーラー1番同様に(苦笑)、旋律を目立たせる効果に薄い。ホルンに目いっぱい吹かせた原典版のノットの演奏の方が遥かにこの旋律の存在感と格好良さが引き立った。ホルンだけの音質、ブルックナーはこれをしっかりと認識して作曲していたのだろう。

 写真は、終演後にマニアが自然に集まって盛り上がった宴会場にて。ブルックナー5番のスコアが勢揃い!「みんなメニューを見ないでスコアばかり見てるじゃないの!」と怒号が飛んだ(笑)

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2017年05月21日

♪遠藤啓輔のコンサート日記♪ 〜2017.5.17〜

 関西フィル定期。指揮は藤岡幸男(シンフォニーホール)。
 1曲目はラヴェルのラ・ヴァルス。以前に藤岡が指揮した際、「母の死が作曲の契機になっている」という話を聞いてからようやく理解できるようになった曲だ。その藤岡の指揮だから、やはり華麗な音楽の背景に虚ろな悲しみが感じられる。今日特に印象的だったのは、終盤での上昇音型の連続。人間が神を希求する旋律とも言うべき上昇音型はRVWの5番の終盤でも頻出する。今日のプログラムが上昇音型によって縁取られているということが分かった。
 2曲目はラヴェルのピアノ協奏曲(両手)。ピアノは名手カツァリス。
 第1楽章は静けさと室内楽的簡潔さを強調した演奏。華麗さよりも、孤独な寂しさを感じさせる。
 出色は第2楽章。寂しさの中にも遠い思い出を懐かしむような温かさのある長大なピアノ・ソロを受け止める木管楽器が、びっくりするほどの単調なノン・ヴィヴラート。これによって子供のような(といよりは大人が子供に対して抱いている幻想)純真無垢な音楽のキャラクターが形作られる。魔性の色合いを持った弦楽器や金管楽器が加わって、その子供天国を恐怖の雲が覆うが、怖がる子供をなだめるようにイングリッシュホルン・ソロが優しく歌う。このソロは高名幾子の十八番中の十八番。これほど静かで柔らかく、そして温かい表現は高名以外の演奏で聞いたことがない。
 フィナーレは第2楽章で決定づけられた子供のキャラクターがさらに爆発。快速テンポが、子供の無邪気さを描き出す。「何でもあり」の音楽は、まだ「可能性が何でもあった」子供時代を思い返すような悲しさをも秘めていた。
 カツァリスのアンコールはフランス歌謡のメドレー。洒落た旋律を受け止める伴奏の和声が悲しみに満ちており、華麗で悲しいラヴェルの音楽と見事につながる。あるいは、奥底に悲しみを湛えた上質な喜劇のようにも感じられる。
 最後はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番。藤岡は疑いなくRVWの最高の演奏家の一人だが、今日の演奏はRVWの凄さを一層知らしめてくれる名演だった。
 第1楽章は意外にもくっきりとした響きで、旋律線を明瞭に描き出す。しかしこのような表現を取ったことで、環境音楽的あるいは心地よいBGM的に堕した音楽ではなく、確固たる主張を持った音楽としての形が見えてくる。第3交響曲からの引用が旋律線に見えるたびに、大戦を2度も犯してしまう人類の愚かさを思わざるを得ない。また、旋律が明確に鳴ることによって、調性の持つ色彩感が変転していく様もより良く分かった。中間部の金管の咆哮は、聖堂の中にいるような厳粛さを感じさせつつ、それがそのまま子守唄的な温かい旋律へと変貌していく様が凄い。
 第2楽章はRVWの田園的イメージにぴったりの柔らかな響きを追及。しかしながら、この第2楽章は第4交響曲的な苛烈で激しい曲調なのだ。心地よい響きと攻撃的な音楽の破格の取り合わせによって、この楽章の凄みが倍増した。
 第3楽章は4小節からなる和声の動きが何度も再帰するのが印象的。教会旋律的にも感じるが、マーラー9番の冒頭にもよく似ており、マーラーが持つ死のイメージともシンクロする。
 フィナーレはモデラートとアレグロの対比が鮮明。この激烈な対比はマーラー7番のフィナーレを髣髴とさせる。マーラー7番フィナーレは、人間の枠を超えて、動物も魑魅魍魎もすべて含んだ生命たちの大饗宴、と勝手に解釈しているが、RVWも戦争を犯す愚かな人間に愛想を尽かし、あらゆる生命たちに未来の希望を託したのではないか、と深読みしてしまいそうだ。特にアレグロ部分は楽しげで、虎谷朋子のピッコロから白水大介のトランペットへのソロのリレーが愛らしくて良い。そして、終盤で第1楽章冒頭が再起する様は本当に感動的で、形式の素晴らしさを思い知らされた。しかし、単純な冒頭の再現ではない。絡み合う音たちが異なり、明らかに悲劇性が増している。まるで、一度失われた自然が元には戻らないことを再認識して泣いているかのようだ。しかし最後は、静かながらもくっきりとした形をとった旋律線が、明らかに希望を感じさせる光を放っていた。
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2017年05月13日

遠藤啓輔のコンサート日記 〜2017.05.13〜

児玉宏が神奈川フィルを指揮してブルックナー8番の初稿(28回定期でフィロムジカが関西初演)を演奏(みなとみらい大ホール)。
 児玉によるプレトークがあったが、ドイツ在住らしいヨーロッパ仕込みの発想が新鮮。以下、児玉語録の抜粋。
「ブルックナーの手紙には?ここまでお読みいただきありがとうございます”という表現が頻出する。ブルックナーはヨーロッパでは珍しい、他人の気持ちを考える人物だったのではないか。」
「ブルックナーはオルガン即興演奏の名手だったので、作品を実際に演奏して聞いてもらうことの重要性をわかっていたはずだ。改訂癖は、巷間言われているような?言われるままに書き換えた”的な単純なものではないだろう。」
「改訂された作品それぞれがやはりブルックナーの独自性を持っている。ある意味、ブルックナーは自分の芸術に大変な自信があったとも言えるのではないか。」
「8番初稿の最大の特徴は、アダージョの頂点がC-durになっていること。Cはキリストの頭文字。そこに三位一体の象徴数である3回のシンバルが鳴る。」
「アダージョで、トロンボーンが一人でヴァーグナーの引用を演奏する部分がある(おそらく77〜78小節目のこと)。この旋律の歌詞は“あなたにすべてをゆだねます”。ここでの“あなた”とは、神なのか? それともヴァーグナーなのか?」

 演奏は冒頭から初稿ならではの魅力全開。空隙が多く、そして旋律線がより明瞭な初稿は、音楽が「無」から徐々に徐々に形を成していく様が雄大に感じられる。そして、「音楽が形を成した!」と印象付けられるのは何と展開部に入って最初にティンパニが鳴る部分。そこまでが巨大な序奏であるように印象付けられた。
 濃厚な歌を重視する児玉の演奏は、粘り強い遅いテンポで、ボウイングも指定を無視して返し弓を多用。その一方で、部分的には極端にテンポを上げる。そのアップテンポの部分はおおむね、細かい伴奏音型に断片的な旋律のかけらが絡みつく複雑な移行部分である。こうした難しい部分で児玉は敢えてテンポを煽り立てて崩壊すれすれの危うい音楽を展開させる。こうして醸成された不穏な雰囲気が、実に効果的なのだ。おそらく初稿を嫌う人にとっては無駄なパセージの典型であろう細かな移行部分を、児玉は、直前まで神の王国のごとく輝いていた壮大な音楽を打ち消すかのような不穏な音楽として、絶大な存在感をもって描き出したのだ。
 第1楽章においては、壮麗なコーダが、一度は不穏な音楽によって打ち消された「神の王国」が、決して幻ではなかったことを再認識する重要な働きをしていることも実感できた。
 ピッツィカートに禁欲的な初稿の効果が生きて、展開部におけるピッツィカートの存在感がかえって浮かび上がった。この部分がアダージョにおけるハープ登場の伏線になっていることが分かった。
 スケルツォは、4小節メトリークだけで構成される簡潔な斬新さを意識してか、テンポ変化を一切しない。しかし、スタッカートを強調する部分と濃厚に歌う部分をテンポはそのままでもしっかりと歌い分ける。音響的には主旋律を歌う2・3番トランペットを主体に硬質でスタッカートを利かせた響きを作る。一方、ホルンの冒頭音型は常にテヌート気味で、主旋律も返し弓で演奏、こちらは濃密な印象を強くした。
 また、Nの直前の木管のディミヌエンドが極めて効果的。流れを重視した児玉のスタイルに良く合っていた。
 トリオは遅いテンポでスケルツォとの対比を成す。健康的な旋律美は初稿ならでは。折り返し地点の低弦のアンサンブルはバロック的な緊密さを持っていて印象的。また、81小節目のトロンボーン・チューバが不穏な雰囲気を放つ。全体に、ヴァイオリンや木管のトリルが目立ち、鳥の声のようだった。
 アダージョは、ハープ(今日は2台)が鳴る部分で、その裏で鳴っている弦楽器が歌として濃厚な存在感を放っていた。ハープは収めのアルペジオを一音一音ゆっくり丁寧に弾いていたのが印象的だ。
件の77小節目のトロンボーンはやはりしっかり強調。
このアダージョにおいて、輝ける「神の王国」の表現と、その直後の「不穏な音楽」によってその輝きを強烈に打ち消す、振幅の幅の大きな音楽表現がとりわけ光った。児玉の主眼は、壮麗なクライマックスを導くこと以上に、そのクライマックスを打ち消す不穏な音楽に置かれているのではないか、とさえ思われた。そして、この「不穏な音楽」の強調は、クライマックスにおいて最高の効果を放った。7番同様階段を登るようにして高みに昇る第2稿とは根本的に異なり、初稿のクライマックスは細かく複雑な「不穏な音楽」が、大胆なちゃぶ台返しによって突然壮麗なクライマックスに転換する。初稿のクライマックスは、その直前の音楽とは全く連続していないのだ。クライマックス直前の不穏な空気を徹底的に強調することで、唐突に「神の王国」の視界が開ける大胆さが強調され、それをシンバルが縁取っているのである。階段状に頂点に向かう7番と、断絶をもって突然頂点に出る8番(初稿)とは根本的に発想が違うのだ。やはり8番を理由に7番にシンバルを入れるのは説明がつかないと確信した。
 このクライマックスでは、客席と舞台上とで聴く6回目の8番初稿にして、初めてここでのピッコロの効果を認識した。吹き抜ける風のようなピッコロの音色がはっきり聞こえたことで、このクライマックスの「神の王国」が、空想の世界のものではなく、実際に頬をなでる風が吹く現実のものとして実感できた。
 フィナーレはやはり初稿の独創性満載のコーダが印象深い。どちらかと言えば弱音にこだわらない演奏をしてきたのが、ここではティンパニを極限の弱音から始め、「無」から再度音楽が始動する印象になる。そして、より多くの各楽章の断片がちりばめられている初稿の効果が出て、「長い長い音楽の旅をしてきたんだなあ」とここまでの約90分間を満足に振り返ることができた。そしてここで最も感銘を受けたのはトランペットのファンファーレ(マーチ?)。柔らかい音色の弱音で透徹したのだ。特にスケルツォにおいて「いくらなんでもトランペットがでかすぎるのでは?」と思わせるほど吹かせてきた意味がここで明らかになった。このコーダのトランペットを一層柔らかく静かに感じさせるための効果を狙ったのだろう。のどかで健康的なトランペットの音は、アンスフェルデンの穏やかで明るい草原を遠くから眺めているようであった。
posted by ゆかもん at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤啓輔のコンサート日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする